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#142高知の墓巡り-身近な身近な史跡、文化財の楽しみ方(20)

 二〇二三年一二月に公務で高知へ出張して講演するということがあり、折角の遠出なので、時間の許す範囲で史跡見学をしてきました。今回のその際のお話です。
 今回の出張で安芸郡北川村では中岡慎太郎館および推定復元の生家や墓所を、高知市内では坂本龍馬の家の墓を見てきました。

 まず訪ねたのが、安芸郡北川村の中岡慎太郎館です。出張の目的の一つに中岡慎太郎館を訪ねることが含まれていました。高校の同級生が学芸員をしているのですが、今まで一度も訪ねたことが無く、今回初訪問となります。
 施設としては、展示施設の中岡慎太郎館、推定復元の中岡慎太郎生家、飲食店の「慎太郎食堂」、よって構成されており、すぐ近くに中岡家の墓地があります。

中岡慎太郎館の外観

 中岡慎太郎館は一九九三年に開館した施設で、推定復元の生家と共にもともと中岡慎太郎の生家があった場所に建設されています。施設としては特にコレクションを中心に作られた施設ではないので、複製品とモニターによる展示を中心としており、開館以降にこつこつと史料を収集した施設です。

推定復元の中岡慎太郎生家

 館の東に歩いてすぐの場所に、中岡慎太郎の家の墓があります。こちらは、中岡慎太郎の遺髪を埋葬した墓地と共に、妻や義兄、両親を含めた墓もあります。配置の解説板もありました。

中岡家の墓(一)
中岡家の墓(二) 写真右から二つ目が中岡慎太郎遺髪墓
敷地内にある解説板

 中岡慎太郎は京都で暗殺されていますので、遺体の埋葬された墓は京都市東山区の霊山墓地にありますが、出身地には遺髪墓のあることを知りませんでした。

 次に訪ねたのが坂本家墓所です。こちらは高知城の西側、高知市山手町にあります。今回の目的の一つに、著者の研究対象である高知県出身の大阪府の地方官僚・深瀬和直の一族の墓を探すという目的があり、出身地が小高坂村となっていたので、旧小高坂村の範囲で墓地を探していると小高坂地域の墓地に坂本家墓所があるというのを見つけ、きっと一緒に深瀬家の墓もあるに違いないと思い、ここを訪ねました。
 坂本家墓所のある場所は小高い丘の上で、きれいに整備されていました。坂本家墓所以外にも、同時代の志士の墓や戊辰戦争に従軍して戦死した人物の墓、土佐の文人、学者の墓なども同じ丘の上に一緒にありました。

坂本家墓所の入り口にある案内

 坂本家墓所は、坂本龍馬の父・八平、母・幸、兄・権平、姉の栄、乙女などの親族の墓が勢ぞろいしていました。姉の乙女の墓は、墓石に刻まれている文字は「乙女」という表記になっています。案内板には「乙女(とめ)」となっており、名前としては「とめ」だったことをここでも確認出来ます。これについては#034「女性の名前に「お」は付くのか?」をご参照いただければと思います。

坂本家墓所の配置が書かれた案内板

 乙女については、没年が明治一二年(一八七九)となっていましたが、坂崎紫瀾『汗血千里駒』(明治一六年(一八八三)発刊)以降に「とめ」が「乙女」と表記されるようになったとも言われているようですが、この墓石の設置が没後すぐなのであれば「汗血千里駒」よりも前から「乙女」という表記が使われていたことになります。

坂本乙女の墓

 また、坂本龍馬の跡を継いだ坂本直(高松太郎)の墓もありましたが、坂本直は明治以降にキリスト教に入信していますが、他の親族と同様の仏教の形式での墓石になっていました。

 この墓所からさらに南の方へも墓所が続いていたので、そのまま目的の墓を探してさまよい、気が付けば永福寺という寺の裏に出てしまい、都合二時間、丘を二つ踏破してしまっていました。散々時間を使いましたが、結局、ここでは目的の墓は見つかりませんでした。
 また、このさまよっている間に建物のような形の墓をいくつも見ました。大阪や京都にはない形式だなと思いながら見ていましたが、後日友人の伴侶が地元の人だったので、教えてもらったところ、納骨堂形式の墓(正式名称不明)で、一九七〇年ごろから増えてきたように記憶しているとのことで割合新しい形式のものであるとのことでした。

 後で聞いたところによると、『土佐の墓』という郷土史の本があり、深瀬家の墓については、高知市春野町の方にあるとの情報が掲載されていたようで、今回はまるで見当違いの場所を探していたようです。
 郷土史の本は、他所にいるとなかなか図書館などでもお目にかかることがないため、やはり餅は餅屋、その地域の情報はその地域で探すのが一番なんだということを実感しました。
 またいつか再挑戦を期したいと思います。


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