#132明治初年の徴兵検査と地域(二)徴兵検査と村役場
前回は徴兵検査での身体測定、健康診断と学力検査について述べました。今回は、滋賀県下を事例として、徴兵検査と村役場、吏員とのかかわりについて紹介したいと思います。
滋賀県の東側、琵琶湖の東岸に位置する神崎郡での徴兵検査は、近郊の都市である八幡村(現在の近江八幡市)において行われていました。具体的に明治七年(一八七四)年の徴兵について見てみると、神崎郡神郷村(現在の東近江市神郷町)では、三月一七日に八幡村で午前九時に実施されています。検査を受ける者は、村を午前六時に出立して、三時間かけて八幡村の徴兵検査場に行っています。神郷村から八幡村までは、史料には三里余り(約一〇キロメートルほど)との記載があります。ここでは身体測定と健康診断が行われていました。この八幡村での検査で合格した者は、次の段階である抽選に進みます。徴兵検査を甲種で合格したとしても、合格者すべてが徴兵に取られるわけではありません。その時々の必要とされる人数を各鎮台や営所(駐屯地)に配備することになるので、合格者のうちから抽選で実際に入営する人々を抽選で選びます。神崎郡の場合は、抽選の場所が大津に設定されていました。八幡村で甲種合格となった者は、三月三〇日午前六時に村を出立し、到着は同日午後六時となっており、半日掛かりで移動しています。神郷村から大津までは、史料によると一〇里余り(約三三キロメートルほど)と記載があります。到着した日は宿泊して、翌三月三一日に抽選を行う予定になっていましたが、何らかの理由で抽籤の実施が日延べとなり、四月二日に大津の徴兵署において抽選が実施されました。
この徴兵検査に関する移動については、当時の村の代表である戸長が同伴で検査に行っています。そのため旅費や宿泊費を村が負担するため、距離や費用についての史料が地域に残りやすかったと言えるでしょう。
前回記載したように、甲種合格となった者の中から、大津においての抽籤を経て、当選した者が初めて入営することになります。このころの入営場所は、大阪鎮台の所属の徴兵となるため、滋賀県から徴兵された人々は、大津か伏見に配属されたことでしょう。
このころに徴兵された兵士たちは、明治一〇年(一八七七)の西南戦争に出征して、実際の戦闘に参加していたことでしょう。
今回例として引いた神崎郡については、大橋金造編『近江神崎郡志稿』上・下(神崎郡教育会、一九二八年)という一五年がかりで編纂した郷土史の書籍があるため、さまざまな資料が参考として見ることが出来ます。次に挙げる史料からも西南戦争に参加していたことが確認出来ます。
戸第一〇四〇号
神崎郡第五区木流村 上田已之助二男 上田喜助
一、金八円五拾六銭六厘
右之者客年出征中、日給余金、前顕頭書之通其筋ヨリ廻越候ニ付下渡候、受領書至急可差出旨被達候也
但免役之節、於鎮台下付相成候証書、此受領書ト共ニ可差出候事
明治十一年八月五日 滋賀県第一課
戸長宛
神崎郡第五区木流村 三輪幸助
一金五拾八銭五厘右同文
(『近江神崎郡志稿』)
実際に徴兵に行った兵士には、国の使役とはいえ、給料が出ていました。とはいえ、戦地で直接給料を受け取ることもなかなか出来ないでしょうし、また、受け取ったとしてもそれを使うこともままならなかったでしょう。そのため、ここに挙げた史料では、戦地から帰還した後の明治一一年に受け取っていますが、その払い込みの伝達についても直接個人へ連絡があるのではなく、村役場の戸長へ連絡されていたことが読み取れます。
このように、明治初年の徴兵は健康診断、身体測定を経て抽籤で選ばれ、村役場の吏員に同伴してもらって入営していました。
徴兵制は、村から若者が徴兵に取られて一定期間入営するため、村の貴重な労働力が減少するという不利益が生じるとも言えます。そのため、明治初年では、他の地域で職にあぶれている人などを村に居住させて、その村の住民として村出身の若者の代わりに徴兵検査を検査を受けさせるなどの徴兵忌避の行動を行っていた地域などもありました。しかし、肩代わりして徴兵された人のうちから、思ったより訓練などが厳しかったのか、営所から脱走する者などが出たという史料も見受けられます。
以上のように、制度として意外ときちんとしている面と抜け道がある面などもあり、逐次制度を改正しながら運用されていきました。
そのため、前回冒頭で紹介した、ドラマで描かれるような出来事はまず起こりえないことといえます。
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