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高身長で赤あざのある私: 4. 大きな転機について②~カナダ留学時代

引き続き、高身長なのと、右上半身(首から指先まで)に大きな赤アザを持って生まれた私のこれまでの人生についてと、どうやって今はずっと楽に生きられるようになったのかを順を追って書いています。どこかでなんらかの生きづらさを感じている誰かにひとりではないよと、いうことが伝えられたらいいなと思っています。

今回は、その自分史の4回目で、カナダ留学と大きな転機②についての話です。

前回の大学生時代までについての話はこちら。

さて、大学を卒業して就職や転職をし、30歳というひとつの節目が徐々に近づいてきたころ、彼氏と別れて時間を持て余し、何かうちこめることを探して本屋に入りました。
そこで目にしたのが留学をすすめる雑誌で、いつか英語を話せるようになりたいと思いつつ、ここまで勉強してこなかったことに気が付きました。そして、4か月後に行くことを決めるとあっという間に準備を進めてカナダに旅立ちました。

前回の記事にも書きましたが、私は日本にいると、この身長のせいでとても目立ち、常に視線や背後での身長にまつわるひそひそ話をききながら居心地の悪い思いをしていました。さらに、悪いことには、身長で視線をあつめるだけでなく、腕の赤あざでさらにジロジロとみられたりして、常に不安と疎外感を感じているため、自尊感情がとても低く、自己受容はできておらず、自分を愛することができていませんでした。

ところが、カナダでは身長どころか、体型やファッション、髪型、瞳の色、話す言語などの異なるさまざまな人が、他の人とは違った自分のままでいて、それを周りの人が気にもとめないでいるため、そんな中で生活することでやっと息苦しさから少しずつ解放されました。

この身長であっても動物園のパンダのようにジロジロとみられず、そして赤あざが見える服を着ていても、痛々しい腫れ物に触るような反応や、異物に対しての拒否反応みたいな視線を感じることはありませんでした。むしろ単刀直入にこのアザはどうしたのかと、真摯にちゃんと聞いてくれるので、隠す必要を感じることがなくとても気が楽でした。

そう聞いてくれるほうが、気持ち悪がっているのではなく、知ろうとしてくれているんだということがわかって安心するのです。一方的な視線という手段では、異質なものを自分と距離をおいて見る、という行為に感じるのに対して、向き合って質問をしてくれたことには、偏見を持たずにまずは近くに寄って理解しようとしてくれたという人としてのコミュニケーションというものを感じられたのです。

日本では皆が似たような見た目であることが多く、そこにどうやってもなじめないため、辛い思いをすることがとても多く、恥ずかしい思いで毎日を生きていたため、自信のかけらも、自己受容もありませんでした。

ところがカナダで、いろんな人がいていいんだという本来当たり前のことを経験して実感し、勉強してある程度の英語を身につけることができたという自信をつけ、カナダ/アメリカをバックパックでひとり旅した経験から、なんでもやりたいことはできる、楽しめる、トラブルがあっても乗り越えられる、自分にはできるという自己効力感をすこしずつ高めることができました。

そして鼻毛も凍るマイナス40℃にもなるような本格的なカナダの冬に突入する前に、9か月の滞在ののち、日本に戻ってきました。


しかしまだこの時点では、できない自分、どんな自分でもありのままに受け入れるという「自己受容感」は身についていませんでした。


つづく。


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※ 単純性血管腫(赤アザ)は、他の人にうつりません。触っても痛くありません。でも理解のない人、知識のない人から避けられたり、ジロジロとみられることによって心が痛みます。

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