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病と向き合う叔母の思い出

「本当にありがとう」

義理の叔母のお葬式で何人もの

親族に声をかけられました。

私自身が選択し、私自身が当たり前だと思って

過ごしてきた日々に対するお礼でした。

義理叔母の人生

叔母は未婚で美容師の資格を持ち、戦後に従業員を雇って美容室経営をするバリバリのキャリアウーマンでした。(今、生きてたら98歳かな)

戦時中、生まれた土地に残った女性達が集められ、敵がせめてきた時のために訓練させられたことや、戦後に美容師資格を取得するために一人で上京したことを聞かせてくれました。

控えめな性格で傲った所がなく、いつもニコニコしていました。自分で贅沢をすることはないのに人にお金を使うのは惜しまないような温かい人でした。

叔母の異変

そんな叔母と2世帯住宅で同居してから18年。

叔母に異変が起こり始めました。

叔母は多くの人に慕われていました。自宅にもたくさんの人が出入りし、80歳超えても学ぶことを楽しんでいた叔母は踊りの稽古や病院の健康講座にも参加するような人でした。

ずっと一人で生きてきたから決して弱音を吐かない人なのにある時から悲しそうな顔で

「踊りをやめようと思う。私は歳なんだから憶えられないのに先生に怒られる」

と言い出したのです。

その頃から部屋の前を通りがかると扉の隙間から電気もテレビもつけずにソファーにうな垂れるように座り込む叔母の後ろ姿を見かけるようになりました。

定期的に参加していた会合にも顔を出さなくなって家にこもるようになっていった叔母。初めは行きたくないのだと思っていました。でも後から、叔母の脳は今日の日にちも時間も約束も、新しい記憶を留めておけない状態だったのだとわかりました。

「これ食べなさい」と持ってきてくれたお菓子やお寿司にはカビが生えていました。冷蔵庫には特定の食品が大量に入っていました。冷蔵品がタンスの中にしまわれていたこともあります。

「かおりちゃん、私、バカになっていく…」

時々、こぼす叔母にしてあげられることは寂しさを紛らわすことでした。

叔母が元気だった頃、まだ若い私に言いました。

「若い時になんでもしておくといいよ」

私がヨガを学びに家をあける時も、インドにいった時も叔母は家族の面倒を見ていてくれました。

そのヨガで学んだ事を生かし、叔母の体に直接触れ、マッサージもどきや足浴などの自然療法もしました。ただただ安心させてあげたかったのです。

「一人ではないよ」と。

寝息を立てる時、緊張が抜けない時、一点を見つめている時、その時々で叔母の状態は違いました。でも終わったあとはニッコリと笑っていました。

感情の抑制

ある日の朝、言葉がもつれ、手の異常を訴えた叔母を病院に連れていくと外傷性硬膜下血腫でした。思い返すとひと月前あたりに目の周りが青タンになっている事がありました。それは後から一人で買い物に出て、転んで歩道の縁石に頭をぶつけていたと知りました。

「一人の外出は控えるように」

少しづつ叔母への行動制限がかかるようになり、家族も言ってきかせる事が多くなりました。それは叔母にとっては辛い事だったのだと思います。

きっと私は当時、1番叔母の近くにいたのだと思います。叔母の状態は徐々に悪化していきました。お金を投げつけたり、憎しみの目で私を睨みつけることもありました。

感情の抑制がきかなくなった叔母は時々、私に攻撃的になりました。

徐々に私の仕事が軌道に乗り、新しい活動に足を踏み込もうとしていた時期でした。

みじかな家族の苦悩

一緒に生活をしていると外から見えない事が多くあります。ただアルツハイマーはとても不思議でした。みじかな家族にみせる姿と外にいる人間にみせる姿が違うのです。

身内には症状があらわに出るのに、外の人にはシャッキと何もなく振る舞います。だからこそ身内の言っている事が外の人には通じない時期がありました。

日によってムラがありました。けれども確実に日常をまじかに見ていると症状が悪化していました。そして徐々に私たち家族の生活や精神的な負担も増えていきました。

「よく頑張ったよ。自分を責めることはない」

やはり同じように義理母の認知症をまじかで見続け、介護経験を持つ母が言いました。それは、叔母の小規模介護施設入所の手続きのあとでした。

施設に面会に行くと荷物をまとめて待っていた叔母は「迎えにきてくれたんだね」と嬉しそうにしていました。その姿がとても辛かったのを覚えています。

「まだ自分にできた事があるかもしれない」

「叔母を見捨ててしまった」

月日が経ち、諦めだったのか症状が進んだのか、叔母は荷物をまとめて待つことも「一緒に家に帰る」と言うこともなくなりました。ただ施設のテーブルの上に突っ伏している姿や私の名前さえも忘れてしまったのか、私たち家族の顔を見てただニコニコとしている叔母の姿がありました。

死を迎えるとき

叔母は危篤になってから約2週間ほど意識を戻すことなく亡くなりました。その2週間は毎日、病院へ通い続けました。何も反応のない叔母にずっと話しかけました。

「家で看てあげられなくてごめんね」

「一緒に住む時に最後まで私が面倒みるから安心してっていったのにごめんね」

「1度だけ、同居しなければよかったって言葉に出したのごめんね」

「たかより(息子)を可愛がってくれてありがとう」

返事のない叔母に話しかけました。叔母は苦しそうに息をしていました。時々、水を含ませた脱脂綿を唇に当て、手に触れていました。

そして、叔母は息子の大学受験を終えるのを待って息を引き取りました。2週間、頑張って生きて、私たちの心の整理をつけさせてくれたのだと思っています。

新築の家に叔母と引っ越した時の嬉しさと叔母の思い出は一生心の中に自分の人生に刻まれています。

叔母ちゃん
叔母ちゃんが過ごしていた場所は昨年末に見違えるように変わったけど、叔母ちゃんが生きていた時のようにここはたくさんの人が集う場所になるよ。


だから親族にお礼を言うのは私なんだと思う。

「こちらこそありがとう」


アルツハイマーや認知症はとても辛い病です。それは当人にとっても家族にとっても・・だからみんなで支えあってほしい。




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