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理系大学生の10日間瞑想合宿体験記 vol.2


▶ここまでのあらすじ

ヴィパッサナー瞑想を学ぶ10日間のコースに申し込んだ私は、勇み足でコースが行われる施設に向かった。そこは、本当に俗世から隔絶されたような、緑に囲まれた地であった。胸に期待を膨らませながら、10日間の合宿が始まるのであった。

瞑想合宿体験記 vol.1はこちら


▶1~2日目・頭の中がずっとうるさい

●なかなか瞑想に集中できない

朝4:00、鳴り響く鐘の音と共に目覚める。いつも7時過ぎに起きているだけに、それより3時間も早く起きると眠い。家だったら間髪を入れずに2度寝するところだがしかし、私は今千葉の山奥の瞑想合宿に参加しているのだ、という事を瞬時に思い出し、目をこすりながら屋外の洗面所に赴いた。

4:30~6:30では、各々の個室か瞑想ホールで瞑想をする。自分の場合は個室で瞑想すると寝てしまう可能性が非常に高いので、着替えを済ませてから瞑想ホールに向かった。

0日目の夜に教わったように、鼻腔の入り口の部分で、入っていく息と出ていく息にひたすら注意を向け、感じ取る。これをやり始めた当初は、非常に簡単だな、と高をくくっていたのだが、間もなく私は試行の嵐に巻き込まれることになる。最近見たアニメのオープニングテーマ(「進撃の巨人 1期」の「紅蓮の弓矢」)が、延々と頭の中を駆け巡る。呼吸から意識が離れていることに気づいた時、速やかに呼吸に意識を戻すことが出来る時もあるのだが、脳内で歌を歌っていることに気づいてもその歌が鳴りやまず、ずっと脳内再生されている時もあった。また、私の大好きなテレビ番組「世界の果てまでイッテQ」の、面白かった場面や印象に残っている場面が延々と思い出される時もあった。

そんな時は、瞑想をきちんと出来ておらず、時間を無駄にしている感覚が募ったが、指導者によるとそれははじめて瞑想をした人にとって自然なことだという。過去や未来に思いを馳せる古い心の癖があるのだとか。意識が呼吸からそれても、落胆したり悲観したりせず、冷静な心持で現状を受け止め、また呼吸に意識を戻すことが大切らしい。

グループ瞑想や指導のある瞑想の時間には、初めと終わりにS.N.ゴエンカ氏の音声が流されるのだが、コース期間中何回も何回も聞いた文言がある。
それは以下のようなものである。

keep  calm and equanimous mind, work diligently, patiently and persistently, you are bound to be successful. 
(冷静で落ち着いた心を保ち、勤勉にはたらきなさい、辛抱強く、粘り強く。きっとうまくいくでしょう。必ずうまくいきます。)

●食事と休憩時間の過ごし方

食事と休憩時間についても、書き記しておこうと思う。ただ、これは1,2日目だけに限ったことではなく、10日間共通の事として記していく。

食事は1日2食(朝食と昼食)、そして17:00からのティータイムがある。朝食と昼食では、基本的に和食が出る。ご飯、みそ汁又はスープ、漬物や野菜を使った一品などが主なメニューだ。だが、例外もあった。3日目の昼にはカレーライスが出たし、コース期間中3回ほどは全粒粉のパンのようなものが出た。バターやイチゴジャムを塗って食べるパンは、格別なおいしさだった。17:00からのティータイムでは、牛乳、豆乳、紅茶などの飲み物と、果物をとることが出来る。果物は毎日2種類出された。10日間のコース中、最終日以外は必ずリンゴが入っており、もう一種類はオレンジであったりキウイであったりした。リンゴの場合は、皮をむかずとも切って種とヘタをとれば食べることが出来るが、キウイは皮をむかなければならない。キウイの皮をむいたことなどこれまでなかったのでかなり時間をかけて皮をむき、べちゃべちゃの状態になったキウイを食していた。
コースに参加しようかな、と考えている方には、果物を切る練習を事前にしておくことをお勧めする(笑)。

休憩時間にすることと言えば、「寝る・散歩する・洗濯する」の3択である。1日目、2日目はあいにくの雨だったので、洗濯と散歩はすることが出来ず、休憩時間中はずっと寝ていた。朝4時起きで眠かったので、ちょうどよかったと思う。

シャワーを使える時間はあらかじめ決まっており、割り当てボードの自分が使いたい時間帯の欄に、自分の部屋番号が書かれたマグネットを貼ってその時間を確保する。私は、ティータイムが終わった直後の17:30~17:50の時間で使用していた。人と話すことも、運動することも出来ない環境だったので、シャワーの時間は一日の大きな楽しみだった。本当は歌でも歌いながらシャワーを浴びたかったが、声を出してはいけないので心の中で熱唱していた(笑)。

●とても共感した講話・「実践しなければ意味がない」

一日の最後にある講話ではっとさせられた話があったので、簡単に記したいと思う。

毎晩毎晩、ブッダの説法を聞きに来る青年がいました。もう何年もブッダの所に通っているのですが、少しも教えを実践する素振りがありません。

ある時、青年はブッダに、ある質問を投げかけました。

「先生の所に通っている人の中には、悟りを開いて完全に解脱している人、すっかり生き方を変えた人、あるいは、完全に解脱していなくても目に見えて進歩した人もいます。ところが、私のように以前と全く変わらない人や、全然成長しない人も沢山います。
先生は、完全に悟りを開き、偉大な力を持ち、慈悲深いお方です。何とか先生のお力と慈悲によって、みんなを解脱させていただけないものでしょうか?」

この質問に、ブッダはこう答えました。

「目的地への行き方を聞いただけで、そこにたどり着くことが出来ますか?」

青年の返答はこうでした。

「まさか、先生。説明を聞いた後、今度はその道を歩かなくてはなりません。歩き通して初めて目的地にたどり着くのです。」

ブッダは言いました。

「私が言いたいのはまさにそのことなのです。私が悟りへの道をいくらわかりやすく説明しても、『なるほど、ごもっとも。まことに結構な道です。けれども、私はその道を歩くつもりはありません。すばらしい道ですが、苦労して歩くつもりはありません』と言うような人が、どうしてゴールにたどり着くことが出来るでしょう?
悟りへの道は一人ひとりが自分の足で歩いていかなければならないのです。」          (講話おわり)


つまり、どれだけ知識を持っていても、実践して現実に活用しないと意味がない、という事である。私はこの種の話を昔から知っていたのだが、この講話を聞いた時、雷に打たれたような気がした。実は自分は知識を蓄えるだけで何も行動していないことに気づいたのだ。

何か月も前から、自分が学んできたこと、体験してきたことを発信したいとは思っていながらも何かと言い訳を見つけて着手せずにいた。

だが、この講話を聞いたことによって、まずはこの瞑想合宿体験記から発信を始めようと思いnoteを始めた次第である。

▶次回予告・「拷問を疑似体験するの巻」

さて、現時点でこの記事は3000文字近い分量になっている。一つの記事で多く書きすぎると投稿が遅くなってしまうので、今回はここまでとしたい。

3日目からは怒涛の中盤戦に入っていく。ヴィパッサナー瞑想の導入と共に、1時間姿勢を変えてはならない「決意の瞑想(アディッターナ)」が始まる。そこで体験した猛烈な痛みや心境を次回はつづっていく。

乞うご期待。


瞑想合宿体験記 vol.3(つづき)はこちら


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