慧空

慧空(すいくう)と申します。2012年12月に明け渡しを経験し、その後、自覚を通じて2…

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慧空(すいくう)と申します。2012年12月に明け渡しを経験し、その後、自覚を通じて2014年2月に決着に至りました。 現在は地方で農家をしています。

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自覚のヒント

【自覚のヒント】 【目次】 〇自覚について ・悟りと自覚 ・悟り階層と自覚 ・無我の誤解について 〇小悟に向けての自覚(最初の自覚) ・私に意識を向ける ・観る自覚 ・行為の自覚と自我の主体性 ・考えの自覚 ・小悟に向けた自覚のポイント 〇大悟に向けての自覚 ・私を捉え直す ・大悟に向けた自覚のポイント 〇解脱に向けての自覚 ・再度私を捉え直す ・解脱に向けた自覚のポイント 〇滅尽定について ・滅尽定と悟りに関する考察 ・滅尽定に至る方法 【自覚について】 ◇悟りと自覚

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    • 希望と苦

      ◇希望と苦◇ 私という意識は、どうして彷徨うのでしょう。 そこには、漠然とした希望があります。 何か素晴らしいことがあるのではないかという期待です。 ではどうして、私たちは希望や期待を持ってしまうのでしょう。 そこには、不足感や虚しさといった苦があります。 まず初めに苦があり、その苦をどうにかしようとする展開が起こります。 しかし、そうした展開もまた苦であり、止めどなく苦が連鎖し、拡大していきます。 ◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読み

      • 苦と反応

        ◇苦と反応◇ 今回は、苦と反応という切り口で書いてみたいと思います。 まずは、わかりやすいところから。 あなたが痒みを感じて、それを手で掻いたとしましょう。 このとき、あなたは痒みという苦を感じ、それを解消すべく手で掻いた訳です。 では、あなたが何気なく手を動かすときはどうでしょう。 あなたは、その手をどうして動かしたのでしょう。 あるいは、あなたの手はどうして動いたのでしょう。 手に限らず、何気に脚を組んだときや、脚を組み替えたときは、どうでしょう。 そこに、何らかの

        • 食べることと苦について

          ◇食べることと苦について◇ 暫く、苦について徹底的に書いていこうと思っています。 今回は食べるということを題材に、苦について書いてみようと思います。 空腹感に気づいたとき、空腹という苦が発生します。 この空腹という苦は、何かを食べることでそれが満たされるまで続きます。 その過程をさらに詳細に観察していきます。 空腹時に何かを食べているときは、素直に幸福感を感じやすいものです。 しかし、ことはそう単純なものではないのです。 食べている途中は、食べることによる味覚や満足感が

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          禅の悟りについて

          ◇禅の悟りについて◇ 今朝のブログツイート記事でも書いたのですが、悟りについて情報や意見の交換や、試し合い等も含めて、多くの方とやり取りが出来たらと考えています。 仏教系、非二元系、独覚の方など、系列にかかわらずオープンにやりとりができたらと考えています。 と言いながら、また禅の悟りを批判する記事を書くのはどうなんだろうと思うところもあるのですが、改めて禅の悟りについて批判してみようと思います。 つい最近、ある禅系の覚者の方のサイトを読む機会がありまして、そこには禅系の

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          たったひとりの主人公

          ◇たったひとりの主人公◇ みんな誰しも、たったひとりの主人公なのです。 あなたは、あなたが生きている世界の常に中心にあり、あなたの人生の主人公なのです。 あなたが、どんなに人と比べて自分を否定しようと、世界の片隅に追いやろうと、主人公という立ち位置からは逃れられないのです。 あなたという人生を生きている人は、あなたしかいないのです。 どんなに酷い状況になろうと、常に主人公であり、ヒーローなのです。 そうなのです。 あなたの人生において、あなたは常にヒーローなので

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          無難な人生なんて

          ◇無難な人生なんて◇ 多くの方は、無難に行くように道を選択します。 人付き合いもそうですし、進路や仕事を選ぶときもそうだし、恋人や結婚相手についてもそうです。 悟りを求めるときもそうです。 無難に行こうとする余り、自分を制限してしまい、萎縮してしまいます。 あたかも、無難に行くことが人生の第一の目的であるかのような有様です。 人生の終わりに、それで果たして納得できるのでしょうか。 私は、人は皆、やりたいことがあって生まれて来ているのだと考えています。 しかし、多くの方

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          無常の誤りについて

          ◇無常の誤りについて◇ 今朝のツイート記事(これは本体のgooブログに書いている記事のことです)に書いたものを単独の記事として書いてみようと思います。 無常、無我について(特に無常について)、これまで何となく違和感を感じたままほったらかしにしていたのですが、その違和感の内容がハッキリしたので記事にしておきます。 まず最初に、無常、無我の意味の確認から。 無常とは、一切のことがらは常に変化するものであるという意味です。 無我とは、一切のことがらに実体が無い、あるいは絶対が

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          命より大切なもの

          ◇命より大切なもの◇ よく、命より大切なものなど無いと言われます。 しかし、それは間違いです。 命より大切なものはあります。 それが本心です。 ◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。 ◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内は、こちらです。 ◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。 コメント大歓迎です。気軽にお書きください。 読んで頂いてありがとうございました。

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          問答の限界と悟り

          ◇問答の限界と悟り◇ 今回は、悟りと問答について書いてみます。 禅系の一部で、悟り修行に公案や問答が使われるようです。 悟りに問を使うことのメカニズムは、それはそれで非常にシンプルでハッキリしているのです。 結果はおそよ二種類あるようです。 どちらもポイントは問への集中です。 一つ目は、問への集中により、意識の囚われにより構成された外層部分が崩壊し、急激な自我感覚の希薄化が起こるのです。 このとき、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。 二つ目は、問へのさらなる集

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          なぜ自由意志を否定できないのか

          ◇なぜ自由意志を否定できないのか◇ 今回は、自由意志についてちょっと違った切り口で書いてみたいと思います。 自由意志が無いと仰る方は、本当にそれで納得できているのでしょうか。 納得できるはずはないのですが。 なぜなら、その考えは間違っているからです。 自我が無いというのも同じで、間違っています。 正しくは、自我も自由意志も実体が無いのであって、有る無しについてはどちらとも言えないのです。 これは私が繰り返し書いていることですが、今回の趣旨ではありません。 以下が本題です

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          正誤の追求の果て

          ◇正誤の追求の果て◇ 今回は、正誤、正しいことと間違ったことについて書いてみたいと思います。 正誤は、善悪等の二元の概念と混同されがちですが、それらのとは本質的に異なるものです。 善悪等の二元の概念は囚われであり、本来そのような区別はありません。 これに対し、正誤はそれなりにしっかりとあるのです。 「それなりにしっかりと」などという中途半端な言い方をするのは、本当は厳然としてあると言いたいところだけど、敢えて避けたというところです。 面倒なので、最初から結論を書くような

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          自我の手放しという誤り

          ◇自我の手放しという誤り◇ 今回は、自我の手放しについて書いてみます。 自我の手放しは悟り界隈でよく言わることですが、間違いです。 そもそも、自我を手放すことなんて不可能であり、あり得ないのです。 究極的には、この世界そのものがあなという自我なのですから。 自我、私、個の意識など、なんと言っても同じです。 すべて私であり、手放す対象となり得るものではありません。 自分は自我を手放したと言っている人が時々おられますが、それは本人の誤解であり、認識不足です。 世界があり、

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          虚無を超えて生きる

          ◇虚無を超えて生きる◇  今日は、久しぶりに虚無について、思うことを書いてみたいと思います。  まずは私自身のことから。  私は小学校に入る頃には、社会常識や道徳等も人が決めたことであり、本来はどうでもいいことだということがそれなりにわかっていて、すべてに意味が無いこともなんとなくわかっていました。  そして、生きることの面倒くささ、特に社会と関わっていくことの煩わしさを強く感じていました。  余談ですが、おそらく前世で小悟か大悟を既にやっていたのだろうと思います。  

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          二元的志向の矛盾と本心

          ◇二元的志向の矛盾と本心◇  一切のことがらには、プラス面とマイナス面が必ずあります。  これは決して避けられないのです。  例えば、平等について。  実際に自分で考えてみて頂きたいのですが、平等なんてものは幻想であり、皆平等なんてことはあり得ないし、不可能なのです。  平等にしようとすると、必ずその裏側で不平等が増大します。  平和もそうです。  平和になるようにしようとすると、必ずその裏側で過度な抑圧が増大し、結果として平和から遠ざかってしまいます。  権利や自由も

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          空を批判する

          ◇空を批判する◇ 仏教で使われる概念に、空というものがあります。 今日は、その空を批判します。 空は、日常的な概念について説明するためにわざわざ導入された概念ですが、この空という概念を持ち込むというやり方そのものが既に筋が悪いのです。 そもそものところ、一切のことがらは説明をすることが不可能なのです。 よりわかりやすく言うと、一切のことがらは説明を尽くすことができないのです。 ですから、空という概念を持ち込んだところで説明できないという状況には変わりないのです。 むしろ

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