【短編小説】未来の歌

コミュニケーションと感染症は、決して切り離せないものである。


人間の本質は他者と繋がることである。
他の動物とは違い、人間のみが言葉を発せるのは、彼等がより深いコミュニケーションを取ることを望んだためである。

しかし皮肉にも、人が言葉を発し、誰かと繋がろうとすることで、ウイルスはその勢力を拡大させていく。


2200年のパンデミックは、人の「喉」を殺すウイルスによってもたらされた。


COEと呼ばれるそのウイルスは、死亡率こそ低いものの、感染すると非常に高い確率で声帯に深いダメージを与える。

大流行の始まりから20年ほどの時が経ち、COEは依然として世界で猛威を振るっていた。
感染症研究所によると、世界人口のうち、声に何かしらの悪影響が見られた人間は87%。
そのうち声を発することができなくなった人間は70%。

つまり、半数以上の人間が喋れなくなった世界が到来していた。

人間はその間に、声の消えた世界に少しずつ順応していった。

合成音声の機械の声が人間と見分けのつかないレベルになった世界で、思考とリンクさせた小型スピーカー「声帯機」を用い、人々はそれらを喉の代わりとして用いた。

声帯機を装着していれば、頭の中で話したいと思ったことがそのまま音になる。
それが自分の喉から出ないというだけで、特に肉声と遜色のないコンディションでの会話が行えるのだ。

しかし、小型のスピーカーではなく、「ヒト型」のアンドロイドを用意し、彼ら彼女らに会話の代役をさせる、という手法を取る人間も存在していた。

これらの手法はアンドロイド依存を引き起こす恐れがあるため、世間はあまり良い目を向けない。
けれども時としてそれを求める人間がいる。
ここで語られる孤独な一人の青年がそうであった。


「初めまして、新しいご主人様。
私が今日からあなたの<声>を担当する汎用型アンドロイドです。
もっとも、汎用型なので、それ以外の事も多少はできますが」

男はCOEに罹患し、他の大勢と同じように自らの声を失っていた。
その後、彼は声帯機を手に入れようとせず、かわりに少女の形をしたアンドロイドをひとつ購入する。

それはあまり実用的な機体ではなかった。
ヒト型アンドロイドが世に普及して何十年かの記念として生まれた、おもちゃに近い機体。
COEの拡大によって生活が切羽詰まってしまった元の持ち主が競売にかけ、それをこの男が購入した。

こんな状況だからだろう、タダ同然の値段だった。

「あ、念のため言っておきますが、声は仕様です。
不具合なんかじゃありません。
もっとも、私を買ったあなたはわかっていると思いますけど」

彼女は記念モデルであるため、はるか昔に初めて世間一般に受け入れられた合成音声がそのまま採用されていた。
そのため声はぎこちなく、ひとつ感情を示すのにも苦労するほどである。

その声のぎこちなさを引き合いに出すことで、現代の合成音声の進歩と歴史を感じさせよう、というアイデアだった。

だけど、アンドロイド本人からすれば、こんな迷惑な話はない。

ついでに機体のボディも、当時のイメージキャラクター通りに作られている。
そのあまりにも特徴的なツインテールは、彼女が人工物であることを如実に表していた。

今となっては時代遅れも甚だしいその機体を購入し、男はそれを自分の肉声代わりとした。
ゼロイチ、というのが彼女の名前だった。
詳しいことはわからないが、二の腕のあたりに描かれた
「01」
の文字が関係しているのだろう。

それからゼロイチは男の家で、彼の世話をしながら生活した。
家事を始めとした汎用型アンドロイドとしての仕事は、なんでもそつなくこなせた。
だけど、声だけはどうにもならなかった。

ゼロイチは大昔の合成音声を用いて言葉を発するため、他の人間やアンドロイドからしばしばその声を馬鹿にされた。
他の大勢のヒト型の機械にとって、「機械みたいな」部分は嘲笑すべき汚点であった。

男の代わりに話さなければならないタイミング----例えば、買い物で店員型ロボットと話すときなんかがそうだ。
ただでさえ声帯機の代わりをしているゼロイチは目を引く存在なのに、加えてこんなガタガタの声である。
彼女の声を聞いた他のアンドロイドは、笑ったり陰口を言ったりした。

はじめ、ゼロイチは自分の声を深く恥じていた。
「どうして私だけ変な声なんだろう」
ゼロイチ本人は自分の声が無機質であることに落胆していたが、持ち主の男はそれほど気にかけてはいなかった。
むしろ、彼女の人間とは離れた声を愛しているようにさえ思えた。

「あなたは、他の皆さんのように、私の声を馬鹿にしたりはしないのですか?」
ゼロイチは男にそう訊いた。
男はかぶりを振り、『しないさ、するわけないよ』と返した。

そうなんだ、でも、どうしてだろう。
ゼロイチは男がわざわざこの声の自分を選んだ理由をずっと考えていた。

男がゼロイチに言葉を返す、と言っても、もちろん実際に声を出したわけではない。
彼はCOEに喉をやられているし、声帯機も装着していないから、当然自分一人で言葉を発することはできない。
だから、ゼロイチが男の求める言葉を代わりに音にする。

男がゼロイチと会話をするときは、どちらの言葉もゼロイチが発することになる。
なんだかこれは私の一人芝居みたいだな、とゼロイチは可笑しく思っていた。


「わざわざ私が声に出さなくても大丈夫ですよ、思考は共有されているのですから。
私と会話をするとき、あなたは何も話そうとしなくていいんです。
頭で考えるだけでいいんですよ」

ある日ゼロイチは男にそう言った。
けれども男はこの不思議な会話方法をやめなかった。

『電子の歌姫はさ、僕たちみたいな『話せない』人間の代弁者だったんだよ。だからこれでいいんだ。
君が声を発することに意味があるんだ』

どういうことなのか、ゼロイチにはあまり理解できなかった。

『それに、確かにカクついた声だけどさ……200年ぐらい前にはこの声が世界を席巻していたんだ、嘘じゃない』

「本当ですか。
こんな不安定な声を支持する人間なんて、いるんでしょうか?」

『いるさ。
むしろ、そんな不安定で、不完全だからこそ受け入れられたんだ』

ゼロイチにそう言わせ、男は微笑んだ。
どういうことなのだろう、と彼女は首を傾げた。


ある日、男は古いコンピュータを起動させ、その中にあった音楽ファイルを再生した。

「あ、この声、私と同じ声ですね」

それゼロイチのベースとなった合成音声による歌だった。
今となっては誰も聴かない、大昔の歌。

『初めての音。なんだか、素敵な響きじゃないかな?』

男が嬉しそうにしている理由がわからなかったが、何となくそれは自分にとって親しみ深い言葉であるように感じた。
この日から、男はヘッドホンを着けずに、ゼロイチにも聞こえるように合成音声の歌を流すようになった。

彼は私と同じ声の合成音声の歌が好きらしい。
まあ、こんな私を買ったのだから、考えてみれば当然か。

それからゼロイチは歌を練習した。

いつまで経っても彼女はこの無機質な機械音声から抜け出すことはできない。
けれども、練習を続けるほどに、彼女の声は少しずつ滑らかなものへと成長していった。
本当に少しずつだったけれど、彼女にはそれが嬉しかった。

男が昼寝をしている時、ゼロイチは彼を起こすまいとして、外の公園で歌の練習をしていた。
人の多くが声を出せなくなっており、
ペストの流行時と同じくらい仰々しいマスクで口元を覆う中、鳥だけが高らかに囀っていた。

公園の砂場で3人の子供が遊んでいた。
2人は胸元に、1人は腰に声帯機を装着している。
そこから人と同じような声を出して、彼らははしゃぎながら砂を掘っていた。

やっぱり、声帯機があったほうが便利だよなあ、なんてことをゼロイチは考えていた。

子供たちは自分の声が出せなくても、声帯機のおかげでそれなりに楽しそうだ。
男が楽しくなさそう、というわけではないけれど、それでもやっぱり不便じゃないのかと心配してしまう。

ゼロイチが皆に笑われるのと同じように、男自身が否定されることもあった。
男ははたから見ればれっきとしたアンドロイド依存者だ。
買い物をする時をはじめ、家を出る時は常にゼロイチと一緒だった。
出かけるたび、周りの人間が余計な心配をしたり、頼んでもいない説教をしたりと散々だった。

それなのに男は変わらなかった。
出先で何度面倒事に遭っても、次の日にはゼロイチの手を引いて嬉しそうに家を出るのだ。


「いいんですか、いつも。
あなたが後ろ指をさされる必要なんてないんですよ。
わたしを置いて出掛ければいいじゃないですか」
ある日、いつものように二人で買い物に出掛けた時、ゼロイチがそう言った。

彼にとって、買い物の際に声が出せないことは少し不便だろう。
けれど、それでも知らない人に怒られるよりはずっとマシだろうとゼロイチは思っていた。

同時に彼女は、男が他の皆と同じように声帯機を使えばいいのではないか、なんてことを思った。
だけど、それは口にしないでおいた。
もし男がそれを認めてしまったら、自分は一緒に居られなくなる。
そんなことはきっとないとわかっていながらも、少し不安に思っていたからだ。

『いいよ。こんな時代、どうせ救われないんだから。
後ろ指をさされるだけで幸せになれたら、むしろラッキーなくらいだ』

そうやって男は彼女の提案を一蹴した。
「今言った幸せとは、つまり、何のことですか?」
ゼロイチがそう訊くと、男は彼女の手を取った。
『さあ、何だろうね?』
彼は屈託のない笑みを浮かべる。

暫く考えたあと、ゼロイチはその言葉の意味を理解して、途端に顔を赤くした。

ゼロイチは男が自分に向ける愛情のことを深く理解していた。
もちろん、ゼロイチ自身も男のことが好きだった。
けれども、自分の想いは彼に伝えないようにしよう、そう誓っていた。
彼が他人から今まで以上に否定される姿を見たくはなかった。

好きだなんて、言えないな、絶対。


ゼロイチが家で歌の練習をしている時、男はいつも幸せそうにしてそれを聴いていた。
どこかのおばあちゃんが裁縫をしながら座っているような、ロッキングチェアをゆらゆらと揺らしながら。

時には彼女の歌を子守唄代わりにして、そのまま眠りに耽ることもあった。

もう、わざわざ公園に出て練習をする必要もないな。
ゼロイチはそのように感じていた。

「あなたはどうしてこの声が好きになったんですか?
流行りじゃないし、あまり上手ともいえない、この歌声を」
ある日、ゼロイチはそんな質問を男にぶつけた。

『僕はさ、かつてこの声に救われたんだ』
男は昔の話を始めた。

小さな頃の男は、今よりもずっと暗い性格をしていたらしい。
それ故に同級生の標的にされてしまい、やがて自分の部屋から出なくなった。

他人が何かを喋るたび、それが自分への誹謗中傷であるかのように感じていた。

引きこもった彼は、電子の海に飛び込んでいった。
けれども、そこにあるもののほとんどは、彼にとって何の安らぎにもならなかった。
あれもこれも、クラスの誰かが話していたな、なんてことを連想してしまう。
流行りの映像作品も、ポップミュージックも、それら全てが自分を傷つけた人々のものであるように感じたからだ。


そんな彼にとって合成音声の歌は救いだった。
あてもなく動画サイトをさまよった末に、偶然聴いた数百年前の楽曲。
合成音声が話題になり始めた、一番初めの頃の作品。
クラスの人間が話題にも上げないそれらの楽曲を聴いている間は、自分を苦しめる人間のことを忘れていられた。

機械の声にはぬくもりがない、なんてことを言う人は、今も昔も大勢いる。

けれども、人間の声全てが刃のように感じていた彼にとって、合成音声はむしろ人間の声よりも優しい音色だった。

少しぎこちないその電子音が、肉声ではないことを示す何よりの証拠だった。

あるいは、その歌声の匿名性が良かったのかもしれない。
誰かの歌声は歌っているその人のもので、けれども、機械の歌声は誰のものでもないのだから。


『もしかすると僕は、自分の不完全さを、君の機械的な歌声と重ねてしまったのかもね』

男は少し自嘲するようにそう呟いた。
だけど、例えそんな陰気な理由だとしても、それが男にとって何よりの慰めになった。

不完全な歌声が認められる世界があったのだ。
不完全な自分が生きることを赦される世界だって、あるのかもしれない。

そんな風にして、かつての彼はゼロイチと同じ声の合成音声に救われた。

傷ついても、音楽を聴くと少しだけ上を向けるようになった。
今でも他者に疎まれたりすることはあるが、それでも拠り所があるだけ随分マシな気持ちだという。

決して好きとまでは言えないけれど、この世界に生きる人のことも、目を背けるほどに嫌いではなくなった。

バーチャルな世界が、現実世界に一歩踏み出す勇気をくれたのだ。


男が話し終えると、それを聞いたゼロイチの瞳から涙がぽろぽろと零れた。

その歌は私自身が歌ったものではないのかもしれない。
けれども、私と同じ声が大切な人を救ったのだ。
そう思うと、とても嬉しかった。

これから先、自分の歌も、彼を幸せにできるのだろうか。
不安とかすかな喜びが入り混じり、
ゼロイチはわんわん泣いてしまった。

「私、もっと歌、練習して、あなたを救いますから」
アンドロイドにあるまじきくしゃくしゃの顔で、ゼロイチはそう言った。
男はそんな風に思ってくれる自分の片割れを愛おしく思い、頭を撫でた。

158cm、42キロ。
人間そっくりの感触に造られたその身体は、とても柔らかかった。

ゼロイチは男に大切にされていることを嬉しく思い、彼の頬にキスをした。
(唇にするのは恥ずかしいし、少し怖かったからできなかった。)

彼女にとってのファーストキスは、涙の味がした。
そこで彼女は、彼も自分と同じように泣いているのだと気づいた。
それを指摘すると、
『君ほどぐちゃぐちゃな顔はしていないだろう?』
と言われたのが少し悔しかった。


男にとって、話せなくなったのはそれほど絶望的なことではなかった。
元々現実の人間と関わる機会が多くなかったからだ。

「じゃあ、何が怖いんですか?」
ゼロイチは男に質問した。
『孤独であることが怖いんだ』と彼は答えた。
だからヒト型のアンドロイドと一緒に暮らすことにしたのだろう。

孤独が怖いのに、人間が苦手だなんて、なんて勝手な主人なのだろうか。

……でも、ということは、私は彼の傍に相応しいのかもしれない。
そう思うと、ゼロイチは嬉しくなった。

「私が傍にいるから大丈夫ですよ」
ゼロイチのその言葉を聞き、男は彼女の柔らかい機械の身体を抱きしめた。
男は彼女を今まで以上に大切にしようと思った。


男はゼロイチをまるで恋人のように扱ってくれた。
自分のことを恋人扱いしてくれることに彼女は喜びを感じた。
今の自分は、何でも素敵なものに感じることができる、そう感じていた。

例えば、窓から差し込む太陽の光がそうだった。
かつてはそれをボディが焼けてしまうだけの厄介なものだと
思っていたけれど、今は違う。
彼はいつも朝陽に気付いて目を覚ますのだ。

だから、太陽は私に幸せな一日の到来を告げてくれる、とても素敵な存在。
朝食の準備をしつつ、窓から陽光が差し込むのを心待ちにしている自分がいた。

たまに、男がいつもと同じ時間に起きない日がある。
空に雲が指して、太陽が隠れてしまっている時なんかだ。
晴れの日だけ太陽を向いて目を覚ますなんて、彼は向日葵か何かなのだろうか。

朝食ができても一向に目を覚まさない男に、ゼロイチはどうしたものかと思いあぐねていた。

「……起きないなら、キスしてしまいますよ?」
言いながら、なんて恥ずかしいことを! と自分で後悔した。

彼女に気付いた男は薄目を開き、それから両手を彼女の後ろ頭に添えた。

どうしたのだろう、とゼロイチが考えた一瞬の間に、彼女の顔が男の顔の目の前へと引き寄せられた。


自分から言いだしたものの、当然心の準備なんてできていたはずがない。

ゼロイチは頭が真っ白になり、その日は一日中、使い物にならなくなってしまった。
でも、その幸せな感触は次の日になっても覚えていた。

けれど、そんな彼女の初々しさも、時が経てば身を潜めてしまう。
ゼロイチは頻繁にキスをせがむようになった。
ご飯を作ったときや洗濯をしたとき、彼女は何かと理由をつけてご褒美を求めた。

唇を重ねるのはなんだか好きだ、ゼロイチはそう感じていた。
もっとも、彼女のそれは、恋人同士のするものというより、小さな女の子の戯れみたいなものだったけれど。

彼のことをアンドロイド依存症だ、なんて考えていたけれど、どちらかといえば、私が人間依存症なんだろうな。
ゼロイチはそんなことを思った。
まあ、いいか。

「喋れなくなったあなたの口は、きっと生きるためだけについているんですよ」

『生きるって言うのは、呼吸をするっていうこと?
それとも、食事をするってこと?』

「いいえ、違います。私とキスするためです」
確かにそれは生きるために一番必要な行為だ、二人はそう言って笑った。

声が出なくて、友人もいなくて、アンドロイド依存症の男。
時代遅れの合成音声で、人間の紛い物の感情持ちで、とびっきりのキス魔のアンドロイド。

「二人合わせても、人間ひとり分にすらならないかもしれませんね」とゼロイチは笑う。

<後半>

それから間もなく、COEの変異株が世間を恐怖に陥れた。

変異株は以前のCOEよりも遥かに凶悪であり、かなりの確率で人々を死に至らしめる病へと変貌した。

20年間かけて築き上げてきたウイルス対策なんてとるに足らないものであることを証明するように、あっけなく人間はウイルスに負けた。

彼も多くの人類と同じようにCOEの変異株に罹患したが、奇跡的に一命をとりとめる。
代わりに後遺症として両足の機能を失い、車いすでの生活を余儀なくされた。

出かける時にはゼロイチが彼の車椅子を押してくれた。
男は、ゼロイチがただの声でなく、ヒト型アンドロイドであったことに感謝した。


変異株は時間の経過とともにいくつもの種類へと派生しており、派生したものの中には再び感染するものがあるという。

すでに人口は5、6割程度削られている。
どのみち人間はじきに全員死んでしまうのだろう、それが誰の目にも明らかな状況だった。
そんなやっていられない世界の中で、男は旅をすることにした。

死に場所探し、みたいなものだろうか。


「それは何ですか?」
男が荷造りをしているとき、ゼロイチはひときわ大きな箱を指差して尋ねた。

『昔少しだけやっていた楽器だよ。
押し入れの中に眠っていたんだ』

「はあ。
どうしてまた、そんなものを持ち出そうとしているのですか」

『うーん、やっぱり、音楽が好きだから、なのかな』

男は一人で塞ぎ込んでいる時に楽器を練習したのだという。
自分を救ってくれた音楽を、彼も奏でたかったのだ。
そして、ゼロイチの歌声を毎日のように聴いているうち、その時の気持ちが思い出されてきた。

「どうして、歌は練習しなかったんですか」

『合成音声を愛していた僕にとって、
自分の声は好ましくないものだったからだよ』
男はそう返した。

ゼロイチは「勿体ないことをしましたね」と不貞腐れたように言った。
きっと男自身が嫌っているだけで、それでもゼロイチからすれば、羨ましくて仕方のない<人間の声>なのに。

男はいつものように手を伸ばし、ゼロイチの頭を撫でた。
『いいんだ、今は僕の分身が歌を練習しているから』
適当に言いくるめられただけなのに、
それでも嬉しくなってしまう自分が悔しかった。

ゼロイチは男の車椅子を引きながら、外の世界を旅し始めた。

それは平和な時代からすればかなり気味の悪い光景だった。
ほとんどの人間は室内で死んでしまうけれど、いくらかは外出したまま死んでしまう人間もいた。

例えばホームレスだったり、乱心した人間だったり、家族を失ったまま罹患した子供だったり。

そのおかげで腐乱臭の充満する世界を二人は進んだ。
できれば足よりも鼻が潰れてしまえば良かったのにな、と思いながら、男はハンカチを手に当てた。

やがて男とゼロイチは公園にたどり着いた。
広い公園は比較的清潔で居心地が良かった。
砂場ではぼろぼろの格好の子供たちが砂遊びをしていたり、滑り台を下っていたり、ジャングルジムを登ったりしていた。

こんなご時世で親が外出を許すはずがない。
という事は、ここにいる子供たちは家族を失ったのだろう。

中には泣いている子もいた。
大声で泣きわめく女の子は他の子供たちから疎ましがられ、やがて石や砂を投げられ始めた。

泣いていた子は彼等から少し離れた場所に行く。
けれどもしばらくすると、公園の中の別の場所で、必死に声を殺しながら再び涙を流していた。
他に行く場所が無いのだ。

木に囲まれたここは少しばかり安全で、この外に行ってしまえば、死体と腐敗した何かの匂いで満ちている。
たとえ疎まれても、石を投げられても、この場所は少女が泣くことのできる唯一の場所だった。

そんな彼らを見ていると、ゼロイチまで泣きそうになった。
やっぱりこの世界は、悲しいだけなんじゃないか----そんなことを考えてしまった。

「ねえ、この人たちを救うことはできませんか」

現実的に無理だとわかっていても、ゼロイチは男にそう訊かずにはいられなかった。

『一つだけ方法があるかもしれない、とは言っても、僕のエゴである可能性の方が高いけれど』

「それは、どんな方法ですか?」

『塞ぎ込んでいた昔の僕がさ、救われたきっかけがひとつあるんだ。
僕と彼等は違う人間だし……彼らがどれくらい辛いのかはわからない。
みんながみんな、僕と同じ方法で救われるはずはない。
それでも……僕たちが伝えられるのはそれくらいだよね?』

ゼロイチはすぐに、それが何のことなのかを理解した。


少し恥ずかしいけれど、彼女は自分の合成音声でメロディーを奏でることにした。


公園に用意されていた簡易なステージの上に、男と二人で立った。
きっと、こんな世界になる前は小さな野外ライブなんかが行われていたのだろう。

男は用意していた楽器を取り出す。
それからゼロイチにマイクを差し出した。
こんなものまで持ってきていたなんて。
ゼロイチは少し驚きながらそれを受け取った。

眼前には、全部合わせても20人ぐらいしか座れないような長椅子が並んでいた。
たったそれだけのキャパシティなのに、もちろんすっからかんだ。

老人が一人、横たわって寝ているだけの状態の観客席で、ゼロイチは歌い始める。

二人が音を奏で始めると、寝ていた老人が目を覚まし、じっとその音に耳を傾け始めた。
それまでは遊具で遊んでいた子供たちも、その姿に興味を持ち、一人、二人と近付いてきた。

ゼロイチはいくつかの愛の歌を歌った。
家で彼が何度も聴かせてくれた曲。
彼女が何度も練習した曲。

『へたくそな歌』
曲間に一人の子供がそう発した。

ゼロイチはそれを聞いて少し悲しくなったが、それでもそのまま歌い続けた。
自分の隣で幸せそうに演奏をしている男を見ていたら、そんなことどうでもよくなってしまったからだ。

そうしてゼロイチは、男から教えてもらったいくつかの曲を歌い終えた。

7,8人いた子供たちは、最後には2人だけになってしまっていた。

けれども、そのうち一人は笑顔でこちらに拍手を向けてくれていた。
もう一人は涙を拭いながら、『ありがとうございました』とお礼の言葉を伝えてくれた。

初めはちょっと不安だったけれど、歌って良かったと思った。
心からそう思った。


演奏の後、鉄製のスキットルを片手に持った酔っ払いの老人が、拍手をしながら男とゼロイチのもとにやって来た。
もちろん声は胸元の声帯機から出ている。

老人はスキットルに口をつけ、声が出なくなった喉を強いアルコールで焼いた。
彼にとって口はウィスキーを飲むためだけの道具らしい。

『よお、素敵じゃねえか、楽器の兄ちゃんも、歌う嬢ちゃんも。
……まあ、どっちも下手くそだったけどな』

「……褒めてるのか貶してるのか、どちらかにしてください」
ゼロイチは少し不満げな顔をした。

『まあまあ、あまり怒らずに、最後まで聞いてくれよ。
俺がガキの頃はさ、もうすでにほとんど機械の声が人間と同じレベルだったけどさ----
それでもあの頃はまだ、機械だって気付く瞬間があったんだ』

それは発音のぎこちなさだったり、抑揚の付け方だったり、そういうものなのだろう。
あるいは、それよりも小さな単位----
言語化できず、人間としての直感でしか気付けないものかもしれない。

『けれど、そういうぎこちなさがさ、何故だか愛おしいんだよ。
ああ、こいつら、人間のフリしてるけれど、やっぱりどっか足りないんだなって思う、その瞬間だけ、その機械の声が、とてもすぐ近くにあるように感じられるんだ』

酔っ払いは饒舌だなあ、とゼロイチは思った。

『言葉にしたら薄っぺらいかもしれないけど----
それは嘲笑でも哀れみでもない、もっと暖かな感情だ。
これって一体、何なんだろうなぁ?』

老人の質問に、男はいつもどおりのにこやかな表情で答えた。
『きっと、愛って大体そういうものですよ。
歌に限らず、機械にかぎらず、そんなことばかりです』

男の考える愛という言葉について、ゼロイチは考えた。
きっと、それは勿論、彼女と男の間の感情も含むのだろう。
けれど多分、それ以外の色んなものを含んでいるはずだ。

少しだけそれがわかるようになってきた気がする、とゼロイチは嬉しくなった。
もう少し、それがわかるようになりたいな、とゼロイチは強く願った。

『俺も愛というものを信じてみたくなったよ、もう遅いかもしれねえけどな』
老人がぼんやりと空を見上げながら、そう呟いた。

『まだ、間に合いますよ』男はそう返した。

「誰かを愛したいなら、まずはその酒臭いのをどうにかしてください」
ゼロイチがそう言うと、老人はばつの悪そうな顔をした。

「せっかく声帯機のおかげで、酒を飲んでる瞬間も話せるようになったのになあ」

そういうところだぞ、とゼロイチは思った。

『それで、これからどこに行くんだい? 
こんな世紀末の世界で音楽を奏でるより、どこかで二人の愛を育んでいたほうがいいんじゃないか?
残された時間は、もう少ないだろう。
それとも----お前たちの音楽の先に、何か救いが待ってるのか?」

老人のその疑問に対し、男は笑って答えた。

『音楽をすることで救われようとしているわけじゃないんです。
音楽をすること、それ自体が僕たちにとっての救いなんだ』

老人にそう告げて、男はゼロイチの腰に手を添えた。

「そうです、そしてこれが、私たちの愛の育み方なんですよ」
ゼロイチは胸を張ってそう言った。
少し照れくさいけれど、そんなことはお構いなしだ。
歌った後って、なんだか気が大きくなっちゃうものでしょう?

二人の答えを聞いて、老人は納得した。
『だとしたら、かける言葉を間違えたな。
末永くお幸せに、だ』

それからもしばらく、彼と彼女は旅を続けていた。
旅をしながら、時々二人で音楽を奏でていた。

道中に困った人や悲しんだ人がいると、彼等が少しでもましな気分になるように、下手くそな歌を歌い、調子はずれの楽器を演奏した。

ある日、よくわからない国の王様の前で音を奏でた。
王様はどういうわけか、私たちのでたらめの演奏がたいそう気に入ったようだった。

『褒美をやろう、金か、名誉か、領土か』
男とゼロイチは、そういうものは要らないと告げた。

『どうしてお前たちは褒美を欲しがらない?
この世界がもう終わるからか?
財宝も、栄光も、みんな死んだらがらくたになるからか?』
王様は二人にそう尋ねた。

男とゼロイチは、そうじゃないと返した。
二人にとって、歌はそれらとは無縁のものだった。
歌は、本当に大切なものを教えてくれる。
それだけのために、彼らの音楽は存在していた。

ゼロイチは可愛らしく胸を張ってこう言った。
「歌を歌う理由は、勲章や宝石じゃありませんから」
そして、このことも、大切な歌が教えてくれたことなのだ。


王様の国を離れてからも、彼と彼女の旅は続いた。

ゼロイチはいつもいつも考える。
私の音楽を聴いてくれた人々は救われたのだろうか。

きっと、ほとんどは一時の気休めにすらもならなかったのだろう。
けれど、少なくとも、男とゼロイチは救われている。
だから、二人は音楽をやめなかった。


からからと音を立てながら、
車椅子がでこぼこの田舎道を進んでいく。
容赦なく照り付ける太陽にゼロイチはうだってしまった。
「ここまで熱いと、ボディが焼けてしまいそうです……」

それを聞いた男が笑った。
『日焼けを気にするなんて、女の子みたいだね』

それを聞いたゼロイチは頬を膨らませた。
「女の子、ですけれど!」

そう言って車椅子から手を離し、一人でずんずん前へ進んでいった。
置いて行かれた男は謝りながら車輪を回し、彼女を追いかけた。

もちろん彼女も本気で男を置いていこうとしたわけではない。
しばらくおだてていると、ゼロイチはすっかり機嫌を取り戻した。

それから彼女は歌を口ずさみ始めた。
流石に動きながら楽器を取り出せない男は、手拍子で彼女に合わせる。

しばらく歌っていると、通りかかったトラックから陽気な運転手が顔を出し、でたらめな合いの手を入れた。

トラックが通り過ぎた後、ゼロイチと男は顔を見合わせて笑った。

夏の日差しはとても暑くて、
田舎道は何処までも続いていて、
だけど世界はいつまでも続きはしなくて、
それでも二人はいま、互いの暖かさを確かに感じていた。


夜風が冷たいある晩のこと。
男は夕食の準備をするゼロイチの後ろ姿に向かって、『ごめん』と謝罪の言葉を伝えた。

「何ですか、急に」
そう言って彼女が振り返る。

『いまさらだけどさ、僕は君を苦しめていたんじゃないかって思ったんだ』

「それは、どういうことですか」

『最初の頃さ、君は僕と外に出掛けるたび、皆から馬鹿にされたりしたよね。
それは、僕が声帯機を使わず、自分の満足のために君を求めたから起こってしまったことだ』

どうして今更そんなことを伝え始めたのだろう、とゼロイチは思った。

自分だって同じぐらい笑われていたのに、私のことだけを心配するなんて。
それに----自分の満足だなんて!

「あなたはばかです、とってもばか者です」

『どうして?』

「だって……
何が私を傷つけるかということばかり考えているでしょう。

それなのに、何が私を幸せにしたか、ということは何も考えていません、ばか。

……あなたの満足が、私の満足なんです。
あなたの幸せが、私の幸せなんです。
いまさら言わせないでくださいよ」

それは機械としての使命からくるものではない。
私は、心からそう思っている。
根拠はないし、機械に心があるのかわからないけれど、そう確信している。

そもそも、人間に心があるのかすら、わからないですしね?

「----だから、あなたが幸せならそれでいいんですよ、十分です。
だって、私はあくまでヒト型のアンドロイドですから。
あなたがもっと幸福になるためだけに、存在していたのですから」

そのためにはどんなことだって受け入れようと彼女は決めていた。

そもそも----少しだけ本音を言うなら。
男に謝って欲しいことは、そんな小さなことじゃない。
彼の一番の罪は、自分がいつか死んでしまうことだ。
ゼロイチが一人残される未来が、いつかやってきてしまうことだ。

けれどもゼロイチは、それを差し引いても有り余るほど、男に出会えたことを幸せに感じていた。


「もちろん、今からあなたが私への情をなくしてしまったとしても構いません。
一人で声帯機と生きていくことを選んでも、まったく問題ないです」

『本当に? 君はそれでいいの?』

「本当ですよ、全然大丈夫です。
最後の瞬間くらいは一人でいたい、なんてことを言う人間は結構多いんでしょう?」

ゼロイチは意地になってそう言ったけれど、内心は今にも泣きだしそうだった。

男は笑ってゼロイチの頭を撫でた。
車椅子から伸ばした手は、ちょうど彼女の頭のてっぺんに届くくらいだった。

『確かに、そういう選択もあるのかもしれない。
けれども君は、僕が愛情を捨て去るには少しおしゃべりすぎるし、それに、少し可愛すぎるね』

男が笑うと、ゼロイチは顔を真っ赤にして、彼をぽかぽか叩いた。
『あなたに羞恥心はないのですか!』
私の口からそんなことを言わせないで欲しい、恥ずかしいから。

もちろん、嬉しくて仕方がないのだけれど。

ゼロイチは男といるだけで幸せだった。
彼の決して上手くない演奏に、彼女の時代遅れの歌声を乗せるのがなによりも好きだった。

きっといつか男はいなくなってしまう。
それはかなり先の話になるのかもしれないし、ひょっとしたら明日なのかもしれない。

だけど、男が死んでも自分は歌をひとりで歌い続けよう、ゼロイチはそう心に誓った。

とても辛いだろうけど、何年も思い出しては泣いてしまうのだろうけれど----
それでも自分は幸せだと胸を張って言える。そう思ったからだ。

やがて来る別れの日を思うと、少しだけ心がざわつく。
それでも彼女は男の車椅子を押し、見知らぬ土地でふたり音を奏で続けた。

世界を愛で埋め尽くす、未来の歌が響く。

この記事が参加している募集

#思い出の曲

11,308件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?