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どんな人と関わるかで人生は決まる

草木が生い茂った場所に飴玉を転がすと、どこに潜んでいたんだってくらい大量のアリや虫たちがやって来るのね。私の海辺の散歩道も、誰が捨てたのかケンタッキーの骨なんかが落ちてた朝には、普段はいないカラスが集まって奪い合いをしているの。目を合わせないように通り過ぎるんだけど・・・。

私は自信がありませんというオーラを放っていると、どこに隠れていたんだ?よく発見したなという位の猛スピードで、ズルい人たちが近づくの。
優しくておとなしい人はそうじゃない人に貴重な人生時間を搾取されるの。
理不尽に満ちあふれている日本社会は、優しくて真面目な人が不利を受けて損をする。利己的でズルい人が大きな声で文句ばかり言いながら得をする。その原因は、搾取されてしまう大人の育った環境、つまり、子どもの頃から植え付けられる間違った価値観にあるのね。
人の心の根っこを作るのは、子どもの頃に1番長い時間を過ごす大人である親。次が学校の先生や周りの大人たち。その大人たちが、

周りの空気を読んでおとなしくしていなさい。
自分を犠牲にしてでも他人に迷惑をかけてはいけません。

なんて、くり返し間違った価値観や考え方を「これが正しいんだ」と言い続けているんだから、子どもが疑いなく信じ込んでしまうのはあたりまえだし、だから、大人になっても洗脳が解けずにズルい人たちに騙されてしまうの。

1年生になったら 1年生になったら 友達100人出来るかな~♪ 
子どもの頃にそんな童謡を歌わされたけど、私、別の意味で動揺したのを覚えてるの。まだ私もピュアだったから、真に受けちゃってね、(ひゃ、100人?いやいや、どうしよう、無理だよお)って焦っちゃったのね。
歌詞を書いた方の意図は違うのかもしれないけど、大人になって気づくのは、順応性の高さというのは狡猾さであり、ズルさであるということ。
100人は大げさでも、友達が多い自慢している大人にろくなのいないでしょ。一方的に友達としてカウントして持ってる名刺の数が多いだけの話して、他人の話はあんまり聞かない、トークよりスピーチが得意な人だったりするのね。友達多い自慢は、コンプレックスの裏返しであったりするのね。

自信満々とはいかないけれど、私は私で自分の人生をのんびり過ごしたい。
毎日が充実してまーすとわざわざSNSで声高に叫ばなくていい。
すごい自分を演じなくていい。
他人に干渉されず、監視もされず、お互いに尊敬し合いながら、認め合いながら、ちょうどいい距離感で人生を楽しみたい。
だけど、困ったときはお互い様。恩着せがましくなく他人を助けられるし、素直に助けを求めることも出来る。

素敵だよね。
でも、これってね、自分でそういう願望を抱くだけでは現実にならないの。なぜなら自己主張しない優しい人には、利用しようとする人が近づくから。
この人なら、文句も言わずに時間も労力も捧げてくれるな、奪っていいんだなと考える損得勘定だけの卑怯な人たちが、世の中にはわんさかいるから。
そして彼らにとって優しい人とは、自分にとって都合のいい便利な人なの。

ふりかえってみると、私はいつも身近な人に相談ばかりされていたな。
なのに、自分が本当に困ったときは相談する人が周りにいなかったな。
そう思ったあなたは、相手が自覚していたかどうかは不明だけど、単になめられていたのかもしれないの。それを認めるのは悲しいことだけどね。

人生って、誰と関わるかがとても重要なの。誰と関わらないかも重要なの。
自分が選んだ人間関係の「質」次第で、自分の人生の質は、充実度は決定してしまう。そして、他人の痛みまで想像してしまうような優しい性格の人ほど、人間関係の選択を他人任せにしてしまう。

誰とでも仲良くしなさい、
どんな人にも必ずいい所があるんだから見つけてあげなさい、
自分が我慢すれば済むのなら我慢しなさい、自己犠牲しなさい。
・・・本当は嫌なのに、自分の本音じゃないのに、本当の気持ちを表に出して自己主張しようとすると急にブレーキをかけられて、また、自分以外の何かに従ってしまう。気づいたならもう、そういう生き方は終わりにして欲しいなって願っています。



私を必要としてくださる方にもっと近くで言葉をおくれないか、寄り添えないかと考えてnoteを始めました。これからも心を軽く出来ますように、心をこめて発信していきたいと思っております。時には期待に応えられないような内容もあるかもしれませんが、どうか温かく見守っていただけたら嬉しいです