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「生きているだけで精一杯」

転院後1日で集中治療室へ
移動となった母。

当時はコロナ禍前だったので
病院への面会も制限なし。

転院直後に状態変化があったりと
これが最後になったら…と
思っては気がついたら毎日のように
面会に行っていた。

集中治療室は一般病棟と違って
自由に出入りできるわけではない。

病棟のインターホンを鳴らして
来たことを告げると
大体待つように言われる。

初日は同意書書いたり
買い物に出たりと時間を潰せたが
何もせずに待つだけとなると
結構しんどいもの。

空き時間があるなら
何をしたいと考えれば
1番寝たい。に尽きたが
病院で寝るなんてできない。

最初の頃はそういった隙間の時間を
持て余してしまっていた。
けれど、ふと合計したら
すごい時間になると気がついた。

何せ仕事をしながら
毎日面会に行くとなると
自分の時間が必然的に不足する。

この切れ間の時間でさえも
惜しいのかもしれない。

自分の時間が奪われている
感覚に陥っていて、
何もできない時間がもったいと感じる
思考になっていった。

どのくらい待ったか
忘れるくらいになって、
やっと声がかかった。

待ちすぎて忘れられては
いないかと心配になるレベル。

前日に首からCVカテーテル、
右手に動脈圧ラインのカテーテルを
挿入していた母。

CVカテーテルは、
首や鼠蹊などの太い静脈に
挿入するもので、
点滴の投与経路となる。

普通の入院だと
腕からの点滴が多いけれど
母の場合は口から食事が摂れず
高カロリーの点滴を
行う必要があったから。

あとは転院後から感染の治療も
重なってしまい、
点滴の数が増えたことや

昇圧剤も使用されており
厳密に管理する必要があり
CVカテーテル管理となっていた。

ちなみに、動脈圧ラインは
通常は左右どちらかの手首の動脈に
挿入されるカテーテルのこと。

1回1回血圧測定せずとも
常に血圧値を把握することができたり、
採血の時に毎回針を刺さなくても
採血ができる仕組みがある。

集中治療室に入室となると
基本的には挿入される。
そういう状態だから
集中治療室に来ているとも言える。

そして、この日の試練は
胸腔ドレーンと腹腔ドレーン。
処置が長引いたようで
憔悴しきっていた。

胸腔と腹腔にドレーンが挿入されたのは、
胸水や腹水がたくさん溜っていたため。

当時、アルブミンという
血管内に体液を保つ働きのある
タンパク質が腸から漏れ出てしまい
とても低い値になっていた。

血管内に保つことができない
体液たちは体内に漏れ出てきてしまう。
それが胸腔や腹腔内に
すごい量溜まっていた。

転院する時点でもすでに
全身浮腫んでいたのだが
転院後も止まることを知らず
日々浮腫んでいった。

とはいえ、ドレーンを入れたからといっても
急に全部抜いてしまうと
全身に影響が出てしまうため
慎重に調整されていた。

私は娘であり、
普段は集中治療室の看護師。

こんなにたくさんの管を
体のあちこちに入れられた状態なんて
普段見慣れているはずなのに、

事の重大さがわかるだけに
自分の家族が同じ状況だと、
やはり不安になるもの。

たくさんの処置を乗り越えた母は
疲れ切っていて、
話しかけても反応は薄め。

意識も朦朧としていて、
見るからに衰弱していた。

頑張った母をただただ労うことしか
できず、本当に無力だった。

こういう時って
なんて声かけしたらいいのか。
会話のない時間がただ流れて
顔だけを見に行くような面会が
続いた。

仕事の前も、仕事の後も、休みの日も。
母が心配であったし
自分が行かないと心配だったから
毎日面会に行った。

母は体調にはムラがあり、相
変わらず全身の浮腫は進行し、
全身はだるそう。

それに加えて
追い打ちをかけるように、
嘔吐と下痢に襲われる毎日。
日にひに酷くなっているような
気さえした。

水も何も口から摂取できない日々。

ただベッドに横たわり、
天井をみている毎日だったと思う。

ある日、ベッドに横になり
虚空を見つめている母に、
何を考えているの?
と何気なく聞いたことがあった。

悩んでいたりしたら
何か聴くことだけでも
できるかもしれないと
思ったから。

そんな予想なんて
ドラマのようなものだったのかも
しれない。
現実はもっと生きた返答だった。

「何も考えられない。
生きているだけで精いっぱい」

そう答えた。

考えていたわけではなかった
悩んでいるわけでもなかった

今、ただ生きているんだ。

何かを問うたり、
答えを求めるのは
酷なことだったと気がついた。

そんな段階にいない人に
何ができるのだろう。

ただ生きてそこに存在して
くれさえすればいいのだ。

入院して精いっぱいな日々、
その日常に問いを投げかけるのは
辛いことだったのだと思う。

その言葉を聞いてから、
この心の叫びを私が残さなければ
ならないと感じた。

記憶にならない日々
本人が記憶できないことを
誰か残さなければならない。

今この時に、この日に
何があったと残さないと
後々の自分も立ち上がれない
気がしたし

その時の自分も
何か役目や使命を持って
生活しないとしゃんとできなかった
のかもしれないとも思う。

母が発する言葉や表情を
目や耳、全てに焼き付け、
記録に残さなくてはと
思うようになった。

当時はA6の小さなメモ帳を
常に持ち歩き、

母の反応を書き留め、
病院側から説明されたことや
治療について記録した。

すごいスピードで過ぎゆく毎日に
少しでもついていくために
無我夢中で書いた。

この日々を何かに残さなかったら、
誰の記憶にも
何も残らない気がしたから。

このブログはそれらのノートに
書き殴られた日記のような
書き留めをもとに、
思い出しながら書いている。

今日という日につながっていると
思えるだけでも
当時書き残した意味が
あったのだと思う。

それに今、このブログは
一つの確かな夢に向かっている。

それは追々説明するのだけど、
母との糊代になる夢なのだ。
これを実現することが
今の原動力。

今日はここまでに。
しばらくはICUでの日々を
回想するブログになります。

最後まで読んでくださり
ありがとうございました。

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