問答の限界と悟り
◇問答の限界と悟り◇
今回は、悟りと問答について書いてみます。
禅系の一部で、悟り修行に公案や問答が使われるようです。
悟りに問を使うことのメカニズムは、それはそれで非常にシンプルでハッキリしているのです。
結果はおそよ二種類あるようです。
どちらもポイントは問への集中です。
一つ目は、問への集中により、意識の囚われにより構成された外層部分が崩壊し、急激な自我感覚の希薄化が起こるのです。
このとき、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。
二つ目は、問へのさらなる集中により、意識の囚われにより構成された外層部分の崩壊がさらに進み、主客に対する錯覚が剥がれ落ち、それらの統合体験が起こるのです。
この体験をわかりやすく言うと、自分の意識あるいは存在が問そのものになるという体験です。
あるいは、すべてが消失し、問だけになるという体験です。
このときも、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。
しかし、問答で到達できる悟りは、ここまでなのです。
ここから先は、私に意識を向け、自我を捉える必要があるのです。
しかし、これがなかなか難しいのだと思うのです。
仏教、特に禅を含む大乗系では、私は無いという誤った無我の概念が伝統になってしまっていて、私に意識を向けることや、自我を捉えるという概念が欠落してしまっていますから。
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