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#087古文書講座での学び―研究者の常識、一般の常識(六)

 時代劇で織田信長が幸若舞の「敦盛」の一節「人間五十年」と歌っているシーンを目にすることがあります。何となく現代に生きる我々は、昔の人は寿命が短かったと思っています。江戸時代など、医療技術や薬剤も現代と比較して、もちろん劣っていたので、現代よりも病などでなくなる確率はとても高かったでしょう。とはいえ、徳川家康は70代まで生きているので、あながち誰もが短命ではなかったと言えるでしょう。よく、昔の平均寿命は50歳くらいだった、というような表現を耳にするのではないでしょうか。今回は江戸時代の人々の年齢について考えてみたいと思います。

 江戸時代の人々の年齢について、何となく短命であったという印象をお持ちの方が多いように思います。史料調査をしていると、地域住民の年齢を記載している「宗門改帳」を目にする機会が多いですが、意外と高齢の地域住民が記載されています。昔の方が人の人生は短命であったはずなのに、なぜ、高齢の地域住民を目にする機会が多いのか?これにはいわゆるトリックにあたるものがあります。平均年齢、平均寿命という言葉を耳にしますが、実はこれに関係してきます。江戸時代でも高齢の地域住民はどこにでも多くいました。しかし、幼児死亡率が高かったためにおしなべて平均寿命が下がってしまう傾向になってしまいます。例えば、80歳の人と3歳の人が住んでいる家庭があったとします。この二人が同時に亡くなった場合、この家の平均寿命は(80+3)÷2=42.5になります。つまり幼児死亡率が高かったために、出産時に死亡する、幼少期に病によって死亡する乳幼児が多かったため、高齢の地域住民が居ても平均値として年齢が下がってしまう、というからくりがあるのです。医療技術や薬品などが発達していないために、乳幼児の死亡率が高く、全体の平均が下方修正されてしまう傾向があるために、昔は寿命が短かった、という捉えられ方をされてしまいます。

 筆者がいくつかの村でどのくらいの年齢で死亡するかを、「宗門改帳」で見てみたところ、3歳から5歳あたりの年齢を超えると死亡率が格段に下がる傾向にありました。現在ではそれほど重要視されないかもしれませんが、江戸時代より広く行われるようになった「七五三」という年齢による通過儀礼があります。この「七五三」における、3歳、5歳、7歳という年齢には意味があり、3歳では主に女児の「髪置き」という、3歳までは髪をそっていたものを終了して髪を伸ばし始める行事の名残であり、5歳では主に男児の行う「袴着」という子供時代が終わって袴を着用する年齢になったことを意味する行事の名残であり、7歳では主に女児の「帯解き」という、子ども時代の付け紐の着物の着用から大人同様の帯を結び始める行事の名残であるという、それぞれの性別、年齢に関係する行事として、一歩一歩大人になっていっていることを祝う行事として捉えられていました。現在では3歳、5歳、7歳の全ての年齢で男女ともに七五三に神社にお参りに行く傾向にあるようですが、それぞれの年齢、性別の意味が失われつつあると言えます。これらの年齢を祝うことについては、江戸時代などの前近代での乳幼児の死亡率の高さから、やっとこの年齢まで成長した、という祈りとも取れる親の思いが含まれていたと言えるでしょう。そのくらいに乳幼児の死亡率が高かったと言え、また、そのために当時は多産多死の時代であったと言えます。

 このように多産多死であったために、地域住民に高齢者が含まれていても、おしなべて平均的に寿命が短かった、と捉えられるような平均値になってしまっていたのです。
 このあたりについては、歴史人口学の速水融の研究成果が参考になると思いますので、ご興味がある方は下記リンクをご参照ください。




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