見出し画像

#145信仰とツアーリズム(三)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(23)

 前回は石切釼箭神社までの道のりを紹介しましたが、今回は石切釼箭神社から枚岡神社までの道のりを紹介したいと思います。

 石切釼箭神社は延喜式神名帳に名前が記載されている由緒のある神社で、神武東征に関連する史跡になります。神武天皇が長髄彦の軍勢と戦った際に苦戦するのですが、武運を占うのにこの地にあった大きな岩を蹴り上げたという逸話が残る場所が石切釼箭神社です。

 現地には解説用のアプリがダウンロードできるようになっており、音声で境内についての解説を聞くことが出来ます。現地でしか聞けないものではなく、どこででも聞くことが出来るアプリでしたので、家に帰宅してから復習にも使える便利なものでした。GooglePlayでダウンロードできますので、気になる方は試していただければと思います。

 『河内名所図会』には、周囲が田畑になっており、鳥居の前に東西の参道が見えます。右頁の方向が東側になり、正興寺の屋根が見受けられます。近世ではこのように広々とした場所にポツンと建てられた神社であったことが見て取れます。このような様子は、明治二〇年代に作成された陸軍陸地測量部の仮製地形図でも田畑の地図記号の広がる中に神社がある様子が見受けられるため、恐らく大正期以降に現在のような様子に変化したのだろうと考えられます。

石切剣箭神社(『河内名所図会』巻五)

 参道の北側が『河内名所図会』に描かれている境内で、南側が新たに拡幅された部分になります。参道の際にある鳥居の東側には、「石切釼箭神社」と神社の名前が書かれた標柱があります。標柱裏面には、この文字が「田口理郎」という人物が書いたものであることが記されています。田口理郎は、河内郡植附村の庄屋を務める家柄の人物で、幕末のころには理兵衛と名乗り、明治になって理郎と改名しています。明治以降は戸長などをつとめて地域のために尽力し、独学で医学についても学んでいたころもあり、明治一二(一八七九)年のコレラが流行した際にはその防止に努めていました。書が堪能な人物でもあり、そのためこの標柱の字を書く依頼も受けたのでしょう。

 鳥居をくぐると、西側に水神社、東側に五社明神社、神武社と摂社が並び、正面に本殿が見えます。周囲に玉垣が見えますが、大阪市内や兵庫県、徳島県などの住所が見られ、遠方からのものが多く見受けられます。

 当日には案内しませんでしたが、本殿東側に公園があり、現在工事中ですが、その公園に行く途中には、どこかの学校から移設したのか、二宮金次郎像があり、公園内には「二タ瀬川」と記された灯篭が立っています。こちらは名前から相撲の力士の灯篭だと考えられます。裏面には、近隣の地方名望家層の名前が記されており、八戸ノ里の肌勢氏の名前も見受けられます。

「献灯 ニタ瀬川」と彫られた

 南側に新たに拡幅した境内地に進むと、こちらにも左右に玉垣が並びますが、玉垣の中には「近畿日本鉄道」のものも見受けられ、遠方からのものが多く見受けられます。ほとんどの玉垣が大正3年以降のものになるので、駅が出来て以降に、遠方からも参拝客が多く訪れることとなり、信仰の範囲が広範囲になった神社であったと言えるでしょう。
 絵馬殿を過ぎると、近鉄けいはんな線が地下を通る大通り(府道一六八号線)に出ます。この通りを南に横断して東側に進み、山伝いに枚岡神社へと向かいます。
 今回はここまでにし、次回は最終地点の枚岡神社までの道のりを紹介したいと思います。

いただいたサポートは、史料調査、資料の収集に充てて、論文執筆などの形で出来るだけ皆さんへ還元していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。