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自我の手放しという誤り

◇自我の手放しという誤り◇

今回は、自我の手放しについて書いてみます。

自我の手放しは悟り界隈でよく言わることですが、間違いです。
そもそも、自我を手放すことなんて不可能であり、あり得ないのです。
究極的には、この世界そのものがあなという自我なのですから。

自我、私、個の意識など、なんと言っても同じです。
すべて私であり、手放す対象となり得るものではありません。

自分は自我を手放したと言っている人が時々おられますが、それは本人の誤解であり、認識不足です。
世界があり、その世界が見えている、感じられているのに、私が無いなんてことはあり得ないのです。
起こってくる現象と、それを観ている、感じている観照とは、不可分であり一体なのです。

悟りの行程は、囚われ(執着)を手放していく行程です。
囚われの手放しを少しずつ進めていく行程を漸悟といい、一度にそれなりの量の囚われを手放す行程を頓悟と言います。
頓悟と言っても、1回で悟り切る例はおそらくなくて、実際には漸悟と頓悟を織り交ぜながら進んでいきます。

明け渡し体験や禅の頓悟など、一度にそれなりの量の囚われの手放しが起こると、自我感覚の急激な希薄化が生じ、これは自我の消失感覚を伴います。
ここで、多くの方が自我が消失したと誤解してしまいます。
すると、ちょうど仏教の教えにも「無我」などという紛らわしい概念があるため、「これだ」と嵌ってしまい、そこから抜け出せなくなってしまいます。
そもそも釈迦が言ったとされる無我とは、私が無いと言っているのではなく、全てに実体が無いと言っているだけであり、私についてはあるとも、無いとも言っていないのです。

手放す対象は、あくまでも自我ではなく、囚われ(執着)なのです。
囚われを手放すと、その結果として、自我が薄くなったような現象が生じるのです。
自我を手放すなんてことは、道理に合わないのです。

次に、私に意識を向けること、自我を捉えることの大切さについて書きます。

悟りの行程を歩む際に限らず、人生を歩む際にも、私に意識を向けつつ歩みを進めることはとても大きな意義があります。
悟りの行程を歩む際は、囚われを手放していく必要があります。
囚われを握りしめているのは、私自身ですから、その現場である自分自身にしっかり意識を向けることで、自分自身が囚われを握りしめていることに気づきやすくなります。
自分が囚われを握りしめていることに気付くことができれば、その瞬間に気づいた囚われが消失します。

次に人生について。
一般に人の営みは、損得や感情など表面的なことがらに意識が向けられやすいです。
人目や社会的地位が気になり、自分を自分の目で直接見るのではなく、人の目や社会的基準を通して自分を見て評価することが多いです。
これでは外側ばかりに気が取られ、自分の内面深くまで見ることはできません。
そうなるのも仕方のないことではありますが、それでは自身の本心が置き去りになってしまうのです。
だから、人生に後悔を残すことになってしまうのです。

私たちはどうして生まれてきたのか。
それは、自分がこう生きたい、これがやりたいという想いがあるからだと、私は考えています。
もっと言えば、そこに後悔があるからだと、私は考えています。

人の目や社会的基準を通して自分を見るのではなく、外側ばかりを見ているその目を自分に向けて、自分の目で直接自分を見ていただきたいと思います。
そして、自分はどう生きたいのか、何をしたいのか、考えていただきたいと思います。
自分の本心に向き合っていただきたいと思います。

後悔しないように。


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