見出し画像

#059その石碑を探せ!(下)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(10)

 さて、前回は調査に出る前の事前調査の様子について記しました。このように、事前の準備をすることで現地で無駄足や無駄な時間を使わないように、効率的に調査出来るようにある程度準備をしてから出かけます。
 今回は実際に現地の調査の様子などを記したいと思います。

 まず調査に訪ねたのは、八尾市泉町にある西郡天神社。こちらには大正八年(一九一九)五月建立の「忠魂碑」があります。神社境内の南東部に設置されており、東向きに立っています。写真では見たことがありましたが、現地へ行って気付いたのは、碑に向うまでのアプローチが北から入り、西に向くことでした。また、アプローチの入口左右に石柱がありますが、片方が表裏逆に設置されています。そのため、もしかするとこの碑は設置場所を戦後に変更したのかもしれません。この忠魂碑は碑の表面の揮毫が陸軍大将福島安正で、建設主体が在郷軍人会西郡村分会となっています。碑面裏面の文章は「久保田美英」となっています。

西郡天神社の忠魂碑

 この久保田美英は中河内郡中高安村大字万願寺の出身の人物で、父は大阪府で初めて貴族院議員多額納税者議員に当選した久保田真吾。真吾は著者がこれまで何度か論文で扱った人物です。その息子の美英は、後に大審院判事になる人物です。父親の真吾に関連した石碑はいくつか見たことがありますが、判事になって転勤で他の地方を転々としている美英が地域に関わることをしているのは初めて知ったので驚きました。
 また、石柱の片側が先程表裏逆に設置されていると書きましたが、こちらの記載されている文字もなかなか興味深いです。柱の片側づつに「滅私」「奉公」と書くところを「滅死」「奉公」と書かれています。「滅死」という言葉は無いようですが、これは単なる誤植という訳ではなく、あえてこのような表記を使っているのでしょう。

西郡天神社の石柱(西側設置分)
西郡天神社の石柱(東側設置分)

 次に訪ねたのは、久宝寺小学校の敷地内に建てられている「忠魂碑」。こちらは以前に久宝寺寺内町の調査に訪れた時に見たことがあったので、簡単に場所を探すことが出来ました。こちらの碑の建立は昭和三年(一九二八)四月で、石碑表面の記号は、陸軍中将権藤伝次。裏面には建設主体として、久宝寺村軍人会と彫られています。この忠魂碑は西向きに建設されており、碑の表面の下部に「霊標」と呼ばれるこの碑で慰霊される戦没者の氏名が記載されています。

久宝寺小学校北側の忠魂碑

 三番目に訪ねたのが、『大阪府忠魂碑等調査集』に佐堂町、善勝寺境内に設置されている「英霊碑」。こちらはまだ見たことがありませんでしたが、寺の住所もわかっているので楽勝、と思いきや、普段は無住なのか、門に鍵がかかっており、境内に入れませんでした。そのため、碑の確認が出来ず、後日電話などで問い合わせを行う必要があります。今回は残念ですが、未確認です。アポイントメントを取らずに調査が出来ると考えていたのが甘かったです。

 四番目に訪ねたのは、前回詳しく触れたうちの一つ、「本町三丁目、市有地」の「忠魂碑」です。こちらの碑は、先にGoogleMapで事前調査していたので、郡役所跡の向かい側の土地を目指して行きました。そこには南向きに三角形の頂点を向けた形の公園があり、その北側、三角形の底辺あたりに設置されていました。紛うことなき『大阪府忠魂碑等調査集』に掲載されている「殉難碑」とある石碑ですが、『中河内郡誌』に記載されている「忠魂碑」とも似ています。先に『中河内郡誌』から引用した部分の後に石碑の法量などを記した箇所があるので、詳細が確認出来そうです。

一、総高 三丈一尺四寸
一、礎 混凝土六綾形
   厚栗石三尺共六尺 径一丈八尺
一、台 花崗石 同上
   高一丈一尺四寸 径一丈三尺
一、碑 銅鉄円柱形
   高二丈 径三尺五寸
一、篆額 忠魂碑
   第四師団長陸軍中将 仁田原重行氏
一、撰文 大阪 西村天囚
一、書 京都 畠山運成
一、鋳造 大阪 高尾定七氏
                         (『中河内郡誌』)

 これを見ると碑の全高は約9m、基礎は「混凝土六綾形」つまりコンクリート製の基礎で、六綾形、六つの花びらを配置したような形とあります。また、台座部分は花崗岩で出来ており、高さは約3m。碑の本体は銅製の円柱で、高さは約6m。碑の表面には「忠魂碑」の文字が刻まれており、その揮毫者は仁田原重行、文章は西村天囚、書は畠山運成、とあります。

本町のくらし学習館南側にある石碑

 現在の碑の状態を見ると、全高約3mで台座部分の高さと符合します。碑には「忠魂碑」の文字はありませんが、現在の碑の上部に何かあったような形跡が残ってあります。この碑は、もともとは約9mの高さがある碑で、上段は銅製の円柱で出来ており、仁田原重行の「忠魂碑」の3文字が刻まれていた、しかし戦時中の金属徴収か、あるいは戦後になって銅部分が失われ、台座のみが現代に伝わっている、と考えられそうです。台座部分は花びら形とは思えませんが六角形ではあります。また台座表面の文字は「畠山運成」の書いた文字ですし、台座裏面に建立年月が「大正四年三月」とも記載されています。『中河内郡誌』の記載にある通り、西南戦争以降のこの地域の戦没者氏名も台座部分に埋め込まれている霊標として存在しています。どうやらこの目の前の碑は、『大阪府忠魂碑等調査集』に掲載されている「殉難碑」であり、『中河内郡誌』掲載の忠魂碑と同一物と考えて間違いなさそうです。

 続いて五番目に訪ねたのが、太子堂にある大聖勝軍寺境内の「平和塔」。こちらは大きな寺で、訪ねた際には参拝客もあり、境内地には入ることが出来ました。 こちらは石碑、忠魂碑というより、慰霊塔というか仏式のお堂といった面持ちの建物です。建物の前にある灯篭などから、昭和四七(一九七二)年に八尾市遺族会の建立だということが判ります。こちらは碑ではないので、揮毫などはありませんでした。

大聖勝軍寺境内の平和塔

 さらに訪ねたのが、南太子堂にある「忠魂碑」です。現在の龍華中学校の北側にあり、専用の敷地に建立されていました。今は失われている門扉も現存しているころには恐らく立派だったであろうことを想像させる、門を支えていた柱が残っており、そこから先に進むと約9mほどの大きな石で出来た忠魂碑が設置されています。これは柱型の忠魂碑で、柱の先端に鳥を模した石の彫刻が乗せられています。こちらの忠魂碑は、碑面の揮毫は陸軍大将一戸兵衛、設置主体は在郷軍人会龍華分会、龍華町軍人後援会となっており、建立時期は昭和三年(一九二八)一一月となっています。おそらく昭和天皇の即位に併せて、御大典紀念として設置されたのでしょう。そう考えると、鳥の彫刻は八咫烏かもしれませんが、高い位置に設置されているので、足が三本あるかなどは確認できませんでした。碑面「忠魂碑」の上部には桜の模様が彫られており、よく見ると鳥の彫刻は砲弾に止まっています。

龍華中学校の北側の忠魂碑

 七番目に訪ねたのが、八尾木にある曙川出張所敷地内の「忠魂碑」。こちらは役場の出張所の玄関口にあることを以前に見知っていたので、直ぐに発見できました。この忠魂碑は、大正八年(一九一九)に六月に建立されており、石碑表面の記号は陸軍少将仁田原重行、設置主体は在郷軍人会曙川村分会です。こちらは忠魂碑の前や横に追加で置かれた霊標が三つ置かれています。各戦役の有勲者ということで昭和一〇年(一九三五)四月に曙川分会により設置されたものです。

曙川出張所敷地内の忠魂碑

 ここまで訪ねてきて、『大阪府忠魂碑等調査集』に掲載されているものについてはタイムアップで後日廻しになることになりました。あと、以前に見たことがあり、所在を知っているもので現在地の近隣にあるものの確認を行っておきたいと思います。場所は、近鉄八尾駅近くの常光寺境内。常光寺は臨済宗南禅寺派の寺院で、河内音頭発祥の地として有名です。その境内に戦争記念碑が一基、確かあったはずなんです。それをこの機会に確認しておきたい。常光寺境内に入ると、本堂北隣に、ありました。明治二九年(一八九六)一月建立の日清戦争の記念碑です。記念碑の文字としては「忠芬義芳」とあり、石碑の表題は「大勲位晃親王」とあるので、山階宮晃親王。建立主体は中河内郡役所管内の各宗派の僧侶であることが文面から読み取れます。

常光寺境内の「忠芬義芳」の碑

 ここまで調査してきて、今回調査してみてふと気になったことがあります。西郡天神社、本町市有地、南太子堂、常光寺と今回調査した四つの忠魂碑、慰霊碑、戦争記念碑の傍らにはクスノキが植えられていました。

南太子堂の忠魂碑脇にあるクスノキ

 これらの場所にあったクスノキは、戦前に植えた、樹齢が七〇年を下らないものと思われます。個人的な記憶では、恩智神社付近の西南戦争の墓地にも側にクスノキが植えられてたと思います。どうやらこれは偶然ではないような気がします。常光寺は「太平記」(正確には「太平記評判秘伝理尽抄」)で活躍する、楠正成配下の「楠公八臣」の一人と言われる「八尾別当顕幸」の墓が、先の「忠芬義芳」の碑のちょうど南隣にあります。また恩智神社付近の西南戦争の墓地は北隣にこれまた「楠公八臣」の一人、「恩地左近」の墓があります。この二件については、楠公関連史跡ということで楠が植えられているとも言えますが、その他の戦争記念碑、慰霊碑、忠魂碑については太平記に関連する場所に設置されている訳ではありません。だとしたら、どういう意味合いになるのか。想像するに、武勇の誉れ高く、後醍醐天皇に対する忠義絶大な楠正成にあやかり、戦没者を楠正成のように誇りに思っているというような意味合いで石碑附近にクスノキを植樹したのではないかと推察されます。これはあくまで現段階での推察ですので、誤りがあるかもしれませんが、逆算的に考えると、楠公史跡の側に戦争記念碑、慰霊碑を建立するという例は、現在の四条畷市にある「四条畷の合戦」の古戦場比定地に北河内郡の西南戦争の記念碑が建立されているという例もあります。こちらは楠正成ではなく、息子の楠正行の関連の史跡にはなりますが、とはいえ、父同様に南朝に忠義を尽くした武将であることには変わりなく、こちらも楠公史跡と言えます。このように戦争で亡くなった人に対して楠公関連史跡で慰霊することで、忠勇絶大な楠公と同じように評価しているという意味合いを与えているのではないか、と。そのため、戦争記念碑などの側にクスノキを植えることは、転じて楠公のように評価しているよ、という意味合いが付されたのではないかと考えるわけです。あながち穿ち過ぎの推論でもないのではないかと思いますが、如何でしょうか?こちらについては、石碑と植樹といったテーマで今後調べを進めていってみたいと思います。何らかの成果が出た時に、こちらで今回の続としてご紹介出来ればと思います。

 石碑探しが、結構壮大な大風呂敷の推論にまで広がっていきましたが、文献や地図を利用しつつ、現地を踏査することで、身近にありながら忘れられた史跡を再発見することで、これまで知られていなかった歴史的事実が明らかになっていくという、そんな過程を知っていただければ幸いです。




いただいたサポートは、史料調査、資料の収集に充てて、論文執筆などの形で出来るだけ皆さんへ還元していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。