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#045河内木綿の盛衰と地域の産業構造の変化ー論文執筆、落穂ひろい

 今回は地域の産業についての論考の落穂ひろいです。

 筆者の出身地は大阪府の東部で、いわゆる旧河内国にあたります。江戸時代中期から、農業の商品作物として「河内木綿」が盛んに生産された地域です。これは地域を流れる大和川が宝永元年(1704)に付け替えられ、旧河川敷が新田開発されたことによります。小学校の郷土教育で、河内木綿を生産することで、地域が経済的に潤ったということを習いますが、その後どうなったのかということについては触れられません。そういう疑問から書いた論考が下記のものです。

 この論考では、どのようにして江戸時代に生産者から木綿商に河内木綿が渡っていくのか、木綿商ではどのような仕事があるのかについて述べたものと、明治時代以降の統計から河内木綿の生産量を他地域のものと比較しながら生産量の推移とその変化について述べたものとにより構成されています。後者は特に先の疑問に答える形の内容になっていますが、これを執筆する直前に読んだ、川北稔『砂糖の世界史』(岩波書店、1996年7月)の影響が論考の中では色濃く出ているのではないかと、自身では思っています。砂糖やコーヒー、紅茶などと共に並んで世界で流通していた商品の木綿。日本も有数の木綿産出国だった訳ですから、海外と貿易することで日本もその利益に預かったのか?また日本の在来の木綿産業はその後、どのような推移を経ていくのか?という点について中心に述べています。

 最初の疑問点の日本の木綿産業が明治維新後にその利益を得られたかという点については、そもそもの木綿の種類があだになり、海外の綿製品に負けてしまいます。インドやアメリカで産出されていた木綿は毛足が長いため、機械による製糸に対応出来たために大量生産に向いていましたが、日本で作られていたいわゆる在来綿と呼ばれる木綿は毛足が短いため、機械による製糸には向いていなく、大量生産出来ない状態でした。これまでのように手紬ぎの糸による生産ですと、産業革命を経たイギリスなどにはとても太刀打ち出来なかったようです。そのため、木綿の代表的な産地の一つであった大阪の木綿の生産量が、明治前期にピークを迎え、その後は作付け反別が減少に転じていくことになります。しかし、地域住民もそのままでは済ましません。何とか海外で生産されている種類の木綿を作付けすることなどを計画して対応しようとします。結果としては、試験的に毛足の長いアップランド種を作付けしますが、枝葉は繁茂するものの、肝心の綿実部分が大きくならずに失敗に終わります。

 二つ目の疑問点の、日本の近世以来の木綿産業のその後がどうなったか、についてですが、これは国内の木綿の販売価格から分析しました。というのも、江戸時代の河内木綿は品質の高さから高級品として扱われていましたが、果たしてそのような高価な価格で海外からの輸入綿織物に対抗出来たのか、という問題が伴うからです。こちらも明治前期から大正時代にかけての統計書から市場価格の推移を見て取れます。大阪から産出される木綿は、明治前期には市場価格が0.9円ほどで、他の地域の市場価格の倍ほどの価格を見せており、それだけ品質が高かったことの証左といえます。一方で他地域はというと、元々低品質だったことから、縦糸ないし横糸のどちらか一方を安価な輸入綿糸に替えて製織することを考案し、輸入品=唐物が半分入った製品ということで「半唐」として販売することや、縦糸、横糸の双方共を輸入綿糸に替えて製織する「丸唐」を販売するなどして対応していきました。他地域の木綿は品質の維持という方向性を取らず、輸入綿糸を混ぜることで価格を抑えて生き残りをかけたと言えるでしょう。これらの他地域の対応の変化と比較して、大阪の河内木綿は、品質の高さから輸入綿糸を使用することを顧客から許されず、価格を下げることがままならないようになり、価格で勝負が出来なくなるという状態に陥って衰退をたどっていくことになります。

 このように河内木綿の衰退について記したわけですが、その後の読書で、玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生ーオランダからイギリスへー』(講談社、2009年9月)を読んで、自分の記述が片手落ちであったということに気が付きました。確かに地域の木綿産業は衰退していきましたが、地域住民たちはその地域に住み続ける訳で、その地を生活出来なくなって捨てる訳でもなければ、他の何かを生業として生活を続けていく、という描写が欠落していた、と。これは、この産業が発展して、こちらが衰退しました、という表現は簡単に出来ますが、その後も地域住民の生活は続くわけですので、地域史の表現としては大きな課題を残してしまったという思いがあります。

 その後、どのようにして地域社会が経済的に変化していったかを、調べた範囲内でごく簡単に補足しておきます。上記の木綿の衰退期に、実は木綿の畑として新田開発された旧河川敷の土地に鉄道を通すことが計画され、実現しています。これは、木綿産業やその他の関係から、大阪との流通を密にすることが目的でした。しかし、鉄道の敷設は、結果として木綿の移出入より、その後の経済の発展に貢献します。鉄道を敷設した新田地は木綿の衰退により、畑地から工場地へと変化し、鉄道の路線沿いにあることで、原材料の搬入と製品の搬出に非常に有利に働く立地に結果としてなりました。

 河内木綿の産業としての進展は、江戸時代に発展した木綿産業が明治時代から大正時代にかけて衰退して、その終焉を迎えます。しかし、地域社会はその後は木綿畑だった旧河川敷を鉄道を敷設することと、工場地化することで、経済的な安定がもたらす方向性を選んだ、という経緯をたどります。これがダメだったからなくなった、これが出来なかったから滅びた、という議論は実は簡単で、その地域に残された人たちがどのようにしてその後を過ごしたのかを、誇りを持てるような書き方をする必要が地域史には非常に大事である、ということを学んだのがこの一編の論稿になります。

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