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無常の誤りについて

◇無常の誤りについて◇

今朝のツイート記事(これは本体のgooブログに書いている記事のことです)に書いたものを単独の記事として書いてみようと思います。

無常、無我について(特に無常について)、これまで何となく違和感を感じたままほったらかしにしていたのですが、その違和感の内容がハッキリしたので記事にしておきます。

まず最初に、無常、無我の意味の確認から。
無常とは、一切のことがらは常に変化するものであるという意味です。
無我とは、一切のことがらに実体が無い、あるいは絶対が無いという意味です。

無常とは何を言っているのかというと、ことがらの本質的な性質について常に変化するものだと言っている訳です。
これに対し、無我には、ことがらの実体の有無に関する意味合いだけでなく、ことがらに対して何らかの言及を行う際のその言及そのものに対する意味合いも含まれている訳です。
つまり、無我の矛先は、ことがらに対して無常であると言うその言及にも向けられるということなのです。

無我の観点からすると、一切のことがらに絶対はありませんから、言い切りや断言は一切できないのです。
無常の言う、一切のことがらは常に変化するものであるというのは、言い過ぎであり、厳密に言えば誤りなのです。
なお、一切は常に変化するの「一切」を言わないとしても、変化するものであると言い切っていることには変わりありません。

無常という考えは軽く、どうでもいいのでないかと考えていましたが、誤りであるというのは、私自身、意外でした。
悟りの理解に、無常という考えは必須ではなく、むしろ無用であると結論する次第です。


<2024年8月25日>
◇訂正とお詫び

上の記事で、無常が誤りと書いたのは言葉が過ぎたと思います。
誤りと言ってしまった私自身が誤りでした。
すみませんでした。

改めて考えてみると、無常とは、私という存在である意識、即ち連鎖的に展開する識のこと(正確には識の特性)であると考えれば、確かに私とは無常であるということになります。
苦は、私というものを別の切り口から見たときの私のこと(正確には私の特性)であるということができます。
そうすると、空もそうです。
空も、さらに別の切り口から見たときの私のことであるということができます。
無我(実体は無い)も、私のことを言っているに過ぎません。

無常も、空も、無我も、苦も、私のことを言っているのだと改めて納得した次第です。


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