【短編小説】白いオールド・ローズの庭 余裕ある方むけ
(長めの短編小説です)(ゆっくり読むタイプの小説です)(よろしくお願いします)
「白いオールド・ローズの庭」
1
女は車を運転しながら目を瞑っていた。
一層強くアクセルを踏み込むと、唸るようなエンジン音が耳をつんざく。
速度が重みとなって身体をシートに追いやった。
振動するハンドルから地面の感覚がダイレクトに腕に伝わる。
ラジオからは軽快なロック・ミュージック。ロイ・オービソンの『ドミノ』。
女は歌っては風船ガムを膨らます。
ふと目を開けて、二三度首を振った。そして大声で笑い、叫んだ。
「あの野郎め!」
ダッシュボードを殴りつける。その扉を開けて一枚の写真を取り出す。
そこには女の家族のピンナップ。
旦那と女とその赤ん坊。
女が赤ん坊を愛でるように抱いている。
旦那がその女の肩をしっかりと抱き寄せている。
庭先で何気なく撮ったものだが、そこには幸福の一瞬が鮮明に焼きついている。
女は開けた車窓からはらりと捨てる。
風に木の葉のように空中に去っていく。
次に預金通帳を取り出す。
通帳を指で弾いた。
すると通帳は車窓から零れ落ち、一気に風の中へと連れ去られた。
女は前方に続く長い一本道を見て、溜め息をついた。
いったいこの道はどこまで続く?
風船ガムを車外へ吐き捨てると、辺りを見渡してみる。
まるで変わり映えしない荒野が延々と広がる。
キャラメル色の大地。
岩山だらけの遥か遠くの地平線で、空は群青のような深いブルー。
強烈な日差しが辺りを激しく焼く。
※
バックミラーを見る。
角度を変えて、自分の顔を映してみる。
研ぎ澄まされた刃物のような眼孔。
そこには幼さがもたらすある種の激情がある。
それは怒りでもなく、焦燥でもない。
それは躍動する年代を生きる者だけが自然に発するパッションである。
化粧はしていない。大きな口をはみ出すかのような勢いで真っ赤な口紅だけが引かれている。
肌はよく焼けた褐色で、小さな顔は疲れの為か頬がこけ、目のまわりが窪んでいる。
自分で出鱈目に切ったような短い黒髪。
中性的な少年か、野性的な女か。
服装は白いTシャツと綿のワーキングシャツ。
それにカーキ色のチノパンツと黒いスニーカー。
そのどれもがいささか汚れ、くたびれた代物である。
耳にはピアスがひとつ。
額にはサングラスが載っかっている。
煙草を持つ指先には白いマニキュア。
薬指には銀の指輪。
女はその指輪をしばらく眺めるとまた溜め息をつく。
前方を見ると遥か彼方に蜃気楼のように建物がある。
ガソリンスタンドだ。
女は最初、それが現実のものか判断が着かなかった。
しかししばらく走るとおぼろげだった輪郭もくっきりと浮かび上がり、店の看板も判別できる程になった。
現実にガソリン・スタンドが存在するのだ。
女は次第に車のスピードを緩めた。
・・そうだ、ここにしよう。 ここに捨て去ってしまえ。
心のなかでそう言って、ハンドルを切った。
車を乗り入れると辺りを伺う。
すべてが錆びつき、朽ち果てたようなスタンド。
風が音をたてて辺りを吹き抜けていく。
運ばれてきた砂の粒があちこちに当たる雨のような音。
傍らにはささやかなコーヒー・ハウス。その入り口には大きな黒い犬が繋がれている。
女が車を降りると犬は猛烈に吠え立てる。
それを無視するように彼女は淡々と給油を行う。
それから女は車からやおらボストンバックを取り出す。
辺りをふらふらと歩く。
まだ犬は激しく吼えてたてている。
コーヒー・ハウスの脇を通る時、女は思い切り犬の腹を蹴り上げた。
※
コーヒー・ハウスの裏手には古ぼけたトイレがあり、その前に立ち止まった。
入り口に設置されているゴミ入れに無造作にボストンバックを投げ入れた。
トイレに入り、洗面所で手を洗う。
女はまた薬指の指輪に目を止める。
その忌々しい指輪がまだ指にくっついていることが腹立たしい。
それを抜き取る作業に取りかかる。
しかしなかなか指輪は取れない。執拗に肌に密着している。
掃除用の洗剤を潤滑油代わりにそこに塗り込んで、ようやく抜き取る。
その指輪に何事か罵声を浴びせると、女は便器に投げ捨て唾を吐きかけた。
外に出ると、また強烈な日差しが瞳を焼く。
ふと見ると先ほどのゴミ入れの前に黒い肌の子供がいる。
まだ十歳にも満たない、見るからに田舎の子供。
淡い水色のワンピースを着て、その細い腕を今まさにゴミ入れに伸ばしている。
捨てられたボストンバッグのファスナーを開けようとしているのだ。
女はそれを見ると慌てて子供に駆け寄り、ボストンバックをゴミ入れから抜き出した。
バックを抱えて早足で車に戻ろうとする。
「中には何が入ってるの?」
子供の声が背後に聞こえたが、女は無視して車に乗り込んだ。そしてエンジンをかけると、再び路上へと急発進した。
「中には何が入っているのさ?」
2
さて、湖のほとりには一台のトレーラーが停まっていた。
そこには休を取っていた運転手がひとり。
大柄で頭がすっかり剥げ上がった中年男。
彼はシートを倒し、湖面に映る夕焼けを見ながらうとうととしていた。
湖面には波はなく、空には鳥もいない。
そこに遠くから奇妙な音が聞こえてくる。
飛行機が墜落するような甲高い音。
それに気付くと運転手は身をゆっくりと起こした。
音の聞こえる方角を振り返った。
そこには遥か彼方から続く一本の道がある。
彼方に何かが見える。
遠くから砂煙をあげながら走ってくる一台の車が見える。
車が近づいてくる。
白いフォルクス・ワーゲンだ。
湖が近づいているというのに、スピードをいささかも緩めない。
それどころかますます速度を上げていく。
もうすぐ湖面である。
それでもブレーキをかける様子はない。
あろうことかそのワーゲンはそのままの勢いで湖に突っ込んだ!
水飛沫を上げ、湖の中央まで突き進むと、車はそこにぽっかりと浮く形となった。
そしてややあってゆっくりと沈み始める。
運転手は唖然としてトレーラーを降りると事の成り行きを見守った。
それは退屈しのぎの見世物としては実にうってつけだった。
ワーゲンの白い車体が徐々に沈んでいく。
すっかりと湖に飲み込まれてしまう頃になって、ようやくその中から人影が現れた。
片手にボストンバックを抱え、湖面を泳いでくる。
若い女だ。
女はようやく岸に辿り着くと、両生類のようにそこに這いつくばった。
口からは水を大量に吐き出す。
運転手はそれを見ると、恐る恐る女に近寄った。そして大丈夫か、と訊いた。
「大丈夫なわけないでしょう?」
運転手はそんな女が滑稽に見えて、笑った。
「何がおかしいのさ?」
「だって、お前、何をしようとしたんだ?」
「捨てようとしたのさ」
「何もかもを?」
「そうさ」
運転手はひとしきり笑うと、女に手を差し出した。
女はその手を取ると、立ち上がった。
「寒いか?」
「当たり前でしょう?」
「コーヒーは飲むか?」
「もちろん、貰うわ」
二人はトレーラーに向かった。そのバンパーに凭れて女は座った。
女はまさにずぶ濡れだった。
ワーキングシャツを絞るとどっと黄土色の水が染み出した。
髪を手櫛で掻き上げるとざらざらと砂の感触がする。
靴を脱いで水を搾り出す。
傍らに置いたボストンバックを逆さにすると大量の水が零れ出た。
入っているものがごろりとそのなかで転がる。
運転手がバスタオルを投げてよこした。
女の隣に座ると、ポットから注いだホットコーヒーを手渡した。
女は何も言わずに受け取って、飲み始めた。
「どこから来た?」
「ずっと遠くさ」
「遠くってどこだ?」
「遠くは遠くさ。それ以上の意味はないさ」
「幾つだ?」
「さぁ。幾つに見える?」
「そうだな……十八か、十九か、その辺りだろう?」
「まぁ、そんなところね。お宅は?」
「ご覧の通りだ。もう中年だよ」
「結婚してる?」
「ああ」
「子供は?」
「いるよ。二人ね」
「そう」
「どうしてだ?」
「何もないさ」
女は傍らの小石を摑んで湖面に放り投げた。
紫と金色の空が映った水面に静かに波紋が浮かんだ。
空には壮大な夕焼けが広がっている。
太陽こそもう見えないが、その名残りの光がまだ一帯を鮮やかな黄金色に染めていた。
「服が濡れちまったな」
「仕方がないさ」
「どうして死のうとしたんだ?」
「ちょっと嫌になってさ」
「何がだ?」
「何がって? ……全部さ。あたいの人生なんて何の価値もなくなったのさ。あの街のことも、あの旦那のことも、赤ん坊のことも、とにかくもううんざりさ。みんな糞だ。糞ったれだ。とにかくぐすぐすくすぶって生きるより、一気に燃え尽きた方がましだってことさ。あんたにわかる?」
運転手は首を傾げた。
「別に深くは詮索しねーよ。それより服を着替えた方がいい。夜になると急に冷え込むからな」
「わかったわ」
「着替えを貸してやるから」
二人はトレーラーに乗り込んだ。
トレーラーのなかは温かかった。
運転手は女の為に自分の着替えを手渡した。
女はそれを受け取るとその場で着替え始めた。
運転手がその身体をじろじろ見ていたが、気にする様子もなかった。
それは紺のラガーシャツと黒いジーンズという格好だった。
サイズは幾分大きかったが、難なく身体にフィットした。
「とにかくどこかに行くか?」
「そうね」
「これからどうするつもりだ?」
「これから?」
「まあ、成り行きに任せるのもひとつだな」
「そうね……でもその前にひとつやることがあるわ」
運転手はその言葉の意味がわからなかった。
だから女の奇妙な行動を見守るだけだった。
女はトレーラーを降り、手にしたボストンバックを抱えて湖のほとりまで歩いた。
そこにバックを置くと、またこちらに戻ってきた。
再び、助手席に乗り込んだ。
「いったい何のまねだ?」
「何が?」
「どうしてバックを捨てるんだ?」
「あたいの勝手よ。さぁ、車を出して頂戴」
運転手は首を捻った。
「いったいあれには何が入ってるんだ?」
「そんなことあんたに関係ないわ」
運転手は女の横顔を訝しげに見つめた。
「ほんとに行っていいのか?」
「ああ」
エンジンをかけた。
そしてアクセルを踏むとトレーラーは重い腰を上げるように動き始めた。
女は目を瞑り、下を向いていた。
低く唸り声をあげたかと思うと、途端に車外に飛び出した。
湖のほとりに走り、そしてまたボストンバックを両手に抱えて戻ってきた。
運転手は言った。
「まったくわけがわからねぇ」
3
トレーラーは小さな街のダイナーの駐車場に停まった。
店の前には馬が二頭並んで駆けるネオンサインが光っている。
その傍らには『愛までまっしぐら』という文字が点滅している。
席につくと運転手はビールとステーキとフライドポテトを注文した。
女はチキンとバターライス、そしてコーラを注文した。
「ここはおいらが勘定を払うから、好きにやってくれ」
「そりぁ、ありがたいね」
女には薄々この親切な運転手が何を考えているのかわかっていた。
女は改めてその運転手の風貌を観察した。
頭はすっかり生え際が後退して、その広い額には脂汗が浮かんでいる。
面長でハンサムな顔立ち。目は笑うとだらしなく垂れ、高い鷲鼻の下には赤くて分厚い唇がある。
髭が濃い。
着ているポロシャツの胸元からは胸毛が覗いている。
背は高く、体格はがっしりしている。声が野太い。
「煙草、吸うか?」
「もちろん、貰うわ」
運転手はマルボロを取り出すと、女にくわえさせた。
その厚い唇をじっと眺めた。
赤い口紅のはみ出した大きな唇。
マッチで火を灯すと、自分も一本くわえて火を点けた。
「仕事は?」
「見ての通り、トレーラー乗りだ。ガソリンをある地点からある地点に運ぶ。時にはそれが長距離になることもある」
「今はどこに向かう途中?」
「これからもっと南部に向かう。そこには家族がいる。妻と二人の子供……」
「家族は大切?」
「そうだな。別に意識したことはないが帰る場所があるっていうのはいいもんだな。妻の手料理と、子供の寝顔。大きくはないが悪くはない家。日のあたるささやかなテラス。どれも離れている期間が長いとそのよさがわかってくるってもんだ。身に染みてくる。近くにいる時より尚更にな」
「ふん。そんなもんかい」
「まあ、家庭も悪くない」
女は天井を眺めた。睨むような目つきでまた運転手に目をやった。
「子供は可愛いか?」
「まぁな。可愛いと思わない親はいねーよ」
女は首を振った。
「そんなわけないさ。事実、あたいは一度も自分の子供を可愛いと思ったことはないね」
「そうかい」
「そうさ。生まれた時から余分な存在だったんだ。あたいの人生の邪魔者だったのさ。お蔭ですっかりあたいの人生は狂ってしまった。赤ん坊ってのは。不幸をどんどん連れてきやがる……」
「あんまりそういうことを言うと幸運も逃げるってもんだ。あんたにわかるか? 赤ん坊には罪はない。どんな赤ん坊だろうとそいつに責任はないんだ。不幸は決して赤ん坊が連れてくるんじゃない。むしろ親の心積もり次第だ。心積もりでそんなものどうにでもなるってもんさ」
「ふん。もうどうにもならないさ」
「どうしてだ?」
女は鼻で笑った。
「旦那はどこにいる?」
「え?」
「お前さんの旦那だよ」
「ああ。女を作って出ていっちまった。それが猿みたいな女でね。いつでもキャッキャッと笑って、なんでも人のものを取りたがる女さ。でもあたいもその方がせいせいしてるのさ。あんなヤツと暮らす女の気がしれねぇ」
女は煙草を灰皿に押しつけて消した。
そこに料理と飲み物が到着した。二人はささやかな乾杯をした。
「それじゃ、赤ん坊は誰が育てるんだ?」
「誰も……」
「誰も? どういうことだ?」
「……もう死んだのさ」
その言葉を聞くと運転手は息を飲んだ。
「そうかい。そいつは気の毒に……」
「気の毒じゃないさ。もともと余分なだけの存在だったんだ」
「原因は何だ? 病気か?」
「寿命だったのさ。生まれた時からもともと重病持ちでね。長くは生きられないとわかってたのさ。そのくせ治療代だの延命措置だので、さんざん金を毟り取られたよ。不幸ってのはそういうことさ‥‥」
二人はそれから何も話さずに料理を食べ、飲み物を飲んだ。
女は時折、出てくる鼻水を啜り上げ、運転手の禿げ上がった額を見た。
視線を手に移すと、そのごつごつした指に指輪があった。
運転手は視線を気にする様子でもなく、ステーキをたらふく食べ、ビールを飲んだ。
女の傍らにあるボストンバックに目をやった。
そして何やら先刻から漂うこの妙な臭気が気になった。
「おい?」
「何さ?」
「……臭くないか?」
女は言われてみて始めてその異臭に気がついた。
ボストンボックに鼻を近づけて臭いを嗅いでみる。
間違いない(この中身が臭うんだ)
女は咄嗟にボストンバックを手にするとレストルームに向かった。
女はそこの洗面所にバックの中身を放り出した。
ごろりとそれ、が転がり出た。
‥‥赤ん坊の遺体。
その遺体を女は隅々まで洗った。
ピーナッツのような指を一本一本無造作に洗った。
固まって鉄の棒のようになった足も洗った。
小さな足の裏が赤黒く変色していた。
背中も同様に血が溜まり、赤黒くなっていた。
女は全身に洗剤をつけるとごしごし手で磨いた。
小さな頭を抱えるようにして洗うと、激しい臭気が鼻をついた。
性器もごしごしと洗った。
裏返したり、表を向けたり、その扱いは粗暴だった。
しかし女は執拗に遺体を洗い続けた。
一心不乱になっていると、知らず知らずに女の目から涙が零れていた。
こういう感情に名前はなかった。
ただ赤ん坊の遺体を洗うという行為が女の感情を揺さぶらずにはいられなかった。
女は号泣しながら、赤ん坊に罵声を浴びせ続けた。
「あんたなんて最初から余分だったのさ!」
席で待っていた運転手は女の戻りが遅いので、少々苛立っていた。
何本か煙草を吸い、遂に立ち上がった。
逃げられては困る、と彼は考えていた。
彼の中にはこういう腹積もりがあった。
‥‥せっかく飯まで食わしてやったんだから、その分身体で返してもらわないとな。
運転手はレストルームの扉をそっと開けた。
洗面所に女がいた。
背後にひっそりと忍びより、抱きつこうとした時、洗い場に赤ん坊の遺体が転がっているのに気付いた。
彼は悲鳴をあげ、腰を抜かした。
赤黒い赤ん坊の遺体を洗い続ける女の行動が狂気の沙汰に映った。
慌ててその場を逃げ出した。
女はそんなことには気付きもせず、洗い続けた。
泣きながら、罵声を浴びせ続けた。
やがてふと手を止めると、ぐんにゃりとその場に蹲った。
頭を抱え、嗚咽し、しばらく天井を眺めた。
また立ち上がった。
赤ん坊を置いて、ふらふらと出口に向かう。
もう一度、赤ん坊を振り返る。
そして子犬が鳴くような細い呻き声をあげた。
「どこまであたいの重荷になるのさ!」
そう言い放つと女はまた赤ん坊をボストンバックに放り込み、それを担いでその場を出た。
店を出ると辺りはすっかり夜になっていた。
4
女はバックを抱えながら、その小さな街をふらふらと彷徨った。
どこをどう歩いているのかなど定かではない。
とにかく現れた道をただ夢遊するようにふらついた。
右足の次は左足を出す。左足の次は右足。それをただ繰り返すだけ。
どこにも行く宛てなどない。
もちろん、行く末も見当たらない。
なら、どうして歩くのか?
彷徨い続けるのか?
それ自体に意味はない。
むろん、疲れている。
しかし休むということも今の彼女には思い浮かぶことはない。
強いて言うなら全てを無くしてしまった今でも心の奥に沸き起こる激情に促されているのかもしれない。
ただここじゃないどこかへ運んでいく、自分の心のなかの熱。
今もなおそれに従っているだけ。
※
商店街を歩いた。
そこを抜けると小さな歓楽街を歩き、粗末な家が並ぶ住宅街を歩いた。
車道に出ると、女はふとモーテルの前で立ち止まった。
しかし既にそんな金銭的な余裕もない。
次の角が来たらどっちに曲がろうか?
右か? 左か?
しかしその判断すら曖昧なものだ。
どちらでも結果は同じこと。
道が続く限り歩き続けるだけ。
ただ心の底では何かが微かに騒ぎ始めている。
それは心の奥底に灯された青い炎。
それが彼女にそっと語りかけてくる。
‥‥もう全てを放り出したい。
女は心のなかでそんなことを呟きながら歩み続けた。
彼女はまさに自分の終着点を探していた。
人生の決着を着ける場所にふさわしいのはどこだろう?
突然飛び出してきた車に女は轢かれそうになった。
それで道路に放り出された。
命に別条はなかったものの、足をひどく挫いてしまった。
それでも女は立ち上がり、また路上へと戻っていった。
足が思うように動かず、引きずりながら歩いた。
手には大きなボストンバック。
ねぇ、ベイビー?
あんたはどこに捨てられたい?
どこがいいのさ?
どこに捨てられたら満足?
もうそろそろあたいは限界だよ。
あんたを連れて歩くのも潮時なのさ。
あんたともお別れだ。
肩の荷を下ろしたいのさ。
女はバックに話しかけた。しかしむろん返事はなかった。
怪我をした片足が悲鳴をあげている。
それでも女はゆっくりと歩を進める。
次第に痛みは顔が歪むくらいの苦痛に変わっていく。
遂にその場に蹲る。
まだ目の前に一本の道は続いている。
起き上がろうとしてまた転んだ。
その女の鼻腔を甘い香りがそっと刺激した。
ふと見ると傍らには一輪のバラの花が咲いていた。
‥‥白いオールド・ローズ。
周りを見渡してみた。
そこここにバラの花が咲いている。
幾つもの白のバラが月明かりに照らされて宝石のように浮かんでいる。
そこは野生のバラが群生する道だった。
バラの甘い香りを含んだそよ風がそっと吹き抜けていく。
そのひとつひとつのバラを女は丹念に見入った。
一輪のバラを見つけた。
まだ花が開ききっていない幼いバラだ。
女はその小さな花弁を手に取ってみた。
ここなら満足?
女は心のなかでそう問いかけた。
むろん、返事はない。
女はそのバラの根元を掘り始める。
小石がごろごろと出てくる。
土壌が固くてなかなか掘り進むことができない。
しかし彼女は手に傷を作っても、疲れで握力が弱くなっても、一心に土を掘り返していった。
爪の間に小石が入り込んで、爪が割れてしまった。
それでも女は痛みを感じずに、懸命に穴を掘り進んだ。
ようやくボール状に穴が空いた。
そのなかに女はボストンバックからそっと赤ん坊の遺体を取り出すと、穴の底に置いた。
そしてその赤黒い顔をじっと見下ろした。
さようなら、あたいの小さな赤ちゃん‥‥。
女は静かに土をかけていった。
赤ん坊の姿が見えなくなる時、顔をじっと眺めた。
微かに微笑みかけた。
一気に土を被せた。
だんだん穴が埋まっていく。
それが女の心に何かをもらたしていく。
遂に埋めてしまうと、大きく息を吐き出したて、天空を仰いだ。
「ああ、重かった……」
女の瞳に涙が溢れた。涙は頬をはらはらと伝った。
顔を両手で覆って激しく泣いた。
不思議とすがすがしい涙だった。
見上げると、空に輝く満天の星。
風に流されていく雲の影からそっと月が顔を覗かせている。
大きな白い三日月。
女はその場に横になった。
まだ頬を伝う涙は土に落ちて、溶けていった。
女はしばらく天空をじっと見ていた。
やがて両手を空に伸ばした。
女はあの月を奪い取ろうとしていた。
空が近くて月が本当に奪い取れそうに思えた。
あの月を自分の手に奪い取るんだ……。
女は必死に手を伸ばし続けた。
。
。
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Norah Jones 「the story」youtubeより
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