見出し画像

1億3000万の民主主義。 政治について意見を交わすことについて。

#検察庁法改正案に抗議します のツイートが900万を超えるまでの大きなネット上のうねりをつくりだしていることが目下、話題を呼んでいる。

今回、このハッシュタグを使ってのツイッター上の抗議運動には、普段はあまり政治的なツイートをしない著名人たちも多く加わり、そのことが派生的な議論も巻き起こしている。アーティストや俳優などの芸能人が政治的な発言をするのは如何なものか、と。

この議論は世間が自粛ムードでステイホームしている中、火事場泥棒的に検察庁法改正案の強行採決に踏み切ろうとしている政府のやり方に、仕事が思うようにできず政治に目を向ける時間が増えた芸能人たちが一斉に抗議のツイートをしたことでツイートが広まった。それによってトレンド1位を獲得した節もあるため、このツイートの広がりには時勢も追い風となってしまったことは否定できない。

そこで議論になっているのが、「普段歌歌ったり、踊ったり、演じている人たちにはわからないと思うけど」という謎のデフォルトをふっかけて、「彼ら」は政治について話せるはずがないという根拠のない前提によって、ツイートをした芸能人たちを攻撃する動きだ。私はここに、日本の民主主義の風土を枯渇させてしまう大きな原因の一つが隠されているように思う。

どんな人間でも、会話する人間に対して何の色眼鏡や先入観を持たずに話すことは難しい。「この人はどこどこの出身だから、、」「この人はこういう仕事をしているから、、」など、政治的な話をする際に暗黙のうちに前提とされてしまう情報は常に存在する。今回の場合は、仕事というフィルターによって振り分けられているパターンだ。だから逆に、芸能人なのに政治的なツイートをするんだ、という反応も生まれる。

ツイッター上では匿名で相手を攻撃することができる、会話相手の素性が見えない特殊な空間だ。だから、心無い発言も、本心から言うことが容易にできる。今回の「〇〇だから知らないと思うけど」前提は、そのような環境だからこそ浮き彫りになったと言える。そしてこの批判を受けてツイートを削除するに至ってしまったことが、ネット上とはいえ、日本社会で政治に関する意見を自由に言い合う雰囲気を押し込める原因の現れだったと思う。

The Personal is Political. (政治的なことは個人的なことである)

これは私が大事にしたいと考えている言葉の一つで、フェミニズム運動のスローガンでもあった言葉である。「政治」というのは面白いカテゴリーで、関心のない人はたくさんいるが、関係のない人は一人もいない。だから、みんな自由に意見を言うことができ、また、そのような場でなければならないはずだ。もちろんこれは日本の現行の政治体制が民主主義の下に成り立っているからであり、普遍的な原理であると言えないことは歴史が証明している。

そのことを踏まえると、この政治的発言ができる人間に優先順位をつけるようなツイッター上のマウンティングは、すべての人が同様に持つ個人的なこととしての政治的な主張の機会に差を設けていることに他ならず、そのような「よくわかっている人がやればいい」的な空気は、日本のように同調圧力の強い国民性の中で、政治に対する自分の意見を主張することを萎縮させてしまうだろう。同調圧力的に前提を公然と押し付けられることの恐さはここにあると考える。

では、直接対面下での状況ではどうか。

留学から帰国し、久しぶりに会った友達や妹と、ちょっと真面目な会話をしているときのこと。もちろん私も、留学で新たに得た価値観や、自分を形づくる政治思想には少なからずプライドがあり、これが大事だと思って日々生活している。だから、少しでも話す相手と価値観にズレがあるのを感じると、アグレッシブな話し方になってしまっていたことに気づいた。それは、私が考えていることの方がこの会話上正しい、というデフォルトで、それが前提となってしまっているので相手が何でそんなこと(つまり、私と異なる意見)を言っているのか、というところにまで自分に対して問いただす想像力を働かすことができなかった。それは、自分は政治学を勉強しているから相手よりも意見に妥当性があるという無意識の優越性を持ってしまっていたことにも起因するだろう。でもそれは、芸能人をツイッター上で攻撃する人たちと大差なかった。

そんなこんなで真面目に政治の話をすると何となくモヤモヤした後味が残り、あまりそのような話題に持っていかないように意識を働かせていたことにも気づいた。

ただそれでは何も解決しない。対話や会話は民主主義の第一歩だ。言葉で理解し合うのは、人間だけに与えられた特権ともいうべきもので、これを反故にするのは元も子もない。持つべき前提というのは「〇〇だから知らないと思うけど」「自分の意見の方が妥当だ」などという根拠のない自信ではなく、「相手の言ってくることは当然ながら自分とは異なる可能性が高い」「相手の意見も自分の意見と同等に不確実である」という”ニュートラルさ”であると思う。

あらためて、哲学者ヴォルテールのこの言葉が心に響く。

I disapprove what you say, but I will defend to the death your right to say it.

(あなたの言うことには反対だ。しかしあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。)


信念を持って自分の意見を述べることは何にも代え難く大切なことだが、それによって相手の発言権を潰したり、それぞれの意見にランクをつけることは、どの意見も不確実であるという前提にある以上、はっきり言って無意味である。自分の価値観の中に新たな風が吹いたなぁ(例えそれが個人として歓迎できない北風であっても)、相手はなぜそう考えたんだろう?くらいに、一度自分の価値観の殻から抜け出して、高いところから俯瞰で考えるくらいの余裕と胆力が一人一人になければ、1億3000万の民主主義は到底やっていけないのである。