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「ブレない」という生き方
バッハ松原。私の同級生の女子。昭和はクラスに40人もいて、一年間ほとんど喋らない子もざらにいた。バッハ松原もその一人だ。このあだ名は天然パーマでピアノが上手かった彼女に私が勝手に付けたものでクラスメイトが彼女を呼ぶあだ名は別にあった。彼女の存在感は薄かったが、私は彼女に一目置いていた。どんな縁かバッハとは6年間同じクラスで彼女の動向を誰よりも見ていた。大抵の子供は大した目的もなく、半日で終わる土曜
もっとみる縁は異なもの味なもの
父親の体が壊れ始めて亡くなるまで、そんなに時間はかからなかった。
父は付き合いだと言っては、酒の席に363日出向き、家にいたのは節季の二日間だけだった。節季にはスナックのママ達がこぞって日頃のツケを年に二回のその時期に集金にまわるから店を休む。だから父が家にいるのは年にたったの二回だけ。母はそんな父をアル中だと罵倒した。父は新聞記者だった。昭和は今と違ってSNSなどなかったから全ての仕事はアナ
「ぶれない」と、いう生き方
バッハ松原。私の同級生の女子。昭和はクラスに40人もいて、一年間ほとんど喋らない子もざらにいた。バッハ松原もその一人だ。このあだ名は天然パーマでピアノが上手かった彼女に私が勝手に付けたものでクラスメイトが彼女を呼ぶあだ名は別にあった。彼女の存在感は薄かったが、私は彼女に一目置いていた。どんな縁かバッハとは6年間同じクラスで彼女の動向を誰よりも見ていた。大抵の子供は大した目的もなく、半日で終わる土曜
もっとみる逃げるが勝ち。と、いう選択もある。
世知辛いご時世。でも、世知辛さは今に始まった事じゃない。もしかして、辛さの強弱が違うだけで、地球が誕生して生物が存在するようになってから、「世知辛い」は始まっていたのかもしれない。人は人との関わりから逃れる事など出来ず、何となく折り合いをつけて生きていく。そこに居たいのなら我慢!選択肢など無かったのだ。けれど、今は選択という紐を沢山ぶら下げて、どれを引っ張っても良いのではないか。そう思う。ただし、
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