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#052明治時代の地域における宗教施設にかかわる法令について

 前回は「江戸時代から明治時代にかけての宗教施設のイメージとは?」ということで、時代劇などに描かれている中からそのイメージを求めましたが、今回は実際に施行された法令から実際の状況を見ていきましょう。今回参考にするのは明治一四年(一八八一)まで現在の大阪府のうち河内国、和泉国と現在の奈良県に当たる大和国の三つを一つの県としてた堺県から出された法令で、『堺県法令集』(羽曳野市)を手掛かりに見ていきましょう。

 明治時代に入って、寺院や神社は江戸時代に保有していた領地を上知令により国有地などとして没収されます。これにより寺院や神社が経済的にひっ迫することになります。次に挙げる史料は上知に関連する史料です。

今般社寺領現在境内ヲ除クノ外、一般上知被仰付、追テ相当禄制被相定候ニ付テハ、過日及布告候通ニ付、除地山林ノ内伐木致候義不相成候、若シ心得違ノ者有之ハ、急度咎可申付事
右之趣社寺ノ向へ、早々可致通達もの也
 未二月三日      堺県庁御印
               惣年寄
右之通被仰出候間、社寺有之町々ハ別テ入念相可被申候事
 未二月三日         惣年寄
               (『堺県法令集』第一巻、二〇五頁)

 寺社の領地のうち、境内地を除いて上知、つまり領地の召し上げの通達が明治四年(一八七一)二月に出ていることが判ります。この際、単に領地を召し上げるのではなく、追って新たな「禄制」、つまり給与等の支給制度を定めるので、領地は返納せよ、という文脈になっています。また「除地」、つまり無税地の山林から木の伐採は行ってはならない、とも付け加えられており、上知される前に山林から伐採して材木として販売してしまう行為を禁止しています。このように大きな寺社であればあるほど、経済的影響が大きい上知令が実施され、今後の経済的負担が見込まれるようになります。

 少しのちの史料になりますが、浄土真宗が小教校の維持のために積立金と称して、全国各地の門徒に負担を願い出ていたということが判る史料が次の史料です。小教校とは、現在の大谷中高等学校の前身にあたる施設で、浄土真宗の思想に基づく仏教系の学校施設です。

県甲第七十一号
真宗本願寺東派ヨリ小教校永続元積立ト唱ヘ、末寺檀家之戸数ニ賦課之義、頃日該派末寺ヨリ檀家総代ヘ申出、既ニ請書為差出候向モ有之旨、右事由即今該派管長ヘ掛合之次第モ有之候条、右課出之義ハ先見合置キ候様可致、此旨相達候事
 明治十年九月一日           堺県
                   (『堺県法令集』三、一一一頁)

 東本願寺(真宗大谷派)が、教育施設の永続のために基金の拠出を全国の門徒に求め、末寺や檀家に対して賦課していたことが判ります。これは明治新政府や府県にとっては、由々しき事態で、税金の拠出よりも宗教に対する寄付金を優先され兼ねない、しかも全国をまたにかける規模でそれが行われる、というのは、さながら戦国時代の一向宗が全国で一斉蜂起するような、動員力のある組織がまだ残っていた、というようなイメージを抱いたのでないでしょうか。府県(ここでは堺県)からは、末寺檀家からの拠出については、既に請書などを出して約束をしてしまっているかもしれないけれども、管長に確認をするので、一旦見合わせて欲しいという通達が出ています。
 このように、大きな宗派で大規模な全国にわたるこれほどの動員力ある団体が大名以外に残っていたというのは、明治新政府にとっては大きな不安材料の一つになったことでしょう。こういう点からも寺院や神社から領地を召し上げる上知令というのが出された背景が見いだされます。
 ここまで見てきたものは、大きな領地をもった寺社の例に当たりますが、では各村々に所在していた寺社はどういった状況にあったでしょうか。

今般、無禄無檀那等ニ而、追々及荒廃並壊廃出来候分等、至急取調可申旨、御沙汰ニ候間、南北惣寺院不残、別紙雛形之通認、今十二日より十四日迄ニ無相違書付可被差出候事
 未六月十日         惣年寄
(後略)
               (『堺県法令集』一、二三七頁)

 こちらの史料は明治四年(一八七一)六月のもので、現在の大阪府堺市に出された通達ですが、この史料によると、領地がない、あるいは檀家がないために荒廃に及んでいるあるいは壊れて廃止されそうな寺院など、堺の町の南北の町組全てにある寺院について残らず至急取調べを行い、報告を出す旨の通達が出されています。幕末から明治にかけて、それだけ経済的に困窮して荒廃、あるいは廃寺の憂き目にあっていた寺院が多かったということでしょう。

管下寺院之内、無住無檀家或ハ少檀家、又は寺号而巳ニて永続致し兼、町村ニ於ても再興永続之目論見無之、廃寺願度寺院ハ、本寺本山へ引合、故障無之向ハ、証書相添早々可願出候事
 但、少檀家ニ而寺致し度向ハ前同断
右之趣区内無洩落布令するもの也
 壬申十月晦日     堺県庁
右之通被仰出候間、於町々其筋之者へ篤と入念7来ル十一月十日限り取調、有無共可被申出事
 壬申十月晦日     区長
            (『堺県法令集』一、四〇四頁)

 また、明治五年(一八七二)一〇月の上記の史料のように、無住、無檀家あるいは少檀家のために運営出来ない、あるいはもう既に寺の名前のみで恒常的な運営出来ていない時は、地域での再興、永続が叶わないと判断された場合には、本山に確認して、問題がなければ廃止願を出すようにとの通達が出ています。

今般廃寺申達候寺院坊堂庵之内へ、当今郷学校並ニ出張所相設有之分、此儘学校永続見込之向ハ入札ニ不及、村中之預ト可相心得候、然ト雖モ仏体仏具ハ同法類最寄近寺ヘ相納、什物之儀ハ布令之通リ入札高直ニテ売払可取計候、永続難致破損等之向ハ何レニテモ引直シ、夫々達ニ基キ処分可致候事
 但、建家寄附人判然之向ハ、当人え示談、相当之価ヲ以買入候トモ、当人ヨリ学校用寄附候トモ、聞届候事
右之趣区々村々え触知スモノ也
 明治六年二月廿二日     堺県庁
               (『堺県法令集』二、一二頁)

 あるいは、寺院として機能していない場合でも、建物として学校に活用する場合には、永続的に維持管理ができるようなら入札などは行わずに、そのまま活用してもよい、という通達が明治六年(一八七三)二月に出されています。この場合には但し書きがついており、仏像や什物などについては最寄りの寺院へ納めるか、あるいは売却しても構わない、という但し書きがついています。またもともと寺院建築を寄付した人が明確に判っている場合には、一旦元の寄附人へ相談して、相当額で買い上げてもらうか、寄附人から改めて学校として寄付してもらうかの選択をしてもらうのも問題ない、ともされています。

泉河両国村社許多ニシテ、一村ニ二社或ハ三社有之、村地境界自ラ不取締ヨリ、児童ノ遊技場ノ如ク相成、年々祭典等等閑、社頭ノ営繕等モ不行届、尊崇スルモ名ノミニシテ、其実敬神之道ニ悖リ不相済事ニ候条、氏子無之神社ハ、勿論、一村ニ数社有之向ハ、最寄神社ヘ合併又ハ村内ニ於合祀候歟、適宜人民之望ニ任セ見込相立、来ル十二月十日限可申出候事
 但、壱小区毎ニ取纏メ可差出候事
 明治八年十一月十五日     堺県庁
                (『堺県法令集』二、二七五頁)

 こちらは明治八年(一八七五)一一月の法令ですが、河内国、和泉国の各村には一村に二、三社は神社があるけれども、境内地の境界をきちんとしていなかったりして子供の遊び場同然になっており、祭礼もなおざりにされ、施設の営繕も行き届いていない例が多く、尊崇しているというのは名ばかりで、信心の道にもとるので、複数ある神社は最寄りの神社に合併、合祀して数を減らしてはどうか、という通達が出されています。これはこのころの地域の経済状況も現れていると考えられ、複数の神社を村で抱える場合には、修復費などが行き届いていなかった、という状況をあらわしているでしょう。そのため、県としては合併、合祀することで村の負担を軽減するということを方策として考え出した、といえます。

 明治前期の堺県における宗教施設関連の法令を六つ例として挙げましたが、各地の村には寺院、神社が規模の大小にかかわらずいくつもあり、以前にも触れましたが、寺院、神社は無住のところが割合多かったため、放りっぱなしの所が意外と多く、幕末から明治前期にかけての不景気な時期には荒れるに任せていたという状況が見えてきたのではないでしょうか。そのような状況下で、国や府県などの行政は税金を確保したいため、村の負担軽減策として寺社の合併や廃止を検討していました。しかし、浄土真宗のように全国規模で寄付金を募れるような大規模な動員力を持つことができる団体の存在を確認することで、大きな寺社に対しては上知令などによる経済的に圧迫することで力を削ぐことを実施し、行政に対する税金の納付より信心による寄付金となることを防ごうとします。
 また、地域においては経済的な理由で寺社の廃止、合併が行政主導で検討されます。その際には、ただ無くして潰してしまうのではなく、必要に応じて学校などの施設への転用も視野に入れた方法が採られました。また、やみくもに合併させたりするのではなく、行政側も経済的状況以外に、寺社の由緒を調べさせ、どのような由緒の寺社なのか、皇室との関連はあるのか、どのような宝物を収蔵しているところなのか、などを一方で調査させ、由緒が古いことや皇室とのゆかりが深いところについては出来るかぎり維持できる方向で検討させたりしています。これらの法令は、何度も通達として出されており、当時の一般的な状況として無住、無檀家の寺院などが各地に多く、維持、修繕などの地域の経済的負担が大きかったことの表れといえるでしょう。これらを踏まえて明治時代の宗教施設をめぐる当時の状況を見ていくと、経済的負担と信心の間で揺れ動く地域住民の様子がうかがい知ることが出来るといえるでしょう。


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