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彼岸花に思う

彼岸花が咲いていた。まだ暑い日もあるが、しっかりと夏の終わりを告げられた気がする。「もう楽しい時間は終わり」幼少期のセンチメンタルが蘇る。あの日も、彼岸花を見つけ言葉にならない寂しさを抱く。

私の母の故郷は、新潟にある。毎年、夏休みに入ると幼い私たちを長いこと新潟に連れて帰った。2~3週間ほどの期間だっただろうか。滞在期間が長かったので、帰省前母は決まって着替えなど段ボールにつめて宅配便で送った。
行くときは、両親と弟の4人で新幹線に乗ったが、仕事人間だった父は、1泊だけして、翌日は新幹線で1人東京に戻った。父のことが好きだった私は、見送るホームで毎年泣いた。泣くのが恥ずかしくて我慢するのだが、結局毎年泣いていた。

父が帰っても、母の実家にはたくさんの大人がいた。お盆に合わせて各地から続々と親戚が集まってきているのだ。母をはじめ、女の人たちは皆忙しそうで、男の人たちは気ままにお酒をのんで大声で笑っていた。大抵の人たちは方言を話すので、聞き取るのが難しく何を話しているのか見当もつかないことも多々あったが、滞在期間が長くなるにつれ、次第に言葉が分かるようにもなり、「新潟の言葉なのに話してることがわかって偉いね」と褒められ得意気になったことを思い出す。子どもの私からしたら、方言はなんだか異次元でかっこよくも見え、自分も話してみたい憧れのようなものだった。

新潟で過ごす夏はとにかく楽しかった。毎日のように海に通い、時には川に行き、大好きなトマト(それも捥ぎたて)を毎日食べ、夜は手持ち花火をした。私が就学前、母は農業用の一輪車に子ども2人を乗せ、歩いて20分くらいの海まで毎日のように運んでくれた。その時の写真が残っている。幼い姉弟を一輪車に乗せて海に向かう母の姿。その写真は一体誰が撮ったのだろう。当時母は大変だったと思うが、私の心の中でそれは今でもとても楽しい夏の思い出として強く残っている。

海で食べる筋子のおにぎりの旨さ、町で一件しかなかった小売店のことを「やすこさん」と呼んでいたこと、おじちゃんの渋いワゴンカー、五右衛門風呂をふつうの風呂に改装した年のこと、大嫌いだったミョウガ入りのお味噌汁、おじいちゃんとひいおじいちゃんのいつもの喧嘩、オニヤンマを捕まえようと近所の男の子と追いかけた夕方、お盆にお墓参りで山に登ったこと、ひいおじいちゃんのお葬式…。30年経った今でもたくさんのことを鮮明に覚えている。小学校の自由研究で、確か都会と田舎の違いなんてものをやったっけ。

新潟から東京に戻る時、毎年さみしいような切ないような、でも家に帰りたいような、不思議なマーブル状の気持ちが小さな体に溢れた。

今年、遅い夏休みを取り、3年ぶりに岩手にある義実家に行った。子ども達は畑で野菜を収穫するのを手伝っていた。広い家で思い切り走り回り、義父に怒られていた。ひいばあちゃんに会い、大きな声で年齢を訊ねていた。山から海を臨んで、海から山を見上げた。3日間という短い時間で、子ども達はたくさんの岩手の光景と触れ合った。私はその姿に、新潟での夏の日々をそっと重ねる。小さいうちに、東京以外の生活に触れられることは有難い。

彼岸花がずい分と遠い日々に私を連れ戻した。学校の行事や部活で忙しくなりいつの間にか新潟に行く夏が無くなっていた。

今、母の生家には誰もいない。


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