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#076あまり考えてこなかった女性史について考えてみる-明治期地方政治に登場する女性の立場、役割

 先日、女性史について少し書いてみないかというお誘いがありました。こういうお誘いはめったとないので、と思って何か書こうと思ったのですが、そもそも女性史できちんとした枚数を書けるネタがないことに気づいて断念しました。普段からそういう方向での問題意識が薄いということなのでしょうね。非常に反省する点でもありました。親しくさせていただいている先輩研究者の書いた論文で、自身の親について書いたものがあり、こういう女性史、家族史的なテーマでも論文が書けるのかと感服したことがありました。高久嶺之介「母たちの昭和史―高久タケ・柏原シゲ―」(『女性歴史文化研究所紀要』25、2017年3月)という論文です。下記にURLを記しておきますので、ご興味のある方はご覧いただければと思います。

 さて、では自分では女性が出てくるような史料を今まで気にしてみているかというと、あまりそのような問題意識では見てなかったなかったなぁ、と思いながら、ふと思い出したのが、拙稿「郡長深瀬和直と初期選挙」、「明治期一地方官僚の肖像―深瀬和直小伝―」で取り扱った深瀬和直に関わる史料についてです。

 深瀬和直は土佐藩出身の人物で、幕末期には土佐勤王党に属しており、明治期に至って大阪府で地方官僚として活躍する人物です。彼は大阪府庁から各地の郡役所へ転任を繰り返したので、家族は各任地へと一緒に渡り歩いていました。下記の資料は島上・島下郡長時代のものです。

「●楠公子別れの松  府下島上郡桜井駅に在る楠公父子訣別の紀念とせらるゝ『子別れの松』には曾て玉垣を建設しつゝありしが頃日竣工したるに就き来二十日其落成式を挙行し昼夜花火の打揚げ等もあるよし」
(『大阪朝日新聞』明治二七年五月一六日付)

 摂津国島上郡桜井村(現在の大阪府三島郡島本町桜井)にある西国街道の宿駅・桜井駅は「大楠公、小楠公桜井の別れ」のあった史跡として知られています。その場所に「子別れの松」と呼ばれる松がありました。現在は枯れてしまって、その根元が残るのみですが、明治二七年(一八九四)にはまだ残っていたようです。その松を保存するために周りに玉垣を建設して保存しようという動きが地域でありました。玉垣建設にあたってその記念碑として現在、西国街道沿いに「忠義貫乾坤(忠義、乾坤を貫く)」と題字の書かれた記念碑が設置されています。題字は「正七位勲六等藤原和直」とあり、これは深瀬和直のことです。裏面は玉垣建設のために寄付をした人たちの名前が数多く記されています。寄付者一覧を見てみると、島下郡真砂村の馬場三右衛門からは金二円、織了恵、森脇馬之助、西田嘉七、久角伊之助、気比要喜知、植場平、小方七郎、奇二治郎兵衛らが金一円の寄附をしており、島上郡、島下郡にわたる地方名望家がこぞって名を連ねています。その中に、金三円として「茨木・深瀬千世子」、金二円として「茨木・深瀬皓意子」と女性二名の名前が登場します。この深瀬千世子は郡長・深瀬和直の妻で、深瀬皓意子はその娘です。彼女らは郡長深瀬和直の活動に対して協力しているとして、献金者の中に名を連ねています。もしかすると玉垣設置の主唱者として、郡長自身が大きな金額の寄附をすると手前みそになってしまう手前、妻や娘を代わりに出しているのかもしれません。あるいは、政治家は宴席などには妻を同伴して連れてくるのが常ですので、家族も協力しているという面を強調する必要があったのかもしれません。どちらにしても、本人ではなく家族の中でも妻や娘といった女性が矢面に立たされています。このように家族総出で尽力しているという面を際立出せるのが、女性による協力の効果といえるのではないでしょうか。

 こののち、深瀬和直は丹北・河内・高安・若江・大懸・渋川郡役所(通称八尾郡役所、のちの中河内郡役所)、石川・八上・古市・安宿部・錦部・丹南・志紀郡役所(通称富田林郡役所、のちの南河内郡役所)へと転任しますが、家族も伴って転任し、その仕事に協力していました。

 富田林というと、与謝野晶子と並び称される雑誌「明星」の歌人・石上露子の出身地です。石上露子は本名・杉山タカ(孝)といい、富田林の地方名望家・杉山団郎の娘です。杉山家は酒造業で財をなした地主で、団郎は進取の気性の人物として知られており、その娘のタカは家や夫の束縛にあいつつも、雑誌「明星」で活躍し、女性歌人として人間性を否定する戦争・軍隊に反対する反戦の作品を送り出した人物です。その彼女は深瀬和直と同じ時期に富田林に住んでいました。父親の杉山団郎は地方名望家としても活躍していましたので、石上露子にも政治の場への登場はあっただろうと、調べてみたところ、出てきました。

「日露の役
 またまけたか八聯隊などいやな小唄がながれる四師団下の部内に戦死者が続出。郡長夫人と私は愛国婦人会の記章、さては日赤のそれなどを胸に、日毎の様に村々の葬儀に参加する。
 山間僻地では郡長は昔の領主ほどの権威がある。兵事課長やらなにやらその一行に私達も加はる。戦死者を出した家へ案内の村長がまづとびこむ。
 なんだあれほど時間を云つといたのに支度が出来とらん、そら早く白衣を着るんだ、袴をはくんだ、いや反対ぢやないか、片足はそつちへ入れて、叱りとばされて汗みどろ、落語そのままなのを笑ひも得せず。またある寒村、よゝと泣き入る母親に戦死すればこそおまへ達一生見ることも出来ない地主のお嬢さまにかうして葬式を送つていたゞけるのだ、とものものしげなる説得を、女も男もおとなしううなづく素朴さ。私の胸はたゞ暗う重い。
 車夫達までが得意さうに私達一行をのせて走る道のかたへ、さけびをあげて列のまへ出ようとする生徒を整列させる努力していゐる村の校長は幼時のあの時のあの作文の先生、車上から心からの黙礼をさゝげて過ぎたが村夫子として過された歳月の流れ、先生はあの時の私を今も覚えておいでになるか、よし覚えておいでになつても、それは、愛国婦人会の幹事として、地主の子としてのみではないだらうか。そんな事さへ淋しさが添ふ。いやなこと、きらひなかげもいまはなべてなつかしい。」
(「石上露子自伝 落葉のくに」(大谷渡『石上露子全集』東方出版、一九九八年六月、二四六頁)

 日露戦争の最中の、地域から出征した兵士のうち、戦没者が出た際には郡長婦人と一緒に露子も愛国婦人会の記章を付けて、地方名望家の娘としてお悔みに回る立場であったことが判ります。前線で戦っている地域出身者が安心出来るように、銃後での働きを担わされていたと言えるでしょう。しかし石上露子はお悔みに回りながら、幼き頃に作文を教えてくれた憧れの先生が、学校の校長となっており、公式のお悔みの場なので自分には一顧だにない、あるいは地主の娘としか目に映っていなかっただろうという、寂しさをこの文章では描いています。このような本人の意思とは別に、地方名望家の娘として公務に服さないといけない雰囲気というのが、明治時代の当時には女性に課せられていたのでしょう。また、石上露子と深瀬和直とのかかわりの中で、日本赤十字社に関する文章も出てきます。

「桜おち葉
(中略)
 今夜も三人三様、別々なおもひで筆をとつてゐると、郡長様からと店のものが次の間から手紙をさゝげて。封を切ると早急ながら秋の赤十字社大会に明朝上京、同行いかゞと。見上げる私へ行つてお出で、とありがたいお言葉、返事を書いて使に渡す。お嬢さまがあす東京へともう店中のどよめき。
 大阪へひとり出かけるのさへ、珍らしさうに云ひはやす時代、無理ともおもへず。旅費はと御父様の仰有るのに、往復二割引の汽車賃とそれに応じた宿泊料をふくむやうに、三十円とお答へする。
 むらさき綸子の紋付、袖は二尺のといささかの手廻り品とを、殿居袋に。下着も帯も当日はこれをと上に通常服を重ねて、古代紫の被布をはふつて翌朝七時半、郡長の玄関に立つた私の手がるさに夫妻のおどろかれたも道理。見ればごたごたした数々のお荷物、従何位何々の礼服まで持参せねばと云ふお気の毒さ。関西線を名古屋で夜行まつま、お宅へもと絵葉書を差し出されて、無事とばかり、気の進まぬ文字はと云ひてまたわがまゝを笑はれる。」
石上露子「自伝 落葉のくに」(大谷渡『石上露子全集』東方出版、一九九八年六月、二五一頁)

 日本赤十字社の東京大会に深瀬和直夫妻に伴われての東京行きに同伴する石上露子の様子が描かれています。彼女は大阪へ出ることも自由ではなかったようですが、資産家の娘であったため、突然の東京行きについても親から簡単に旅費の工面が出来ています。彼女自身の雰囲気としては、何となく親と一緒なのが気鬱だったのでしょう。これ幸いと東京行きの提案に気軽に乗っており、夜行列車の道中に、郡長婦人からでしょうか、自宅へ手紙でも、と勧められていますが、無事でいます、くらいしか書くことがないと言って、郡長夫妻に笑われているさまが描かれています。

 このように、赤十字のような団体の会合にも郡長婦人や地方名望家の娘が駆り出されて、活動をしている様子が判ります。日本赤十字社自体が、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が設立と運営に寄与してきたこともあり、女性が大きくかかわる団体として活動しています。その中に、郡長や地方名望家の妻や娘が組み込まれている様子が読み取れると言えるでしょう。

 働きたい、外で活動して認められたい、という願いを持つ女性であった場合、主導的な立場ではないにしても、副次的に男性の政治活動の支援を女性は求められ、その希望を叶えられるような活動の場が用意されていくことになるでしょう。もう少し後の時期では、戦時下の国防婦人会などで、家よりも外で活動したい女性の希望が中央政治の意向の中に収れんされていく、ということにもなっていくように思えます。

 とはいえ、石上露子は、ここで取り上げている通り、政治協力も何となく上の空、憧れの先生のことを思い、家族の桎梏から逃れるために赤十字大会も利用して東京へ旅行、という、それほど主体的なような印象は受けない様子です。ここに記されていることを見る限りでは、石上露子は現代を生きる女性と何ら変わることはなく、現代女性でもごく一般的な反応だと言えるでしょう。石上露子に関しては、彼女が素封家の娘であり、また文才があったこともあり、著名な女性として史料が残りやすい環境にあったとも言えます。彼女とは異なる、名もなき女性たちも、誰もが中央政治の意向の中に収斂されていくだけの面しか持っていなかったのか、といえばおそらくそうではなく、ごく普通の現代女性と同じような反応を当時の生活の中で、露子と同様にしていたでしょう。たまたま名もなき家に育ち、その感じていたことが記録として残っていない、あるいはまだ発見されていないだけのこと、と言えそうです。近年、「エゴ・ヒストリー」などという用語で個人の日記などから見える歴史、という観点での分析がなされています。しかし、どうしても人は派手な内容、事件に惹かれて、細やかな日常の事象などを見落としがちなように思いますし、まだまだ多くの史料的蓄積もなされていないと言えるでしょう。石上露子が例外的であったのか、それとも一般的な例であったのか。そのあたりは今後もさまざまな角度で多種多様な事例を検討することで、その時代の女性の実像というのを明らかになっていくことでしょう。著者も自戒の念を込めて、、今まで見落としがちだった点に留意しながら、史料を見ていきたいと改めて思いました。

 


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