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深夜3時のひまわり

深夜3時、夏前の水分を多く含んだ空気の中、1分以上の道のりを歩くことはできそうにない荷物と幾つもの花束を手にして、タクシーに乗った。雨は細かいシャワーのように落ち、視界を曇らせては夢のように景色を霞ませる。雨で濡れた道路は車のヘッドライトや信号を反射して、その時間が普段もつ光以上に街は明るかった。

私の手元には、今後の人生を一時かもしれないが少しだけ左右する手紙が握られている。
2ヶ月ほど前に恋人に手渡した淡い青のレターセットとおそらく対となる淡いピンク色のレターセットをわざわざ探し出してきた恋人の遊びに、その時の私はまだ気付いていない。

この手紙の内容を示唆する幼稚な恋人は、私の退職を機に別れようと昔から決めていたという趣旨のことを最後に涙を滲ませながら唐突に話した。彼も同席してくれてはいたが、延々と続いた有志の送別会、二次会、三次会を終えて高揚した私をわざわざ連れ戻して、そんな話を今するのかとどこか曖昧に笑うしかないような気分だった。

こんな時にも私はいつだって他人事のように人の話を聞いてしまう癖がある。そうか、そうだったのか、と。あと数ヶ月、私が遠くに行くまではお別れはもう少し先だと思っていたから、この男は意外と先を見据えていたのかと、もう人もまばらな居酒屋でその日の役目を終えた炭の燻った煙を見ながらぼんやりと思う。

相変わらずこの男はスーツが良く似合うな。40前になっても一切余分なものは身体についていなく、抱きついた時の心地は安心感よりも高揚感が大きい。その無駄のない身体の曲線を撫でることで何かから救われていたような気持ちにもなっていた。大体、顔も声も最高に格好良い。本当は誰にも触ってほしくない。

あわよくばすっきりとセットされた髪の毛を今ここで乱してやりたい、首筋に噛み付いてやりたい。そしてこの男と会うようになってから敢えて選んでいる大きめのラメのシュウウエムラの淡いオレンジアイシャドウを顔や身体にひっそりとつけてやりたい。私の身体にはここのところこの男がつける印が必ずどこかに1つはあるのだから、こちらの刻印だって付けさせてもらわないと困るし、何も失わず元の巣に戻れると思うなといつもポップな気持ちで呪っている。

いつも日本酒を幸せそうに飲むこの男と同じペースで飲んでいたから、私の頭は既に相当に正常な判断はできない状態だったはずだが、冷静さを取り戻し、返答の正解を考える。そもそも関係として正解とは言えないものであるのに、一生懸命正解を探すのだ、苦しくも素直に正直に。
私はそうなんだね、と頷くことが正解になるとは思えなかったが、どうしても引き止めることはできないと感じて、了承の姿勢をとることをきっと決意したのだと思う。恋人の目は、寂しそうだ。

いつだってこの男は、私を少し試すように意地の悪いことを言う。私はそれに従順になる振りをして、いつも笑顔で彼がほしいであろう回答を想像し、極力伝えるようにしていた。どうしてだろう、この男は女が自分のために少し苦しんでいるのが好きなのだろうか。思えば彼とするセックスはどこか深くて逼迫したものを感じていたから、きっとそうすることで相手を支配したいのかもしれない。彼はとても幼稚だから、それは無意識にしていることのような気もするからそんなところも可愛い。

少しだけ記憶は都合よく飛んでいて、私たちは居酒屋を出て最後の話をしていた。恋人は、少し泣いていた。
私はどうすべきかこの後に及んでまだ考えている。
離れたい訳では全くないが、これ以上別れが苦しくなる前には確かにいなくなるべきなのだろう。それを今、決断することが大人なのだろうか。道沿いで立ってそんな話をしているものだから、次々とタクシーが覗き込むように私たちの様子を伺っていく。まだ乗り込みたくない、その一瞬のことしか私は考えられていなかった。だって、そうしたら、もう終わってしまう。

でも、恋人の目の前で、私は正解を道に捨てた。

正解と引き換えに、この男の欲しい答えを差し出すことにして、そして自分の感情をコントロールすることを止めた。頬を伝い始めた涙と、どうしてそんなこと言うのという言葉、彼のそこまで大きくない皮膚の固い手を控えめに握るという、少しの接触と。正解とおそらく逆の方向を進むことが気持ち良かった。彼はきっとこの手を振り解けない。そう確信していたし、彼の涙は悲しみから少しの悦びを含んだようにも見えた。

正直に言うと、お互いにすごく酔っていて、その先の話の続きをあまり覚えていない。それでも私は涙を延々と流し、おそらくは引き止め、恋人は私の頬の涙をずっと拭っていた。少し眉が下がった彼の困った顔が私はとても好きだ。彼が叶えるのが少しだけ難しそうなお願いをして、その顔を見たい。そして頑張ってたまにそれを叶える彼を見て幸せになる。彼はその時の表情をしていたと思う。

淡いピンクの封筒に包まれた手紙が今の全てだからと恋人は言って、結局の結論がどちらなのか曖昧になったまま、私はタクシーに乗った。
あたたかかった。何かに包まれたようにすごく安心した。
どんなに泣いても、霧雨のせいで元々街も地面も湿っている。この湿っぽさは決して今の涙のせいではない。雨で濡れた夜の東京は、いつもとても美しい。

彼からの手紙を読むために、車内のライトをつけてもらった。
そこにはたくさんの私の好きなところ、これまでの仕事の労い、まるでプロポーズみたいだねという台詞とともに、私を失うことなんてできないといった趣旨の言葉が何枚もに渡り書き連ねられていた。読んですぐ、ライトは消した。これは、明るさに耐えられる代物ではない。

これが、私たちのこれからなのだろうか?何だかさっきまでの話と、この手元の手紙と、あまりにもかけ離れていて私はとても混乱した。混乱が涙になりさらさらと溢れていた。ただひたすらに東京の街を見ながら、家までの道のりを過ごした。

タクシーの運転手が述べたことは、おそらく4つだ。
飴ちゃん食べますか?(泣きながら早速いただいた)
人生いろいろありますよね。
無理しないでね。
お客さん、ひまわりが似合いますね。

最後の一言には、少しだけ笑顔になった。
確かに私が抱えた一番大きな花束は、ひまわりだった。こんなに号泣している女に一番似合わないはずの、太陽のような花。ひまわりは誰かを照らすのか、そうだとしたらとても背負うものが大きな花だ、誰かひまわりの気持ちを聞いてあげなければ、きっといつまでも輝いてなんていられない。
誰かのひまわりであることよりも、私は本当は穏やかに生きていたい。でも素直にその言葉は心に染み込み、太陽の気配を心に取り戻すことができたようにも思う。

涙に雨に濡れに濡れたそんな女は、家に帰りもう一度恋人からの手紙を読んで、溶けるように眠りについた。翌日、当然のように大きく腫れた目と、やけにお酒の消化されていない身体を抱えて、これからは何が起こるんだろうと静かに考えた。分かるはずもないことだが、敢えて昨日選び取った不正解を、私はもう少し抱えて生きることになるのだと思う。

この夏は、最高に晴れた日に、ひまわりの花でも見に行ってやろうかと思う。
間違えても、苦しくても、今好きなものの笑顔を見ていたいと思うくらいにはバカなのだ。
バカみたいに幼稚な恋人と、ひまわりの花を見て過ごしたいような気が、今はしている。

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