見出し画像

【詩小説】 君とソデジの背中の薔薇 完結

「君とソデジの背中の薔薇」

第一部 laundry laundry

1

私の背中に薔薇が咲いた。

見ることはできないが、私は私の背中に薔薇が咲いたことを感じる。

知っているとでも言えばいいのか。

背中にもう一つの心臓ができて、それは私の背中を押すんだ。

困ったことにね。

だから私の意思なんて関係ないところですべて背中の薔薇が決めるんだと思う。

私の気持ちなんてあるとしたらそれは背中の薔薇が秘めているんだと思う。

私の未来なんて背中の薔薇が連れてくる。

それは本当に困ったことだよ。

背中に咲いた薔薇は秘密を教えてくれるんだから。

誰だって本当は背中に隠し持った花束を持っていることに気づく。

見えないけど、感じてしまう。気づいてしまう。

善人が背中に隠し持った花束。悪人が背中に隠し持った花束。

忘れちゃいけないのは薔薇には棘があるってことだ。

そう、だからあなたが背中に隠し持った花束に水を。誰しもが背中に隠し持った花束に水を。

私の背中に薔薇。

それはどんな姿なんだろう? 

白いオールドローズかな。赤いウィリアムシェイクスピアかな。アンクルウォーター? 淡いブラックモス? 

きっと一輪ではないよね。それくらいわかるってもんだ。背中の薔薇はとても雄弁だしね。

そうそう忘れちゃいけないこと。

背中に薔薇が咲いた私が最初から決めたこと。知っていること。

それは鏡の存在。

世界には鏡ってものがあるけど、それを使ってしまったらおしまい。

だから裸になって鏡に映すことはしない。でもそれは当たり前のことのように思う。

けれどね、バスタブに入るとね、いつも私のバスタブは花びらでいっぱい。

背中の薔薇の役目を終えた花びらがバスタブに浮かぶ。

赤、白、紫、、青、黒。色とりどりだ。

すごくカラフルだし、その色の世界と、かおりと温度に包まれる深夜。

それは私にとって一日の終わりを感じるし、旅の始まりである。

さて、明日がやってくるよ、って気分。今日の悲しみはおしまい、って気分。

少しの涙と心地よい微笑みが静かにやってくる秘密の時間。だからバスタブも友達となる。愛すべきバスタイム。

そう言えば、恋人のソデジがある日、教えてくれたんだ。

ベッドの上で愛の交換ってやつの途中。

私の背中を見て、おい、君、背中に薔薇が咲いてるよ、って。

もちろん! もちろん咲いてるよ!

それを知っているのはソデジだけ。

でもソデジは本当に見えてるのかな。

ただの冗談を言って私を驚かせたかったのかな。

でも私はまったく驚かないから、会話はいつもどこかに湯気みたいに消える。

ソデジはとてもスーツがよく似合う。

だから彼がスーツを着る姿を見るのは好きなんだ。

彼は彼なりの順序で身なりを整えていく。ネクタイを結んで、そんな秘密なんて知らないって顔をして、扉を開く。

挨拶なんてないよ。

ただ扉は開かれる。

2

コインランドリーは宇宙。

かわいいドラムのモスグリーン、乾燥機の錆びたイエロー、洗剤の匂い、音、射す光。

ドラムの回る音をずっと聴いていたい。

宇宙。

そこで誰かを待っているふりをして早朝から漫画を読む。

洗剤の匂いって、汗の匂いが混ざるんだね。すべては清潔感に変わっていく。

晴れた日もくもりの日も雨の日もずっと薄いピンクのスウェット姿で端に座って退屈と仲間になるよ。

うっとりしている。

早朝のコインランドリーなんてあまり人は来ない。

もちろん今はチェーン店が主流だからこんな小さなコインランドリーは稀な存在なんだけどね。

でも裏路地に入ると見つけることができる。イエース。

世界には片隅があるってこと。とても好きな片隅がね。

人が入れ替わる。光が変わる。朝が来たんだ、と思う。

このコインランドリーを気に入っているのは隣が小さなコンビニエンスストアなんだよ。

だからWi-Fiがコンビニから飛んでくる。だから携帯でYouTubeやInstagramも見ることができるってわけ。

すごくそれが未来なんだ。

懐かさと未来は混ざっている感じがね。

そんな時、何度か見た男の人が入ってきて洗濯をし始めた。

男の人は私と少し離れたベンチで同じように漫画を読みながら言った。

「コインランドリーに住んでいるの?」

「どして?」

「いつもいるよね?」

「落ち着くの」

会話はそれだけ。

私はそんな時に背中に咲いた薔薇のことを感じる。

男の人もグレーのスウェットとサンダル。ボサボサの髪と無精髭。

背中がまだ見えない。

「君、名前は?」

「おしえなーい」

もちろん、私にも名前がある。

私の名前はコトコト。

化粧なんてしない人だよ。

化粧をしない私。

化粧をしないで、部屋にいる。化粧しないで、宇宙に出る。化粧をしないで、男を愛する。化粧をしないで、死体になる。化粧をしないで、女優になる。

でもソデジが寝ている間に、彼に化粧してみたことがあり、そっと隣から離れて、道で見る月が好き。

ソデジは彼氏だけど、私がソデジの彼女なのかはわからない。

きっと何人もいるガールフレンドのひとりだろう。

いつも彼のiPhoneがベッドのそばで光っている。

まったくそれが綺麗なの。

困ったことにね。

iPhoneの光はきっと誰かのアイラブユー? 

iPhoneの光はきっと誰かのSOS?

「ねえ? 携帯交換しようよ」

無精髭の男の人がランチメニューを注文するみたいに突然言うので、もちろん私はQRコードを送って、バイバイ。

バイバイ、コトコト。

去っていく背中。

チラッとその背中だけにいつも見えないように手を振る。

3

私は風景。

だって誰かの瞳に映る私は風景の一部。

だから私は風景なんだ。

誰の目にも私は風景でしかない。溶け込むし。

私は誰かの視線のなかの風景として存在する夢みたいな存在だと思う。

コインランドリーにいつもいる女の子なんて慣れてしまう。

朝に洗濯に来るおばあちゃんや主婦や工場関係の男性にとって、私は最初不思議なんだろうけど、今は話しかけてくることは稀。

「おはよう」

「またいるね?」

「またいるんだね」

もちろん私の部屋は近くにある。

簡素にね。

あんまり家具はないし、ベッドがわりのマットレスとテーブルしか目立ったものはなし。

ソデジしか来訪者はいないし。

私にとってコインランドリーだけが実像で、部屋の方が遠くにある? 

ソデジが来るといつも思う。

私の部屋へようこそ。

ここは心のなかにある白い部屋なんだ。

そこにソデジは招かれているんだ。紅茶を用意するね。

少しの間、私の心のなかでゆっくりしなよ。

座っているだけで、お互いがわかりあえる。

言葉なんてすうっと、壁に溶けて、心に行き渡る。

白い部屋に小さなテーブルとマットレスだけ。

あ、そうそうコインランドリーには猫もやって来る。

私が扉を少し開けると入ってくる。

名前はB夫人。

なんだか落ち着いた熟女みたい。

B夫人はいつも違うオス猫を連れてくる。

で、コインランドリーで交尾なんかする。

困ったことにね。

猫たちも恋をする。

たとえば雨上がりのこんな日に。

神様がこぼれ落ちる午前。

なんていう美しきちいささ!

愛という名の猫たち。

夢を見て、見えない星を見上げる猫たち。

射す光! 

猫たちも恋をする。

私だって背中の薔薇を忘れたい日がある。

バスタイムになると色とりどりの花びらやかおりが背中の薔薇の存在を教えてくれるから。

そんな時はお湯を入れないバスタブに服のまま入る。

何か狭い場所にいたくなる。何か冷たい場所にいたくなる。

そのバスタブに入ったまま、膝を抱える。

暗闇を照らす光は私にとってよくも悪くもバスタブからはじまる。

さっきの男の人からLINEが来て、私は、また今度ね、と返す。

会う約束なんてしないけど、なんだかOKしてしまって、たぶん行かない。

そうだ、こんな時は前髪を切ろうと思って、自分で髪を切りながら、恋とは、と考えている。

誰しもが少しだけ汚れていくような気がするんだ。

でも、綺麗に洗濯される時間もあるような気がするんだ。

コインランドリーの秘密には困ったもんだ。

洗うつもりが洗われる。

ね、B夫人? 

B夫人は少し開いた扉からまた恋猫と出ていく。

誰もいないコインランドリーで自分で自分の髪を切る。

そして切った髪をライターで燃やす。

4

すれ違う人の背中にはきっと花束。

顔は照れて見れないから、後ろ姿を私は見る。

この世界には、とても美しい後ろ姿が存在するんだ。男も女も。

完璧な後ろ姿。

姿勢も含めて。

歩き方も眺めてみる。

ヒールの高さ、服装、色合い。

そんな後ろ姿ばかりを撮る写真家になりたい。

後ろ姿集め。

繁華街のオープンカフェに座っていた。

私は女の子がよく使う、遅れていくあざとさ、なんて大嫌いだから先に座ってグリーンアッシュフルを飲んでいる。

値段は10ミップル。(つまりちょっと高め)

もちろんファッションなんて白いキャロキャロのシンプルなTシャツだしモスグリーンのフレアとサンダル。

ブラは一応つけたけど、外したいくらい暑い。

見えない月が溶けないか心配でもあるよ。

目の前に大きな高級外車が停まって助手席の窓が開き、夜ごはんはいるのか、と大声で叫ぶ女性(大きなサングラスのいつもの女優)オープンカフェにいるのは中年の有名クリケット選手で、いるよ、と大声で手を振る。

趣味の悪いスーツ。

灰色の空がどんどん暗くなって、なんだかグリーンアッシュフルの炭酸も抜けてしまったみたい。

そんな時、私の頬に何かがふらりと当たる。

雨かな、と思ったら雪だった。

ん? 雪? 

するとどんどん気温が下がってきた。

夏なのに冬が勘違いしてやってきたのかな。

気まぐれ猫みたいに。

無精髭の男の人はそんな夏の雪のなかを走ってくるのだった。

息を整え、空を見上げる。

「雪が降ってきたよ」

「みたい」

「寒くない?」

「ダッフルコートでも買いに行く?」

私たちはダッフルコートを中古服屋で買い、マフラーも、手袋も買い、そして何故か手を繋いだ。

寒いしね。

手袋越しに。

‥‥夏なのに1日だけ、冬がやってきた。

しっかりダッフルコートも手袋もマフラーも身につけて、近所の小学校を歩いた。

吐く息が白い。

困ったことにね。

水たまりが凍っていた。

廃校になっていたけれど、私はその小学校へ行ってみたかった。

忍び込むのは得意、と男の人は言った。

花壇に向日葵が咲いていて、そこに雪が積もっている。

明日は夏に戻るんだね、きっと。

一日だけの冬を味わう幸せ。

北風が髪を揺らす。

運動場を踏み締めると氷の粒がサクサク鳴った。

「寒いね」

「寒いね。地球温暖化なんて嘘じゃないかな?」

「向日葵の花壇に雪だよ。何、勘違いしてるんだ。地球は」

「勘違いしてるのはあなた?」

「まさか。俺がこの季節をつくってるのかよ。まさか」

「あなたが勘違いを連れてきたの」

それからベンチに座り、なんとなく勘違いのキスをして、勘違いのハグをして、勘違いで夕方までそこで過ごした。

ソデジ? あなたはこの雪が見えてる?

見えない世界のガールフレンドといるのかな?

ホテルを出ても辺りは冬だった。

私は急にアイスクリームが食べたくなった。ふたりでコンビニエンスストアに入り、アイスクリームを買った。

男の人と分け合ってそれを食べた。

冷たき心地よさ。

もしかして世界はやさしく狂っているのかな?

冬に食べるアイスクリームが好きなように、世界はやさしく狂っているのかな?

ねえ、冬のあたたかさを教えて欲しい。

ねえ、太陽の冷たさを教えて欲しい。

涙の嬉しさを教えて欲しい。

寒い日の別れ際に抱きしめられて、私はそんなことを思うのだった。

夕方の愛の交換ってやつを思い出す。

私は男の人に打ち明けたんだ。

私の背中には薔薇が咲いているの、なんて。

男の人は裸の私の背中を見て、ほんとだね、とか言う。

でもどうして君の背中には薔薇が咲いているの? 

だからこの薔薇は未来を連れてくるんだってば! 

前へ行け、って。

未来へ、前へ行け、って!

でもどうして男の人って前髪には気づかないのかな。

前髪切った? って言葉は大切なんだけどな。

とてもとてもね。

とても美しい日の終わりに何をしよう? 

私は結局空っぽのバスルームで踊ることにした。

音楽をかけ、簡単に装飾をし、キラキラしたなかで、踊った。

バスルームで踊る。

未来と踊る。気持ちが揺れる。バスルームでいつまでも踊る私。

ダンスはいつまでも続くんだ。

音楽は続く。

一日だけの冬!

明日は夏に戻るらしいよ。

5

私の前には壁が一枚ある。

ソデジの前にも壁が一枚ある。

でも壁の向こうにソデジがいるのがわかる。(不思議とわかるのだ)

壁とはなんだろう。

そう思いつつ、私は壁にキスをする。

ソデジも壁にキスをする。

0.5ミリの壁に。

その0.5ミリを溶かしてあげることはできっこない。

目が覚めると、日射しがカーテンから洩れている。

きっとこんな寝坊は昨日のお酒のせいだ。

バスルームディスコのせいだ。

こんな日は何をしよう。

もちろんコインランドリーには行くけど、何かを洗いたい。

ふと、こんな日はカーテンを洗おうと思った。

カーテンなんて洗うものだったっけ?

ずっと洗わないで下げておくものじゃなかったっけ? 

いいえ。

カーテンは時々洗うべきものだったんだ。

それを思い出し、今日はカーテンを洗おうと思った。

コインランドリーには大きなサイズのドラムももちろんあり、そこで白いカーテンを洗った。

1ミップル。

錆びたモスグリーンのドラムが回り始める。

B夫人がまた違うオス猫とやってきて、また目の前でひとしきり交尾をして去っていく。

淑女! B夫人!

季節はまた夏に戻っているし、あの男の人も現れない。

私は何気なくスポーツ新聞を手に取り読んでいる。

そこに偶然ある記事が載っている。

背中の薔薇が見つけてしまう。

困ったことにね。

(人気モデルのリラライラ、世界的有名画家と婚約!)

リラライラはもちろん知っている。

もちろんスターとしてより、ソデジのガールフレンドとして。

美しく儚げな一瞬の流れ星みたいな人。

もちろん世界的有名画家というのはソデジのことだった。

これで私とのことは終わったのかな。

私も彼のベッドサイドで光るiPhoneの光のひとつだったのかな。

今日からテレビのワイドショーは大変だろうな。

まるで他人事だよ。(もちろん!)

私はスポーツ新聞を投げ捨て、頬杖をついて、欠伸。

気づいたらグレーのスウェット姿の男の人が隣にいて、私が何故か泣いているもんだから、どうしたの? と訊いた。

泣いてる? (困るんですけど)

「好きでもなく、嫌いでもない人がいるんです」

「それは青春の特権のような言葉のようで心に残るなあ」

「それより、あなた、何歳なの? 名前は?」

「俺はニコラ。歳は30と少し」

それから私たちはカーテンを洗うことについての秘密を話し、一日だけの冬の日について話し、洗濯では落ちない小さな汚れについて話した。

「洗濯したんだよ。洗濯ものを見た。するとまだ小さな汚れが残っていた。また洗うけど小さな汚れがどうしてもとれないんだ。他の汚れはとれるのに。何度も洗濯しているとそのとれない小さな汚れが友達みたいに思えたんだ。大切なもののように思えた。その小さな汚れがなんだか好きになった。そんな時は、自転車で走りたくなるんだよね。太陽光線が必要」

「うん」

私は微笑み、そして前髪をいじった。

するとニコラは、髪切ったんだね、と言って、なんだか少し救われた。

部屋に戻り、洗濯物を干す。

部屋のなかに綺麗に干すのが好きだ。

なんだか自分の過去をキレイして干しているみたい。

太陽の光、服たちの匂い、洗剤の匂い。

等間隔に洋服を吊るす。

干し終わると、私の心も洗濯物のひとつだ。

洗うつもりが洗われるんだ。

夜になり、ソデジにLINEを入れようとしたけど、結局はニコラにLINEを入れた。

でもぜんぜん返事はないんだ。

だからもう一度ニコラにふざけたLINEを入れた。

こんな時間にあなたはどこへ?

こんな遅くにあなたはどこへ?

こんな雨中にあなたはどこへ?

水たまりの中にはいって泳ぐのさ。

星屑に乗って回転するのさ。

水の泡になって、弾けるのさ。

こんな時間にあなたはどこへ?

深夜、バー「コンツェルト」に向かうと偶然、アイリーズとアイリーンに出会った。

アイリーズとアイリーンは双子のゴージャスなお金持ちだった。

だから二人とも金色の髪で豊胸した胸とスレンダーなスタイル。

服装はブレスオフのシックな花柄のワンピース。

無数の装飾物。

(高価なものなんだろうけど、おもちゃに見えてしまうね。このふたりがつけると)

「コンツェルト」の壁はピンクで薄暗いから女の子たちが集まる。ってことは男の子も集まる。

マスターは黒いベストを着て働いている。

DJブースから小さな音でジャズが聴こえる。

ほんとに小さなバーだ。

私たちは男の子たちをケムに巻きながら話した。

「コトコト?」

「なあに?」

「髪にキューティクルがないよ。女の子はキューティクルで守られてるのよ」

「キューティクルはかわいくなるのとは違う。女の子にとって寂しさを感じることは、強くなっているのと同じ意味なの。OK?」

私は微笑み、レッドキューティクルを少しずつ飲む。

双子はまた冗談を言って明るく笑う。

「ねえ、コトコト? 何か大泥棒しない? 世界中が驚くようなものを盗むの」

「なあに? たとえば?」

「わかんない。けどネットニュースには、謎の大泥棒現る! って載るの。そんな、ニュースが世界中を駆け巡るの」

「へんなの」

その時の私は酔って笑ってしまっていたけど、その、まさか、は起こるってものよ。

背中の薔薇がまた一輪咲いた。

6

その計画を手伝ってくれたのはもちろんアイリーズとアイリーンだ。

結婚式の日取りはスポーツ新聞に載っていたし、それが思ったよりも早くて、時間がなかった。

もちろんお金は双子が用意してくれた。

お楽しみが始まる、って感じだったけど、私の心は天国でブルー。

今をときめくスターモデルと世界的有名画家との結婚式だもの。参列者とマスコミの数は計り知れないくらいになるってもんよね。

でもそんなことなんかお構いなしの計画なんだ。

ただ背中がもうひとつの心臓となって、困ったな。

毎朝のコインランドリー通いは相変わらず。

私の心の落ち着きも、呼吸も同じ。

天候は変わるけど、呼吸は変わらないリズムだ。

息をするという音楽を誰もが続けているのかもしれないな。

呼吸という名のビート。

呼吸という名の歌を歌っているんだ。

耳をすませば世界中の音楽が聞こえる。

世界中の呼吸が聴こえる。

世界中の人とセッションをしているのかもしれないな。

私は漫画を読むのをやめて突然、息を止めてみる。

じっと我慢して、しばらくして、我慢できなくなると、また呼吸を始める。

さて、どうなりますことやら? と背伸びする。

黒いウェディングドレスを着て結婚式に来たのは君をさらうためだ。

白いタキシード姿の君をさらうのは黒い残酷な悪魔じゃなきゃいけない。

警備員たちを参列者のフリをしたアイリーズとアイリーンが道を開け、マスコミたちを押しのけ、教会のなかに入り、私は走った。

黒いウェディングドレスのもうひとりの花嫁の登場に会場は騒然とした。

たくさんのフラッシュライトが光り、ふたりの結婚指輪を投げ捨て、私はソデジの手を取った。

新婦と牧師が何かを言ったけどソデジも私の手を取り、走り始めた。

黒いウェディングドレスと白いタキシードはそうやって負けるんだよ。

それは知っている。

路地を走ったら、追いかけてくる黒い服の男たち。

心はウキウキしてて、でもブルーで、タクシーに乗ろうとしたら、私たちはふわりと、飛び越えてしまって、ああ、と思ったら空中にいた。

空に飛んでいく私とソデジの光景に黒い服の男たちはあっけにとられた。

私たちは雲を突き抜け、空中でスキップした。

確かに私たちは笑ったし、確かに私たちは手を繋いでいた。

飛行機が足の下を飛んでいく。

確かにリアルな世界では困ったことになった。

置き去りにされたリラライラは号泣して、その場で崩れ落ちた。

アイシャドーが涙で溶けて、それを写真に撮る参列者たち。

リアルな世界はどこまでも痛みを連れてきた。

背中の薔薇には棘があるってことだ。

ネットニュースでは「謎の大泥棒現る! 黒いウェディングドレスは誰だ?!」と発信された。

そして私とソデジは今どこに住んでいるのか、と憶測が飛び交った。

それをバー「コンツェルト」で読んだアイリーズとアイリーンはお互いにウインクして、少し泣いた。

そしてもちろん無精髭のニコラはコインランドリーでスポーツ新聞を投げ捨て、少し微笑み、日常を待ち続けた。

B夫人だけが愛を知っていた。

(第一部おわり)

第二部 Perfect land

1

私は絵から生まれた。

だから体は絵の具のにおいがする。

だれかが汚したり、破いたりしたら、私は消えてしまう。

何せ、絵なんだから。

絵なのに、心臓や、血管があるのは、私の作者が、生きた絵を描いてくれたから。

私は絵から生まれた。

そんな秘密を知っているのは一人で、私たちが犯した最初の罪は絵の具のにおいに包まれて始まった。

部屋は絵の具のにおいに包まれて、もちろん服なんていらないよ。

蜜月旅行なんてものも婚姻届けなんてものもいらないよ。

絵は旅にもなるし、言葉のかわりだし、ソデジが絵を描くってそういうことってだけだ。

絵を見るとちゃんと私の背中には薔薇があるから、それが未来を連れてきたんだってこと。

未来っていつも意外な角度からやってくるんだよ。

すごく困るのはどうして外国のホテルってこうも温度調節するのが難しいの、ってことだ。

わりと高級なホテルでもどうしてだかお湯ってなぜか温度調節ってすごく難しいく、熱いような冷たいような。

温度調節が難しいから、何度も試すけど、諦めて、食事を済ませて、部屋に戻ると、水浸しになっていて。

すごく部屋は、広くて、可愛いのに、なのにどうしてだか、弁償ってことになり、なんだか次々とホテルを変えなくちゃならない。

部屋じゅう水浸し。

もしや世界には盲点があるってこと?

それってすごく簡単なことだったりするんだよ。

ソデジは別荘って確かに幾つもあるけれど、ぜんぜんどこにあるのか本人もわかってないらしく、エージェントに連絡して、パチンと指を鳴らした。

それでようやくこの島の彼の別荘に辿り着いたってこと。

ソデジにはいつもひとこと言いたいんだけど、言わないけど。

やっぱり世界にはちゃんと盲点があるってこと。

別荘は大きな邸宅でパーフェクトランドにあった。

パーフェクトランドはあまり目立たない南国の離島だ。

昔は観光地だったけど、今はあまり人は住んでいなくて、ただ捨てられたいくつものペンションとか大きな遊園地とか誰もいないマーケットとかがある。

ソデジは執事たちを雇い、豪華な食事を作らせたり、友達をよく世界中から呼んで秘密のパーティーを開いた。

でもさ、ソデジのガールフレンドまでいっぱい来るんだよ。

ねえ、ガールフレンド?

私の隣でキスをしないで。

私の隣でキスしているのはソデジの友達とソデジのガールフレンドだ。

キスし始めてから15分なわけ。

私のまわりでは、キスしていないのは、主役の私だけというパーティ。

なんだかみんなワインとかシャンパンを片手にDJの音楽に狂ってしまって。

みんな何が楽しいの、なんて。

なーんて。

私はライターでソデジのガールフレンドのドレスの裾に火をつけてみたらどうなるのかな、なーんて。

その火に彼女が気がつかないのが面白いはずだよ。

そしてパーティーが終わると、会場のDJルームは煙草の吸い殻がたくさん落ちてて、そのみんなが去った空っぽの部屋にいるのが好き。

パーフェクトランドに行きましょう。

宇宙。涙目。夕方。あの頃。一瞬。

パーフェクトランドに行きましょう。

そこはいつも晴れていて、いつも夕暮れが爆発したように燃えているよ。

赤い空。零れ落ちる。気持ち。今。

‥‥そしてリラライラ、の復讐が始まる。

2

「その美術館で一枚の女性の絵に恋した。描かれた年を見ると100年前の女性だ。でもその絵は確かに生きていて、その恋になんていう名前をつけていいかわからない。僕と彼女には今、だけがそこにあり、時を超えることもできたんだ。愛してます、と小さく呟いて、僕は雨のなかを歩いたよ」

ソデジはベッドの隣にいて、私にそう話した。

もちろん服なんか着ていないで、執事が用意してくれた朝食を食べている時なんかにね。

そうやって絵の秘密をそっと打ち明けてくれるソデジ。

私たちは午前中をたいていはベッドルームに愛の交換てやつをしながら過ごすんだ。

自堕落!

私は夕暮れに自分のスネに生えている微かな産毛を見つめていた。

大きな庭の日差しに産毛は照らされて黄金に見える。

私は少女時代、金色のうぶ毛が生えていた。

そのよく金色のうぶ毛を夕陽に透かし、ゆっくりなびくのを見ていたものだ。

いつの間にか、その金色のうぶ毛が、黒くなったのを覚えている。

私はいつしか大人になった。

金色のうぶ毛は、特別な何かを思わせた。

見つかってしまったんだよね。

そんな時、私の腕に蚊がとまって血を吸った。

庭にはスプリンクラーがゆっくり回っていた。

私は血を吸われながら、スプリンクラーが吹き出す水がつくる虹を見つめた。

蚊は飛び立った。

それから夕暮れになり私はゆっくりベッドから起きた。

グリーンアッシュフルを久しぶりに飲みたくてね。

部屋にある小さな冷蔵庫を開けたってわけ。

もちろんソデジは夕暮れにはいない。

絵を描いているんだよ、きっと。

グリーンアッシュフルを手にベッドに戻る途中、私の足元をするりと抜けた影を見たってわけ。

それがB夫人で、私は思わず、するりとドアの隙間から出て行く彼女に言うの。

ここは早朝のコインランドリーじゃないよ。

ここはパーフェクトランドです。

でもB夫人はそのままドアの隙間から出て行ってしまってね。

でもそれは何でもないことでもあるよ。

猫なんてひょっこり現れるんだよ。

そしていつのまにかいなくなるってものよ。

ああ、愛すべきグリーンアッシュフル。

冷たき心地よさ。

この生活の冷たき心地よさ。

この背中の薔薇の冷たき心地よさ。

困ったことにね。

私は時間の流れにウインクした。

時が流れていくことへ、少しウインクした。

初恋や、悔しさや、懐かしい友達と笑いあった夜や、そんなものを裸になって抱きしめたかったけど、ウインクするよ。

わりとうまくやってるよ、とささやかに。

今という一瞬にウインク。

3

そんなある日のことだった。

もうパーフェクトランドに住み慣れてもいたから、その手紙には驚いてもいた。

だいたいこの別荘に住所なんてものも存在しないもの。

ただWi-Fiだけはソデジの個人的な目的として、ささやかにあったわけ。

誰かがネットってやつを使える場所まで、ソデジのメッセージを運んでいるだけなのかもしれないけれどね。

コック長のMJが揃える食料も自家用ジェットを飛ばして運んでくるってもんよね。

そうそうコック長のMJって、マイケル・ジャクソンって人のファンなだけだよ。

だからみんながMJと呼んでるから私も、MJって呼んでいるわけ。

背は高くて、ハンサムで、顔が白くて、眼鏡で、30くらいの若き料理人なんだけど、ユーモアが好きみたい。

ねえMJ?

あなたはどうしてMJ?

「朝起きたら、亡くなったはずのマイケル・ジャクソンになっていたんです。踊ってみると、完璧にムーンウォークもできた。自宅には遊園地だってある。遊びに来る子供たちのことも好きでね。ただひとつ、僕はマイケルの寝室に枯れた花があることを発見したわけさ。その花を新しく替えると、元の僕に戻った。わかるかな? コトコト?」

なーんて。

だいたいそのマイケル・ジャクソンを知らないんだってば!

私たちは!

MJにはボーイフレンドがいてね。

その髭の人もこの邸宅に住んでいて、なんだかんだでいろいろいて、ペットもいる。

だからB夫人は新人のペットとして当たり前に迎えられた。

そしてB夫人は私たちのベッドルームに口に手紙をくわえて入ってきたんだよ。

薄ピンクの封筒で、なーんにも書かれてない封筒にそれは入っていた。

ソデジはその時、いなかった。

薄ピンクの封筒をさらりと開けた。

「青をさがしてください。

あなたは、今、色です。

何色でもない色になってしまったんです。

悲しみの色を抱きしめてください。

苦しみの色を燃やしてください。

愛する色を月にしてください。

でも青はありません。

青をさがしてください。

‥‥リラライラ」

リラライラ!

青がない?

どういう意味?

ソデジ?

大変だよ、青がない!

リラライラ? ソデジになんてことするの! 

ソデジに青がないなんて!

私はベッドルームを見渡した。

青いはずのカーテンも、私のキャミソールも、ドアノブも、スリッパも、ちょっとした花瓶の模様にも、ソデジの描いてくれた私の絵の背景にもさえも青が、ない!

そこにはただ白だけ!

白だけが残され、世界には青が消えた。

ソデジに青のない世界で絵は描けるの?!

しまった、リラライラの復讐だ!

私は外へと飛び出した。

そして森の木陰を選んで私は走った。

光がチラチラと舞い降り、頬を撫でた。

少しの温かみ。

太陽の温かみ。

自分の足音や、呼吸が新しくなる。

どこへ向かうのか決めていないくて、ジグザグに走った。

もしどこかへたどり着いたら、この気持ちが終わってしまう。

この気持ちが終わってしまう!

この生まれたばかりの感情!

その時だ。

私の背中にある薔薇の、棘が、奥へと突き刺さる。

そしてそしてだんだんと心臓へと伸びていくのがわかった。

4

世界から青が消えた。

誰もそれに気づかない。

でもあの、ニコラだけは、懐かしきコインランドリーでそれに気がついていた。

「大切なものがなくなった」と職場のトレーラー車を盗んでとばす。

ニコラの乗った車は銀行に突撃し入り口を大破させた。

受け付け嬢に「おい、青をだせ!」と銃をつきつけた。

ニコラは悲しみ色スーツを着ていた。

私はニコラのことなんて、そういえばそんな人もいたっけ、となんとなくしか印象はなかった。

けれど執事が持ってきた(スポーツ新聞)でニコラの銀行襲撃の事件を知ったってわけ。

もしかして‥‥。

まさかね‥‥。

もう早朝のコインランドリーには戻れないよ、ニコラ。

一日だけの冬、楽しかった。

私の知ってるのはこういうこと。

鳥は待ってくれない。

すぐに消えてしまい、そこには、残像だけになる。

あなたが、愛について、感じるのはそういうものだよ。

もう鳥はいない。

もう鳥は待ってくれない。

鳥はいない。

私の心に愛が芽生えた瞬間に、背中の薔薇の棘は、心臓めがけて突き進む。

そう思っていたら、薔薇の棘は心臓の直前で止まった。

直前!

だからもうすぐ愛で死ぬのかも知れないし、愛することで私はなんとか生を手に入れたのかもしれないよ。

ソデジを愛するということはそういうものなんだよ。

困ったことにね。

そういう人なの!

人を愛するのはもともとそういうものなんだよ。

私の背中に薔薇の花。

なんて残酷で愛おしいのでしょう。

あなたが辛いときに辛いと言ってくれてそれで私は救われる気持ち。

あなたが寂しいときに寂しいと言ってくれてそれで私は救われる気持ち。

あなたが言葉にできない気持ちのときに散歩に連れてってくれてそれで私は救われる気持ち。

救われる気持ち。

そんな気持ちを抱きしめて!

遊園地は、とても楽しい場所だけど、爆発的にさみしく見える時がある。

あなたを見ていても、笑顔がそんな感じで、そこがとても好きなんだ。

孤独なのに、明るい笑顔のこと。

遊園地の、コースターは、誰も載せないで走る。

回転木馬も誰も載せないで走る。

パーフェクトランドにはそんな巨大な遊園地がある。

絵が描けなくなったソデジと私はそんな巨大な遊園地まで車を走らせたってわけ。

その途中ね、彼のサングラスを借りて世界を見るんだ。

きっと彼には私とは違う世界が見えているのだろうね。

そのサングラスをかけて見る世界はまったく新しいんだよ。

新しい愛の景色ってやつなんだ。

サングラスを替えるだけの旅に出る私。

彼の視線を盗む。

そして彼がトイレから帰ってきて、サングラスを返す。

世界一短い旅だよ。

「僕が生まれて初めて絵を描いたとき、庭でパンジーの花が咲いたのさ。雲から太陽が顔を出し、急に晴れた。キャンバスの前から立ち上がり、キッチンに行ってミルクを飲んだ。頭のなかでは、色彩が浮かび続けていた。どうしてこんな愛情が下りてきたのか。僕が初めて絵を描いたとき」

そう告白して、夕暮れの巨大な遊園地で、ソデジは涙を隠さなかった。

絵が描けない、と声もなく泣いた。

その涙を私はキスを送りながら、舌で拭い去ったんだよ。

ソデジも私の涙をキスを浴びせながら舌で拭い去った。

二人でベンチに座って巨大な錆びた観覧車を見上げていたわけ。

私は言った。

「たとえ小石でも役にたつことがあるなら。雪の日の涙でも役にたつことがあるなら。冬の片方の手袋でも役にたつことがあるなら。役たたずのやさしさでも役にたつことがあるなら。道端に落ちていた星でも役にたつことがあるなら。私はあなたのそばにいる。だから私は小石。ただの小石でいい?」

「もちろんさ。ありがとう、コトコト。今日はMJに頼んで豪華なディナーとしよう。七面鳥食べたいな」

「私はグリーンアッシュフルをジンで割るよ。そして酔いつぶれるの。ソデジとの愛に、このパーフェクトランドでの冷たき心地よさに」

爆発するような赤い夕焼けと巨大な観覧車の前で、私たちは愛の交換ってやつをした。

それがとても素敵だったわけ。

自堕落!

ってB夫人は言うんだろうね。

困ったことにね。

そういえば子供の頃、何も怖がらずブランコを漕いだっけ。

体が放り出されそうになるのも恐れず。

ひっくり返って落ちることも恐れず。

鎖が切れることなんて考えもせず。

大人になった今、私はもう一度あの時の気持ちであなたに飛び込もうとしているんだ。

そして背中の薔薇の棘は心臓の直前で止まり続けた。

神様が私たちをお試しになる。

今はそういう時でしょ?

5

急にインターネットの世界が騒がしくなったのはそれからしばらくしてからだった。

最初はInstagramにソデジが描いたリラライラの絵が一枚投稿されたのだった。

そのInstagramのアカウントが次々と、青の盗まれたソデジの絵を掲載したってわけ。

するとソデジの絵の評価が世界中で暴落を始めた。

これは絵として成立していないと評論家たちも手のひらを返すようにコメントを発表した。

何せ青が抜けているのだ。

そこには白が漂白されたように残っているってもんよね。

その話はMJからそっと聞かされた。

毎週のように開かれていたソデジの友達たちとのDJパーティーも人がまばらになっていった。

Instagram!

きっと首謀者はリラライラってもんよね。

青のない世界でMJを悲しませたのは、マイケル・ジャクソンって歌手のよく履いていたブルーのジーンズが白に変わったことだった。

「もちろん白の衣装も素敵さ。でもブルーのジーンズがない。どういうことかわかるかい? コトコト?」

「だから私たちはそのマイケル・ジャクソンも知らないし!」

それでも、MJは突然、私の前でムーン・ウォークというダンスをして、ウインク。

今という一瞬にウインク。

ある日、青が消えた。

その日から世界中誰も本当の涙を流すことはなくなった。

けれどそのことに誰も気づかない。

誰も真実の涙を流さなくなった世界がきても、誰も困らずそのまま何もなかったかのように日常は続いた。

そのかわり月が泣き、炎が泣き、雷が泣き、星が泣いた。

愛もここだよと叫んだ。

私たちは永遠の一瞬を愛す。

私はソデジの背中を見る。

ソデジは私の背中を見る。

なんだ、背中の薔薇は強いじゃないか!

そう? あなたの背中も強く見える!

私たちはベッドの上でお互いの背中を見せ合い笑った。

背中の薔薇は強く、薔薇の棘も強い。

やはり薔薇の棘は私の心臓の直前に強く留まり続けるのだった。

突き進むのか、愛に救われるのか。

そんな時、銀行強盗をして大金を手に入れた、あのコインランドリーのニコラがお安くなった絵を買い占めた。

それが私には嬉しかったってわけ。

あの真夏の一日だけの冬。

それはもう一日だけじゃないんだ。

だって考えてみて。

もう地球も青くないんだもの!

地球ぜんぶの気温が下がり、冬しかない世界がやってきた。

困ったことにね。

言いたいことは水蒸気のように浮かび、言えた途端に水滴になり、ポトリと落ちるんだ。

ほんとにそうね。

全速力で私は未来へと走っている。

目の前の坂道を全速力で降りていく。

呼吸が苦しい。

理由もなく逃げているわけでもなく全速力で走っている。

何故か、という問いも頭から消えた。

今までの私を追い越す。

空気が舞い上がる。

未来は私の前で光り始める。

6

私は早朝のベッドの上でソデジに尋ねる。

辺りはまた暗いし、寒い。

永遠の冬━━。

「ねえ、ソデジ? あなたにとって、つくる、って何?」

「わりとね、それはよく思うよ。才能とかってわりと欠けてる月みたいなもんだよ。欠けてるからこそ、それを埋めようとする」

「欠けてる? 意味わかんない。どういう意味?」

「たとえばテニス・プレイヤーのテニスラケットの形が欠けている。じゃあ、その子は未来にテニスプレイヤーになるんだよ、ちゃんとね。少なくともその努力はするようになるのさ。

ラグビー選手の心にはちゃんとラグビーボールの形の夢が欠けているってもんさ。少なくともそういう未来をおびきよせていく可能性がある」

「可能性?」

「流れる時間のなかで、未来に何かがあればな、と。その何かを自然と探して、努力するってものさ。自然なことだよ。そして夢は諦めるものじゃなく、かたちを変えていくだけだったりもする。だから意外な角度から夢は叶うってもんさ」

「ソデジって不思議ね? 不思議なお話‥‥」

「不思議だよ時間の流れは。人と人との出会いもね。だから僕らも欠けてるよ。完璧な人間じゃないんだ。そういうことだよ。ごめんね、コトコト? うまく愛せてるかな? 不器用なんだ」

私はソデジの絵の具だらけの手を取り、言う。

「つまり‥‥あなたには色彩が欠けてるの?」

「そうだよ‥‥そうだな。禁じられた色彩を見つけようか?」

そうだよ!

行こう!

ソデジ!

禁じられた色彩を探しにね!

ニコラはあまりにも地球が寒くなったものだから、あのコインランドリーで一日中、ホットコーヒーを飲んでいた。

そんな時、冷たい大粒の雨が降り出し、ニコラはベランダに干しっぱなしにしている洗濯物を思った。

濡れていくニコラの服たち。

ベッドシーツや下着たち。

濡れていく洗濯物のことを思いながら、コーヒーを飲む。

まだ雨は止みそうもない。

ニコラはなぜか涙が出てくるのだった。

バー「コンツェルト」に相変わらず双子のお金持ち、アイリーズとアイリーンは通い、男の子たちをケムに巻きながら、退屈と友達になっていた。

「コンツェルト」も外は寒いので、客はまばらだ。みんなコート姿で店にいる。吐く息が白い。

世界はどうしてこんなになったのか。こんなにも急に寒くなったのか、ふたりは話し合った。

「きっと地球にキューティクルがないのよ。きっと地球にもコンディショナーが必要。トリートメントが必要」

アイリーンとアイリーズはピンク・アッシュフルをジンで割りながらを頬をついて、またジョークを言い合う。

服はいつものブレスオフ。黒いタイトドレスに髪はアップにしていた。コートも着て、手袋さえしている。

手には無数の装飾物。ふたりがつけるとまるでおもちゃに見えてしまう無数の装飾品たち。

ふたりとも豊胸した胸とうつろな大きな瞳と長いつけまつ毛を退屈でパチクリ。

「じゃあ、レッド・キューティクルをもう一杯のもうかな」

「私も」

マスターは相変わらず黒いベストを着て、無口に働いている。

店には相変わらず小さなジャズが流れている。

アイリーンとアイリーズは店のメニュー表を手に取り、そこに不思議な違和感を覚えた。

「あれ? これ、何かが足りないよ」

「いなくなったコトコトのこと?」

「違うよ。アイリーズ。このメニュー表には、何かがなくなってるの。なんだっけ? コトコトの好きだったアレ」

「グリーンアッシュフル‥‥あるじゃない? どこへ消えたのかな、コトコト?」

アイリーンは穴の空くほどにメニュー表を凝視する。

「ん? でも、ピンクアッシュフルもグリーンアッシュフルもあるのに、ブルーアッシュフルがない‥‥」

アイリーンとアイリーズは10ミップルを用意して、マスターに、ブルーアッシュフルを注文した。

マスターは、細い目をして、首を傾げた。

「そんなメニュー、最初からないよ」

「ない?」

驚いたふたりはiPhoneを取り出して、検索したら、世界中から、ブルーアッシュフルは消えていた。

ブルーアッシュフルがないなんて。

いくら検索しても出てこない。

そしてふたりはやがてあるInstagramのアカウントに辿り着いた。

ふたりはお互いそういうことか、とウインクして、言った。

「リラライラ‥‥やるじゃん? そりゃ世界が寒くなったわけだよ。きっとリラライラの復讐ね。でも私たちを誰だと思ってんの?」

レッド・キューティクルには炭酸が抜けてしまっている。

地球はもう青くはない。

そう、双子たちは弱音を吐くことも嫌いなんだけど、強がるのもいやなのだった。

プラマイゼロで普通なんだ。

ただふたりには退屈しのぎなのだ。

困ったことにね。

たとえば月の上に立っている男がいる。

かつてあなたを愛した男だったりする。

けれど彼があなたを大好きだったことはあなたは知らない。

彼はあなたに想いを告げず立ち去ったひとりの月にいる男だ。

あなたは誰かに今も愛されている可能性があるってこと。

だからニコラはお安くなったソデジの絵画をそれからもオークションで落とし続けた。

そんなある夜のことだった。

街へ出てニコラが誰もいない大通りを歩いていると、沢山の悲鳴がどこかから聞こえた。

この大都会の街を群衆が半狂乱で逃げてくるのだ。

困ったことにね。

何から逃げてる?

ニコラも怖くなり、群衆に混ざって逃げた。

悲鳴もあげたし、泣きそうになった。

でも何から逃げてるのか、はわからない。

背後には何もないのに。

しかしみんなは次々と逃げる。

背後には何もないのに。

群衆心理だ。

それもわからない。

わからない世界だよ、もともと世界は、とニコラはひとりごとを言ってふと立ち止まった。

振り返ってみた。

やはり背後には何もない。怪獣がいるわけではなく、噂だけがそこにあるような気がする。

ニコラは人混みをかき分け、今度は逆走した。

全力で逆走した。

冬の冷たい風がニコラの頬を刺す。

やがて誰も人がいなくなった月明かりの道に出た。

誰もいない‥‥。

この不思議な世界‥‥冬になった世界。

月明かりだけが凍ったアスファルトをキラキラさせている。

そしてニコラはその足元の冷たい道端にポトリと落ちているあるものを見つけるのだった。

困ったことにね。

‥‥一輪のホワイト・ローズが落ちていた。

ニコラはその一輪の薔薇を手に取った。

ホワイト・ローズ。

新しい色をさがそう。

新しい夢をさがそう。

新しいワインを探そう。

新しい一番星を探そう。

もっと心を洗おう。

きっと新しい心臓が動きはじめる。

新しい心が爆発して新しい色彩が生まれようとしているのだ。

ねえ、ソデジ?

そうだよ!

行こう!

ソデジ!

禁じられた色彩を探しにね!

(第二部おわり)


第三部 Questions in a World of Blue

1

朝の光が私たちを選んで私たちを起こした。

朝の風が私たちを選んで私たちの肺を満たした。

紅茶が私たちを選んで私たちはその香りを嗅ぎ、素敵な味を運んだ。

私たちはそうやっていろんなものに選ばれて世界を受け止める。

世界に選ばれて、私たちはここにいるってものよね。

その朝、起きてもソデジはまだ裸で私の隣にいて、じっと天井を見つめていた。

吐く息は白い。

そしてこう言うんだ。

困ったことにね。

「世界の色を塗り替える。花の色を塗り替える。白い花を赤くする。みんなのロングスカートをミニにする。世界の老人をみんな赤ん坊にする。曇り空に虹を描く。戦車はみんな花束に。僕は世界の色を塗り替える」

「どうやって? ソデジ?」

ソデジは答えず、MJの用意した誕生日ケーキも食べないってもんよね。

フルーツだらけの素敵なバースデイケーキ。

けれどナイヤガラ、マスカットオブアレキサンドリア、ハイベリーなんかはない。

そのかわり赤いクルガンローズが花のように飾られている。

それをMJが切り分けるとバースデイカードが出てきてね。

そこには「Forbidden Colours」と書かれていたってわけ。

きっとMJのイタズラよね。

もちろん、ソデジのバースデイパーティーはいつもように開かれたんだけど、もはや誰も来なかった。

あれだけいた友達もガールフレンドもDJも来ない。

その音楽もない大きなDJルームで私たちはチーク・タイムってなわけ。

見物人はB夫人だけ!

B夫人もパートナーが見つからないみたいで、へんな格好で自分の股間を掃除してたよ。

まったく、あんなハレンチな格好、猫って動物はよくできるってもんよね。

この熟女!

B夫人!

でももちろん私たちも同じことってもんよね。

世界はちゃんと、今日もやさしく美しい。

それを楽しめないのは、瞳、のほうが古くなっている。

瞳を新しくする練習が、世界を美しくすることなんだよ。

瞳。視線。角度。

Instagramに突然、ソデジがアカウントをつくった。

もちろんソデジが運営しているのかは誰も知らなかった。

とても変わったアカウントだった。

まずフォロワーはいなくて、しかも鍵が掛けられていた。

ってことは、誰もがフォロー申請しても却下されるばかりで、なかを見れない謎のアカウント。

でも「sodeji」とネーミングされていて、プロフィール欄もきちんとしたフォーマルなものなわけ。

ソデジの悪戯?

いや、そうではないってもんよね。

困ったことにね。

ソデジはそこに何かを描こうとしているんだ。

でも何を描いていいのか、わからない。

だからリラライラから青を取り戻そうと、そんなアカウントを作ったんだろうね。

さて、そこになにを描く?

ソデジ?

世界で一番綺麗な花が胸のなかで咲いて少し困るんだよね。

それは、最初、美しく咲いているけれど、心臓の直前で止まり続けるいくから少し困るんだ。

やがて、枯れて茶色くなって、折れてしまいそうで。

だって、世界一綺麗な花が胸のなかで咲いているんだ。

コーヒーを飲むときのスプーンの音が音楽。 

雨の音を黙って聞くという演劇の時間。

風が優しくカーテンを揺らすという映画。

涙を声も出さずに流す。

光が辺りを照らし、色が変わっていくまで、静けさを見ている。

静けさは罪。

静けさは愛。

ある朝、愛の交換ってやつの途中、ソデジが急に言った。

「そうか! わかったぞ!」

「なーに? どうしたの? ソデジ?」

「地球、を描けばいいんだよ! 地球、そのものを描くんだよ」

「それがInstagramの謎のページの意味?」

「そうだよ。そこに僕は新しい地球を描くのさ」

「地球を描く? でも青はどこにあるの? 絵の具がないよ」

「そうだね」

「ねえ‥‥青は?」

その時、私の背中の薔薇は何色なんだろう?

ソデジは私の背中の薔薇の色を確認した。

裸の私の背中をソデジに見せた。

やっぱり‥‥!

そこには、一面の青!

背中の薔薇は一面の青に染まっていた。

私には見えないが背中の薔薇は一面の青に染まっているのを感じるってこと。

お互いの心が通い、愛に心臓が痛み始める。

私の背中に青い薔薇が咲いた。

愛の奇跡って起こるってもんよね。

ね?

リラライラ?

あなたにも、わたしにもね!

世界は、たったひとりが、たったひとりと、出会うためにある。

物語は、たったひとりが、たったひとりと、わかりあうためにある。

生きることは、たったひとりが、たったひとりと、わかりあおうと手を伸ばすためにある。

永遠の一瞬にそう思えたけれど、きっともっとグローバルな愛もある。地球も小さな愛の集まり。

その気持ちと強い愛!

その時、私の心臓の直前にある背中の薔薇は青く染まった。

一面の背中の薔薇に、青!

私の背中に青い薔薇が咲いた。

2

それからMJはまるで手術でもするみたいに私を大きなキッチンに寝かせた。

私はもちろん裸でね。

背中の青い薔薇の色素をまるで料理でもするみたいに、注射針とスポイドを使って抽出した。

ほんとに若き才能ある料理人はなんでもアイデアを持っているってもんよね。

困ったことにね。

MJはそのマグカップに青い色素をためて、執事たちに手渡した。

執事たちはその青い色素を、器用に混ぜて、固まらせて、世界一新しい、青、の絵の具をつくっていったってわけ。

その禁じられた色彩を使ってソデジは描いた。

それを見ていたB夫人は、正解! とはかりに、ニャア! と鳴いた。

それをInstagramに掲載して、鍵を開く。

すると世界の視線が変わっていった。

誰にも知られることなく。

静かに、静かに。

困ったことにね。

誰にも気づかれない青の取り戻し方。

世界の視線が変わり、温度が戻っていったってわけ。

震える手で男性が片思いの人の手を取るでしょ? その女性の手の温もりが朝食のミルクティーの小さなスプーンに伝わるの。小さなスプーンから小さな希望に伝わる。なんでもない小さな希望は小さな文章になり、読んだ誰かの心を温めるの。誰かはそれを母親に話し、母親は笑顔で洗濯物を乾かす。洗ったシャツが干され風に伝わる。風は青い空に舞い上がる。

バタフライ現象!

蝶の羽ばたきだけで実は世界は連鎖して視線が変わるだけで、いろんなものは新しいものに一変するってこと。

たとえば少女が水たまりを飛び越えたよ。風の流れ方や、空気感や、光の具合、光の走り方、温度、そういう自然なものに、心が奪われる。朝が始まる。スカートのはねかたや、髪のはねかたや、水たまりの雫がどう飛び散るのか、そういうものに心を奪われる朝が始まる。あのなんでもない朝が始まるの。

やって来る新しい視線たち。角度たち。

ある映画監督は血を花で表現することで新作ドキュメンタリーを作った。銃撃戦でも花が飛び散る。血なんて、花束が舞い散る。恐怖場面なんて、花が一斉に咲いていく。どうして血が花なのかインタビューされるといつも彼はこう答えた。

「私には世界が急にそう見えたんだよ。花にね」

ある女性は失恋して自分で髪を切った。切られて落ちていく黒い髪が、ハラハラと花になった。どうしてこんなに美しく死んでいくのか。どうして髪は花になって死んでいくのか。髪を切り終え、彼女はその花たちを部屋の隅に飾った。

ある日、青い服が降ってきた。雨もそう考えれば素敵なものに変わる。青いネクタイが降ってくる。青い靴下が降ってくる。青いドレスが降ってくる。青い恋心が降ってくる。青いシャツが降ってくる。青いワンピースが降ってくる。青や、赤や、黄色、のハンカチが、降ってくる。ああ、服が降ってくる。禁じられた色彩の服の雨だよ。

その女性が最初のボタンを外す時、森の向こうに花が咲いた。次のボタンを外す時、夢の中に水が落ちた。3番目のボタンを外す時、夏の風にカーテンが揺れた。最後のボタンを外す時、彼女は誰かを愛しはじめた。彼女のことに惹かれる男性と恋が始まる。

シャツのボタンを外しただけなのにね。

ソデジは自分がした一番大切な愛について語ってくれた。それがずっと続き、朝が来てもあなたは愛について語ってくれた。誰かの愛を知ると自分のわかるようになってきたブルース。そんな朝だった。なぜあなたにこんな愛の話をしたかわかりますか、といって話は終わった。そしてブルースが始まる。

音楽さえ新しい。

花束を持って私たちは走る。なぜ走っているのかもわからず、ただ草原を全速力で駆けている。ただ心のなかの衝動が、走れ、と叫ぶんだ。未来に向けて、走れ、と叫ぶんだ。そう、花束を次に渡されるのはあなた、だろう。

そんなものよね。

たった一枚のInstagramにアップされた、新しい地球の青は誰にも知られることなく世界の温度を上げ季節や光が戻っていった。

それをあの早朝のコインランドリーのニコラも気付いたってもんよね。

だって自分のお安く買ったソデジの絵がまた高額で売れ始めたのだからね。

ニコラは思わずコインランドリーから外に出て、空を見上げて、どこかにいる一日だけの恋人のことを想った。

トップモデルのリラライラはあのスキャンダルもあって、それは悲劇となるはずが、逆に一層注目の人気者になっていったよ。

しかし私生活は荒れていったの。

しかしよく考えるとただソデジをリラライラも愛していただけ。

それが純粋な炎になっただけだよ。

一直線の愛の炎はやがてソデジと私に向けられたっこと。

きっとそういうものよね。

ある日、リラライラは気付いてしまう。

自分の背中にも薔薇の花が咲いているってことに‥‥。

そうやってリラライラの背中にも薔薇が咲いた。

白いホワイト・ローズの花束。

ただソデジにまた会うために、あんなことをしてしまったんだってこと。

だから彼女がパーフェクトランドにいても不思議でもなんでもないよね。

困ったことにね。

3

あのバー「コンツェルト」のアイリーンとアイリーズはもちろんプライベートジェットを持っていた。

だからそれでパーフェクトランドに向かった。

更にニコラもそうだ。

急に大金持ちになり、購入したプライベートジェットでパーフェクトランドに向かうのだった。

リラライラはきっともうパーフェクトランドにいるってもんよね。

きっとそう。

マスコミが報じて、みんながその南の孤島を、揃ってパーフェクトランドを目指す。

南の孤島、パーフェクトランドへ!

遂に私とソデジの居場所が報道された。

ネットニュースにもなったが、もちろん私たちにはお構いなしの計画なんだ。

そこには背中に青い薔薇の恋人と、背中に白い薔薇の恋人がいたってだけのこと。

愛ってそういうものよね。

たとえ世界じゅうがいくら騒ごうが気にしてないってだけ。

ただ背中の薔薇の棘が心臓の直前で止まり続けて困ったな。

ねえ、リラライラ?

あなたもそう?

新しい森はきっとどこかにあるってもんよね。まだ誰にも見つかってない森が心のどこかにあって、私とリラライラはそこに踏み込んでいる。

まだ誰も吸ったことのない森の空気。

光が斜めに何筋もできている。

奥地に進むと歌が聞こえるんだ。

森が秘密の歌っているんだ。

あの歌声は確かに‥‥リラライラ!

秘密の歌を歌う、リラライラ!

その森は誰にも知られていない秘密の森で、困ったな。

MJが私たちの寝室に慌てて入ってきたのは午後のソデジのいない夕暮れだった。

MJはこう言った。

世界じゆうの温度がまた上がった、と。

「ああ、なんて世界は勘違いをしていたんだ」

「でもね、MJ? 勘違いしているんだよ。もともと世界ってものは」

「どういうこと? コトコト?」

「だいたいにおいて私たちは愛すると盲目なんだよ。みんな愛の心なんてそうなんだよ。だから愛のの姿ってほんとは大きいものなんだよ、きっとね」

「そうか、何も不思議ではないんだね。コトコト?」

私は頷いた。どこかであの懐かしいコインランドリーのニコラも頷いているってもんよね。

リラライラもね。

困ったことにね。

それができるのが、ソデジの視線。創作の世界。

ああ、どこまでも広がっていく。

私たちきっとハシゴが空中へとのびていたので、のぼりはじめたんだ。

どこまでのぼってもハシゴ尽きることなく、何時間も私たちはのぼったよ。

鳥たちの高さも超え、空気も薄くなり、あたりは暗くなってきた。

夕方なんだ。

私たちは彼方を見た。

地球の果てに、星がひとつ。

宇宙まであと少し。

やがて足元に地球があった。

青い地球がちゃんとある。

その秘密の視線の集合体。

困ったことにね。

いつも「yes」と小さく言いたい。

最後にはやはり小さく「yes」と言っていたい。

ぐちゃぐちゃな心の中だけど「yes」と小さく言っていたい。

世界の果ての壁に小さく「yes」と書いて。

愛する人に小さく「yes」と書いて。

命に小さく「yes」と書いて。

誰かに「yes」を送って。

ニコラや、アイリーズとアイリーンのプライベートジェットはパーフェクトランドに着陸して、粗末な管制塔に横付けされた。

しかしリラライラのプライベートジェットなんてない。

どこからどのように来たの?

私は近くにリラライラがいるのを感じていた。

さて、背中の薔薇はどうなりますやら、と欠伸をしてその時を待っていた。

B夫人はMJのボーイフレンドに懐いた。

DJのニックだ。

まだ20そこそこの男の子。彼はいつも誰もいないパーティールームでひとり音楽を鳴らしている。

そして夜になるとMJと甘い夜を過ごすってわけ。

B夫人は音楽が終わると、その邸宅から外へ抜け出す。

B夫人の新しいパートナーたちは巨大な遊園地にある寂れたボーリング場に住んでいた。

そのボーリング場のレーンはくたびれて、ところどころコースが歪んでいる。

そこでB夫人はパートナーを見つけては交尾する。

またB夫人たら!

私はある夜のこと。

夜になり、散歩から帰った私は寝室で着ていたサマーセーターを脱ごうとしたってわけ。

それが顔や肩のあたりでもつれてしまい、セーターが脱げなくなったの。

秘密の森へ散歩した帰りだった。

黒いぴっちりとしたサマーセーターだったわけなの。

それがあまりにももつれてセーターは脱げない。

薔薇の花は邪魔でもあるんだってこと。

残酷なものでもあるの。

もがく。

顔が覆われているために真っ暗闇だ。

へんな踊りみたいにもがいてみる私。

その時、ドアから誰かが入ってきたらしい音がした。

誰かが部屋にやってきたので、もう一度、脱ごうと試みるが絶望的に脱げない。

いろんなものにぶつかりながら歩く。

「何しているの?」

その声は透き通った声だったわけ。

「ちょっと待って。今脱ぐからちょっと待ってて」

「いったいあなたは何をやっているんの?」

「格闘よ。愛の怪獣と、今、戦っているの。セーターがもつれて脱げなくなっているの。笑ってないで手伝って」

それから声の主も手伝いながら、笑いながら、セーターを脱がせようとする。

脱げないから私はハサミを持ってきて、という。

「でもお気に入りなんでしょう? その服が‥‥」

「そうね。でも今、真っ暗闇なの」

「その奥に階段があるよ」

階段?

今、必要なのは階段じゃなくて、ハサミだよ!

声の言う通り、私は諦めて暗闇のなか階段を降りていく。

酸欠みたいになりながらね。

いくら降りても階段は続くってわけ。

もう何段降りたんだろう。

もうどれくらい降りたんだろう。

そもそもこの階段はどこへ向かっているのだろう。

そもそもこの暗闇は何に向かっているのだろう。

私は休むことなく階段を降り続けた。

その時、前に人影が見えた。

私はそのまま追い越す。

それは過去の私だった。

私は過去の私を追い越して、もっと奥へと進んだ。

秘密の歌声が聞こえる。

それはリラライラ!

そのもっと深層でリラライラは私を待っているってこと。

もっと奥へ!

もっと心臓へ!

リラライラは私に気づき、そして最初から服は着ていなかった。

美しいプロポーション。完璧なバスト、ウエスト、ヒップ。

背中には白い薔薇の花が咲いていたってわけ。

困ったことにね。

私の背中には青い薔薇。

リラライラは言った。

「━━早朝のコインランドリーでおいで。待ってるわ━━」

それを聞いて、リラライラは残酷に笑う。

その圧倒的な美しさで。

ただソデジを愛してしまった二人の花嫁はそうやって再会したってこと。

やっとセーターが脱げた。

やっと息がしやすくなった。

久しぶりに光を見た。

しかしそこには誰もいない。

いなかった。

はじめからそこには誰もいなかったの。

私のヘンテコな幻聴。妄想。想像。

もう汗だらけ。

そうね、暗闇の中で必死にソデジの名前を呼んでいた。

パニックだったよ、まったくもって。

とにかく私は旅から帰ってきたってわけだよね。

世界一小さなヘンテコな旅だった。

セーターを脱ぐだけの世界一小さな旅。

脱いだ黒いセーターを畳み、ベッドの上に置く。

その静かなセーターをしばらく見つめた。

心にライオンを抱きしめて。

ベッドで、わからない爪と、わかる傷に、丸くなる。

あなたをたぶん、、傷つけているのでしょう。

私たちは同じ人を愛しているだけなのでしょう。

心にライオンを抱きしめて。

ライオンを抱きしめて。

私たちはたぶん、同じ気持ちなのでしょう。

リラライラは言った。

早朝のコインランドリーで待ってる、と。

そう、パーフェクトランドのボーリング場のなかにも小さなコインランドリーがあるのだった。

困ったことにね。

私にはわかるってものよ。

リラライラの背中の白い薔薇の棘が心臓を目指して、深く突き進んでいくのがね。

そして私たちの薔薇の花の棘は心臓の直前で、愛によって救われ、また愛によって心臓をつらぬくんだよ。

残酷にね。

愛という残酷に。

4

コインランドリーは宇宙。

とくに誰もいない寂れたコインランドリーなんて理想的だ。

かわいいドラムのモスグリーン、乾燥機の錆びたイエロー、洗剤の匂い、音、射す光。

ドラムは壊れて回っていないけど。

宇宙。

そこで漫画を読む。

懐かしきあの感じ。

ずっと薄いピンクのスウェット姿で端に座って退屈と仲間になる。

うっとりしていたってわけ。

こんなパーフェクトランドのコインランドリーなんて人は来ない。

世界にはいろんな場所に片隅があるってこと。

とても好きな片隅がね。

光が変わる。朝が来たんだ、と思う。

これが未来なんだ。

私の背中の薔薇が連れてきた意外な未来。

前へ、行け、って辿り着いた場所。

それがまた小さな朽ちたコインランドリーであってもね。

少し前と未来なんてほんの少しだけ違うだけっことはよくあるってもんよね。

そんな時、何度か見た男の人が入ってきた。

男の人は私と少し離れたベンチで黙っていた。

同じように漫画を読みながらね。

「久しぶりだね、コトコト?」

「お久しぶり。ニコラ」

ニコラは相変わらず無精髭で、しかしベージュのキャロキャロのスーツを着ていた。

ネクタイだってしている。

不思議だな、スーツ姿の男性は。

それだけでとても素敵に見えちゃう。

スーツの魔法、ネクタイの魔法、そして香水の魔法。

お洒落しなさいな、男性諸君!

「あの一日だけの冬、楽しかったね?」

「そだな。でも永遠の冬も楽しかったよ。雪がチラチラしてさ、氷なんて最高に綺麗だよ。アスファルトの道路が氷でキラキラ光るんだよ。そして向日葵畑の上に雪だぜ」

「だよね。あの時も向日葵が咲いているのに雪が積もって」

「急に地球が冬になっちゃったから、でも向日葵は上に雪なんて、世界の視線はとても美しいね‥‥でもリラライラ遅いなあ」

「ニコラもリラライラに呼び出されたの?」

「まあね。復讐でもする気じゃない? 俺ってずいぶんリラライラと仲が悪いから」

私は思わず微笑んだ。

「決闘? このコインランドリーで? まさかの決闘?」

「いや、単にマスコミをケムに巻くんじゃない? まさかコインランドリーにトップスターがいるとは誰も考えないもの」

「そっか。そういうことか‥‥」

私たちには見えないところに隠し持った花束がある。

あなたが誰にも見えないところに花束を隠し持っている花束たち。

背中に隠し持っている愛を。

歌を。美しさを。棘を。やさしさを。

見えないところに隠し持った花束たち。

そんな花束と棘。

そう、ニコラは見えないところにコトコトへの愛を隠し持っている。

それを私も気づいている。

そしてリラライラも見えないところにソデジへの愛を隠し持っている。

それは誰もが気づいている。

さて、リラライラの登場だ。

「遅れてごめーん」とリラライラが白いタイトドレス姿で明るく入って来て、それを見たニコラはさっと鞄から銃を取り出して、彼女に向けた。

リラライラもさっとニコラに銃を構えると、不敵に微笑んだ。

「さあて、ニコラさん、ソデジの絵を返してくださいませんか?」

「残念。もう売却済みだ!」

「私の大切なソデジのコレクションを‥‥私がみんなモデルなのに。全部、私! あの絵は全部私! 風景さえも、他の誰かでも! ソデジの愛の結晶は私がみんな買ったもの」

「悪いな」

リラライラは銃口を天井に向けて放った。

そのあと、またニコラにさっと向けた。

「死んでもらうわ」

リラライラ! また愛に狂ってるんだよ! 棘だ! リラライラの心臓へ向けて棘が突き進む。

奥へ!

更に奥へ!

ただ、ソデジが好きなだけで、こんな争いなんて意味がないよ!

今度はリラライラが躊躇なくニコラに発砲すると、ニコラは肩口を撃たれた。

流れるはずの血がぶわっと花びらになり、舞った。

花びらが空中を駆け巡る。

ニコラをめがけて外れた銃弾は壁に次々と穴を開けていく。

銃弾の穴から新しい新芽が次々と顔を出して、微笑んだ。

私はさっとニコラの手を取り逃げた。

コインランドリーの外には寂れたボーリング場になっている。

そこを逃げ回った。

曲がったレーンを飛び越えるんだよ。

そしてリラライラはまた私たちを撃つと、流れる筈の血が花びらになって舞い踊る。

撃たれても痛くない。

ただ青い花びらが撃たれる度に舞い踊り、それが知らない風に乗って、少しずつ心臓の痛みが増す。

そこへやって来たのは遠い国からの使者、アイリーズとアイリーンだった。

「リラライラ! やるじゃん」

「どうしてSPをつけないのかしら? 愛ってやつね。いくらでも愛を! リラライラ」

そう、アイリーズとアイリーンは30人のSPをつけていた。

SPたちがリラライラを取り囲み、発砲する。

最初からアイリーズとアイリーンにはわかっているんだよ。

今やすべての銃は花束!

いつのまにかボーリング場の天井なんて消え失せ、辺りは広いどこまでも続く草原になった。

その風に花びらたちは乗って、空へと舞い上がる。

リラライラが撃たれ続けると、白い花びらが世界へと舞い、いろんな場所で森が騒いだ。
 
世界は吹かれた風と花びらでいっぱいになっていくのだった。

その時、私の感情に不思議な感覚が起こる。

私は思わずリラライラのからだしっかりとを抱きしめた。

そこにはソデジと同じオーラを感じて、思わず甘いキスをした。

リラライラが大好きだと思えた一瞬だった。

私たちの背中の薔薇が心臓の前で鼓動を始めて困ったな。

私たちは愛によって救われるし、愛によって生きているし、今や世界では、今度は青い花びらも舞い、混ざり合う。

青と白の花びらが世界の空から降っているんだ。

ああ、愛が降ってくる。花びらの雨が降ってくる。

今や世界は禁じられた色彩の雨。

もっと降れ!

気持ちの雨よ!

もっと触れ!

舞い踊る花びらは地球のまわりを覆い尽くし、青も白も混ざり合っいぐるぐると舞い踊る。

でも、私はどうして彼女にキスなんてしたんだろう?

それが一瞬すぎてわからない。

抱き合いキスをする私とリラライラをアイリーンがiPhoneでカメラに収めた。

そこには抱き合う私たちの背中に青と白の薔薇の花が写っていた。

それをアイリーズを見せると、高く売れそうね、とウインク。

今という一瞬にウインクするのだった。

見つけたよ。

何を?

禁じられた色彩を。

それはソデジの心の色だよ、きっと。

それからというものソデジの邸宅に、リラライラも住み込むようになったってわけ。

ソデジはリラライラのために絵を描いたり、もちろん恋人みたいだった。

まあ、契約なんて私たちには必要ないってもんよね。

そりゃトップモデルの絵だもの、そうなるってものよ。

そして世界中のソデジやリラライラの友達がやってきて、また毎週、豪華なDJパーティーを開いたってわけ。

いつものキスしていないのは私だけというパーティー。

みんなが去った後の空っぽのDJルームでひとり座っているのが好き。

そこへB夫人が、いつものようにのこのことやってきた。

私の前で大きな欠伸をした。

私がパーフェクトランドを去ったのにはたいした理由はない。

あの路地裏のコインランドリーで漫画を読んでいるのが、私ってだけ。

豪華な食事や生活なんて合わないってことね。

ましてやお金ではないよ、私の愛は。

もっと心臓に近くて、その直前にある大切な棘なんだ。

薔薇の棘ってね、ないけば綺麗な花も枯れてしまうんだよ。

ソデジ?

わかってくれるかな?

この秘密の心ってやつ。

心臓の直前からあなたへ。

そうやって結局、黒いウェディングドレスのもうひとりの花嫁とは、誰だったのか誰も知ることはなかった。

まあ、ソデジやニコラの裏工作もあったんだけどね。

ソデジ? 私の背中の薔薇が今、どうなっているか、知りたい?

それはね‥‥。


エンディング

そうだ、こんな時は前髪を切ろうと思って、自分で髪を切りながら、愛とは、と考えている私。

誰しもが少しだけ汚れていくような気がするんだ。

でも、綺麗に洗濯される時間もあるような気がするんだ。

コインランドリーの秘密には困ったもんだ。

‥‥洗うつもりが洗われる。

私の愛すべき小さなコインランドリー通いは続く。

ね、B夫人? 

グリーンアッシュフルをちょうだい。

10ミップル。つまり少しお高い。

B夫人は少し開いた扉からまた恋猫と出ていく。

いつもコインランドリーにいる女の子なんて誰もがみんな慣れてしまう。

「いつもいるよね?」

「またいるんだね?」

何もやることのない私は退屈して欠伸。

誰もいないコインランドリー。

朝が来るよ。

私は思いついて自分で自分の髪を切る。

そして切った髪をライターで燃やす。

枯れた花と一緒にお風呂に入った。

私が水をあげなかったために枯らしてしまった花だった。

急な旅だったからだ。

お風呂に浮かぶ枯れた花を見て、疲れた自分を感じて、その結果、お風呂に一緒に入ろうと思った。

そしてじっとゆらゆら浮かぶ枯れた花を見ていた。

疲れた自分の再生。

だんだん体が温まってきた。

なぜか涙が一筋だけ流れた。

まだどこかから列車の音が聞こえてきている。

どこかに私は運ばれている感覚が続いている。

けれど、湯船のなかで枯れた花を見つめていたら、旅は終わりを感じた。

枯れた花にキスを送ろう。

花びらがカサカサと砕ける。

パラパラと分解する。

その時、旅は終わった。


(おしまい)


cody chesnutt 「5 on A joyride 」YouTubeより



あとがき

ありがとうございました。

この詩小説はとても変わった書き方をしています。

まず1年間くらい過去の詩も現在の詩もみんな19歳の女の子が書いているように、揃えていました。

詩がバラバラにありました。

それを最後に組み合わせてひとつのストーリーにできないものか、という発想です。

もちろん「薔薇の花」の短かな詩もありました。

しかし第一行めを考えた時、「私の背中に薔薇が咲いた」と始めました。

知り合いに美術モデルさんがいて、偶然、背中に花を持って撮ってらした。

斎藤エン様と千紘さんの作品です。

ありがとうございます。

もちろんインスピレーションはこの詩小説全体に染み込んでいますが、ストーリーとの関連はありません。

芸術の視点というべきものです。

そこで、「薔薇の花」からから始めようとなり、これは、ボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」の逆、だと。

「うたかたの日々」は心臓にハスの花が咲いて死んでしまうというストーリーです。

これは第二稿となります。これから時間をかけて書き直します。

参考文献、ボリス・ヴィアン「うたかたの日々」、岡崎京子「うたかたの日々」

ありがとうございました。

荒木スミシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?