花子の一生 「第二章完結」


#創作大賞2023
#オールカデゴリー

第七章 枇杷の葉

花子が、火葬場にある枇杷の木を見るのは三度目だ。人には最後がある事を知りながら、人は、それを座視する。けれど、ここに来る度、その事に気づかされる。
蝶子がこの枇杷の木を実際に見るのは初めてだったけれど、なぜか体の中心が締め付けられる感覚があって、それが、どうしてなのか蝶子は理解していた。
あの時も、風が吹いていて、緑色の厚みのある枇杷の葉が上下左右に揺れていた。
 枇杷の木は、確かにチャ子が生きて、存在した証だった。
 蝶子の横で、黒いワンピースを着た華子が、微かに聞こえる燃焼の音に耳を澄ましていた。
 「なぁ、お母ちゃん、ゴーッって聞こえるけど、チャ子さんが燃えてる音?」
 「うん」
 「なんか、思ったより静かな音やねぇ。もっと、えげつない音するんか思うてた。沖縄はお葬式の前に火葬してしまうやろ。せぇやから、こんな音、聞く事なんかないもん」
 「ほんまやなぁ。お母ちゃんかて、火葬場は初めて来たけど、嫌な感じはせぇへんわ。ほんま、静かやなぁ」
 「でも、お母ちゃんは初めてでも、花子さんは三回目なんと違うん?愛優美先生が言うてたわ」
 「そうかぁ」
  

 愛優美と恵子から、蝶子に一本の電話があった。それは、チャ子が亡くなったという知らせと、葬儀に出席して欲しいとの、切なる申し入れだった。
 チャ子の最後を、どうしても花子に立ち会わせたいのだと、受話器の向こう側にいる、恵子が頭を下げているの姿が蝶子には想像できた。
 チャ子は、自分より先に逝ってしまった花子を親不孝だと口癖のように言っていた。
 認知が入ったにもかかわらず、その事だけは、はっきりと覚えていて、息を引き取る直前まで、譫言を言っていた。
 愛優美から連絡が来たとき、蝶子と華子は朱美ちゃんの家で夕飯の支度をしていて、人の死から、一番遠い場所にいた。
 朱美ちゃんは、蝶子に言った。
 「行ってあげよーさい」
 そう言って、朱美ちゃんは再び、てぃーあんだを作り始め、島野菜の香りが、部屋一杯に充満していた。
 蝶子は、その香りを嗅ぎながら、いつか朱美ちゃんも、いなくなる時がやって来るのだろうか。そう思うとが悲壮な思いが込み上げてきた。
 きっと、愛優美と恵子も、今、まさに、そうなのだろうと、蝶子は、やるせない気持ちになった。
 この感情が、自身のものなのか、もしかすると、体内の一部になった花子のものなのか、蝶子は混乱したが、愛する人が目の前から姿を消す事への、じくじたる思いに、押し潰されそうになっていた。
 けれど、そんな思いも朱美ちゃんが作ってくれた、てぃーあんだが、かき消してくれた。
 そして、まだ見ぬ未来を案じるより、今を大切に生きようと思った。
 華子は、沖縄から出たくはないと言ったけれど、朱美ちゃんに説得されて、二泊三日で大阪に行く事を、渋々、承諾した。

 「朱美ちゃん、私が帰って来る日には、そーきそば作っておいてな」
 「任せよーさい。まーさん(美味しい)のを、作ってまっつるからねぇ(待っているから)」
 朱美ちゃんは、シワシワの手の平で華子の顔を何度も擦った。
 朱美ちゃんの体は島野菜の香りがして、思わず蝶子は、棒のように細い朱美ちゃんの腕にしがみ付いた。
 「私の居場所」
 蝶子はそう呟くと、朱美ちゃんの幅のない肩に頭をそっとのせた。
 「うんじゅ(あなた)の居場所よ」
 朱美ちゃんは、そう言って優しく蝶子の黒髪を繰り返し撫でた。
 人には、帰る場所と受け入れてくれる場所が必ず見つかる。それを、諦める事なく探し続けた人間こそが受け取れる神からの褒美なのだろう。蝶子は、朱美ちゃんの肩の上で、そう実感した。
 
久しぶりに訪れた大阪は相変わらずの賑わいで、人の波に乗れずに蝶子も華子も困窮していた。
 大小様々な岩にぶつかりながらも、やっとのおもいで、愛優美に知らされた葬儀場に着いた。
 そこは、全てが真っ黒で、二人が住むうちなーの色など一色もなかった。
 それだけで、華子がうちなーへ帰りたいという気持ちが膨らんでいくのが、握りしめた手の平から伝わった。
 「花子さんに、チャ子さんの最後を見せてあげような。それが、お母ちゃんに出来る、最後の恩返しなんやから」
 そう言った、花子の瞳は真っ直ぐチャ子の遺影を見つめた。
 チャ子は笑うでもなく、畏まるわけでもなく、飄々とした遺影だった。チャ子の全部が表情に出ている事が意図とは関係ないところで笑い声を漏らした蝶子を、周りにいた弔問客は好奇の目で見た。
 けれど、蝶子は笑いに堪える事は出来ず、焦りを感じていた。
その場の空気のざわつきに気付いた恵子と愛優美は、大勢の弔問客をかき分け二人に近寄った。
 七十歳になった恵子は、息が上がり苦しそうだった。
 愛優美も、肩で息をしながら、蝶子と華子に深々と頭を下げた後、
 「ほんまに、ありがとうございます」
 その言葉を何度も繰り返した。
 恵子は、蝶子の瞳に顔を近づけると、優しい笑顔でこう言った。
 「花子。お母ちゃん怒ってたでぇ。でもなぁ、あんたの事だけは死ぬまで忘れてなかったんよ。ボケてしもうて、私の事も、あゆちゃんの事も、お父ちゃんの事まで、記憶からこぼれ落ちてしまったのに、あんたの事だけは、最後まで覚えてたんよ。あとなぁ花子、そっちにお母ちゃんが行っても、喧嘩したらあかんよ。えぇね、約束してな」
 恵子は、そう言って蝶子の瞳に語りかけた。
 人は生を受け、最後は消えてしまっても、その人が生きてそこにいたという事実だけは、なかった事にはならないのだ。
 蝶子は、自分の生きた証である華子を、一生かけて愛する事を、そして、花子に受けた報恩を、こぼす事なく生きていこうと心に誓った。
 
「蝶子さん、最後にわがままなお願いを聞いてくれますか?お願いします」
 恵子は、神妙な面持ちで蝶子にそう言うと、長々と頭をさげた。
 「私たちがここに来たのは、花子さんへの報恩だと思って今、ここにおるんですから。私らで出来る事は何でも言うて下さい」
 それを聞いて、頭を上げた恵子の下がった目尻には涙が溜まっていて、少しの振動で今にも、こぼれ落ちそうだった。
 「親族の席に座って貰えませんか?そこから、花子にお母ちゃんを見せてやってもらえませか?」
 愛優美も同じ気持ちだったようで、蝶子にむかって静かに頭を下げた。
 親族席から、花子の夫である甲野義も同じく頭を下げた。
 甲野義の愛おしむような、なんとも言えぬ表情が、花子は確かに存在し、愛されていた事を蝶子は改めて実感した。
 「分かりました」
 今度は、蝶子が頭を下げた。
 そんな大人達のやり取りを不思議そうに眺めていた華子に愛優美がそっと近づき、
 「華子ちゃん。遠くからありがとう。あれから、ミーインデーは出来てへん?癖になるから気ぃつけてなぁ。汚れた手で目を擦ったらあかんよ」
 「大丈夫やで。たまに小さいのが出来るけど、朱美ちゃんの作る、黒甘酒を飲んだら、いっぺんに治るんやで。先生にも、今度持ってきてあげるわ!風邪とかにもえぇんやて!」
 子供らしい話し方に、弔問客からも笑みがこぼれた。
 「そうかぁ、朱美ちゃんは、うちなーのお医者さんやねぇ。大切な人なんやねぇ」
 「せぇや。でも、愛優美先生も、うちなーの大事な大事な人なんやって皆んな言うてるよ。先生と、婦長さんが、いいひんと、エイショウおじぃも漁港の人も朱美ちゃんも、町の人もえらい困るわぁ。せぇやから、二人とも、ずっと、うちなーにおってなぁ!約束やで!」
 「分かった。約束する」
 「ほんま?」
 「ほんまや」
 「良かったぁ!良かったなぁ、お母ちゃん!」
 屈託無く、そう話す華子を見て、恵子は子供の頃の花子を思い出し、懐旧の情に浸っていた。
と、同時に、この、奇しき巡り合わせに感謝した。
 
 親族席に着いた蝶子と華子を、不思議と詮索する者もおらず、葬儀は無事終わった。
 葬儀場の玄関には、親族のみ火葬場に行く為のハイヤーとバスが待機していた。
 黒光りした高級ハイヤーを見た華子は、わぁ!と、声を上げた。
 弔問客に一礼した後、4人はそのハイヤーに乗り込んだ。
 助手席にはチャ子の遺影を抱いた恵子が座り、後部座席には愛優美、蝶子、華子の三人が座った。
 先頭には、チャ子を乗せた、黒くて長いリムジンが君臨していて、それを見た恵子から笑い声が溢れた。
 「なんや、前の真っ黒なリムジン、お母ちゃんにぴったりやと思わへん?花子の時は、きんきらきんの霊柩車で、それを見てお母ちゃんが言うた言葉、あゆちゃん覚えてる?」
 「覚えてるよぉ。忘れられへんわぁ」
 愛優美からも笑い声が漏れた。
 ハイヤーの運転手も興味深げに聞き耳を立てた。
恵子は笑いたい気持ちを押し殺すように、口を真一文字に結び、チャ子を乗せたリムジンが、お別れのクラクションを鳴らすと、弔問客が一斉に手を合わせた。
それらが視界から消えた頃、恵子は必死に堪えていた笑いを解き放ち、続きを話し出した。

「さっきの続きなぁ。お母ちゃんがなぁ、花子を乗せた霊柩車のきんきらきんを見てなぁ、あの、きんきらきんのチンチロリン霊柩車は花子の頭の中とおんなじや。眩しすぎて目に悪い。凝視出来ひん。そう言うてなぁ。悲しかったけど、おかしくて笑ってしもうたわ」
 すると、突然ハイヤーの運転手が堰を切ったように笑い出した。
 「お母さん、上手いこと言いはりましたなぁ。さすが、関西人ですわなぁ」
 運転手はそう言って更に笑ったが、我に返り、不謹慎だった。と、しきりに謝罪した。
 恵子は、そんな事は気にしていないと言わんばかりに、話しを続けた。

 「花子が高校生の夏休みにパーマをかけた事があってな、当時のパーマは、今とは違ってクルクルしとってなぁ。流行ってたんやで。流行ってたんやんけど、一つも似おうてなくてなぁ。それを見たお母ちゃん、花子になんて言うたと思う?」
 「それ、知らんわぁ。お母ちゃん、何て言うたん?」
 愛優美が、好奇心に満ちた顔で恵子に尋ねると、
 「聞きたい?」
 恵子が関心を惹く言い方をすると、愛優美や運転手、蝶子と華子まで、もどかしいと言わんばかりの表情を浮かべた。

 「そんときばかりはお母ちゃんも呆れたみたいでな、いつもみたいに怒鳴る事をせんと、冷ややかぁな口調で、こう言うたんよ。あんた、頭の中もクルクルしてんのにやで、外見もクルクルして、もはや、クルクル三昧やな!やて!オモロいやろ!」
 恵子はチャ子の口調を真似てそう言うと、狭いハイヤーの中は笑い声が充満し、今から、火葬場に向かうというのに、車内は和やかだった。
 けれど突然、蝶子がいつもと違った口調で話し出した。
 「あの時、お姉ちゃんも、お母ちゃんに座布団一枚!とか言うて笑うてたやん」

 恵子は驚いた。

なぜなら、その事を知っているのは、花子とチャ子と、そして自分だけだったからだ。
つい今しがたまで笑っていた恵子の瞳から涙が止めどなく零れ落ちた。
 「花子なん?」

 恵子は体を思い切り捻りながら、後ろを振り返り、そして、蝶子の瞳を見た。

 「花子なん?花子なんやね?そうなんやね?」
 愛優美は横にいる蝶子の顔を覗き込むと、瞬きもせず瞳を見つめた。
 「花ちゃんなん?」
 ハイヤーの運転手は、何が起きているのか把握できず、ただ、バックミラーにうつる蝶子を、時折見ていた。

 「なぁ、あんた初めて保育園に行ったときのこと覚えてる?」
 冷静さを欠いた口調で、恵子が尋ねると、蝶子は間髪おかず、答えた。
 「覚えてるでぇ!あれは恥ずかしかったわぁ。保育園が地獄に思えて、そこで、出迎えてくれはった園長先生の顔が閻魔さんみたいで、怖くて怖くて、気絶したままお漏らししたんよ。その後も、ちょいちょいやらかしてお母ちゃんに、よう叱られたなぁ。お姉ちゃん、あれ、覚えてる?ほら、扇風機の!」
 恵子は、疑念から確信に変わった。
 今、目の前にいるのは、蝶子ではなく、十年前に亡くなった花子だと、恵子は確信したのだ。
そのとき、恵子の顔は色々な感情が入り混じり歪んでいた。

 「信じられへん。こんな事がほんまにあるやなんて」
 愛優美はそう言うと、蝶子の目に触れながら静かに泣いた。
 いつもと違う母親の様子に華子は竦み上がり、自分達が、今、乗っているハイヤーが、どこか違う世界に向かっているような、そんな不思議な感覚を覚えずにはいられなかった。

 「お姉ちゃん、あゆちゃん。お母ちゃん死んでもうたんやなぁ」
 再び、蝶子が話し出した。
 「お母ちゃんは死なんと思うてたけど、人間やったんやなぁ」
 そう言って笑った蝶子の口の開き方が、花子と同じだった。恵子は、助手席から蝶子の手を握ると、保育園に行きたがらない花子の手を引いて、お迎えのバスが来る雑貨屋まで行ったときの事を思い出していた。
 「あんたは、おもろい子供やったさかい、お母ちゃんにはよく叱られとっもんなぁ。要領も悪いし、頭も悪いし。でも、私には出来ん事をやってのけて、羨ましかった。でな、可愛かった。楽しかった。お父ちゃんもいて、お母ちゃんもいて、あゆちゃんも、愛ちゃんもいて。そんで、あんたもいて。皆んないて。ほんま幸せやったなぁ。戻りたいなぁ、花子、お姉ちゃん、昔に戻りたい」

 恵子はそう言うと、嗚咽をもらした。

 「泣かんといてぇなぁ。お姉ちゃんや、あゆちゃんが長生きしてくれんと、家族の歴史が、のうなってしまうやない。誰も知らん事になるやん。そんなん寂しいわぁ。写真がいくら残っていても、語る人がいいひんのは、つまらん事やで。おもんない!だから、そなポジティブな事、言わんといてぇなぁ」
 「あんた、死んでもアホなんやなぁ。ポジティブじゃなくて、ネガティブって言いたかったんやろ?死んだらアホは治んのか思うたけど、違うんやなぁ」
 恵子の泣き笑いが、しめっぽい車内に陽がさしたように明るくなった。
 「アホは死なきゃ治らないー!ってお母ちゃんが私によう言うてたけど、あれは当たってなかったって事やな!治ってへんもんなぁ」
もはや蝶子が花子にしか見えなくなった姉妹は、火葬場までの道のりを昔話で盛り上がり、笑い合った。
 けれど、楽しい時間は長くは続かず、ハイヤーが火葬場の玄関先で止まった。
 チャ子を乗せたリムジンは別の入り口にバックで止まっていた。
 葬儀屋が手際よく、棺をストレッチャーに移すと、タイヤの音を残しながら中へと入って行った。
 その光景を、皆んなが静かに見ていた。
 
 「ここ来るの、三回目やわ」
 蝶子が呟いた。
 「うちらは、四回目やけどなぁ」
 愛優美が寂しげに呟くと、恵子も静かにうなずいた。
 「あんたは、自分の時は主役やったから、三回なんやろうけど、うちらは、なんやかんやで四回も来てしもうた。こんなとこ、何回も来るとこやないけど、人は、生きてる時間が長ければ長いほど、悲しい目に遭う事も多い。どっちがえぇんかなぁ?」
 恵子は、意に満たない表情で火葬場の庭を見つめた。
 庭にある枇杷の木は、来る毎に成長しているのが目に見えて分かった。蝶子は、ハイヤーを降りると、吸い寄せられるように、木の側まで近づいて行った。
 そして、空を仰ぐように三年経った枇杷の葉を手の平で触り、こう呟いた。

 「お母ちゃん、一緒に行こうなぁ」

 蝶子の少し後ろで恵子と愛優美も空を仰いだ。

 どこからか吹く、柔らかで静かな風に、枇杷の葉は音を奏でた。


 
 

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