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【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】 きっとここにしかない喫茶店で(6)
第五話はこちらです。
第六話
マスターを一人にしておこうという男の意向のもと、二人は店を出ることにした。駅まで送ってくれるという男の申し出を受け入れていつもの商店街を歩いている。
夜も深まり、風が冷たくなっている。体が徐々に温度を失っていくのに反して、ミカの心は暖かいままだった。
「ミカさん、今日はありがとうございました。いつもとは違う風が入ってきて、僕にもマスターにも良い刺激がありました。何より楽しかったですね」
また相談屋モードに入り気味の男だが、軽い空気で親しみやすい。
「いえいえ。こちらこそありがとうございました。なかなかできない経験ができてよかったです。それに⋯⋯」
ミカは歩調を緩め男の方を見ようとするが、どうしてなのか気恥ずかしくて見ることができない。男は少し先でミカが歩み出すのを待っている。
「いえ、なんでもないです。マスター、すごい勢いでしたね」
男の空気は変わらない。
「そうですねぇ。スイッチが入ってしまったんですね。僕も自分の世界に入ってしまうことがあるので慣れているというか、お互い様なんですよ」
そう言う男の姿にミカのお腹はきゅっと締まった。男が言葉を紡ぐ。
「それにしても、ミカさんはだいぶ薄着ですよね。今日店に来た時からとても寒そうでした。体が冷え切らないように気をつけないといけないですね。これをどうぞ」
そう言って男はコートのポケットから小さな紙の袋を取り出した。
「さっき二人が別れの挨拶大会を繰り広げている時に取って来たんです。今日の無茶振りに対する僕からのお礼ですかね。スパイスティーです。帰ってお風呂に入った後にでも飲んでください。今日の冷えが帳消しになるくらい血の巡りが良くなりますよ」
気遣いを見せる男の笑顔に、冷えきった頬が熱くなったように感じた。それが寒さのせいであるのか、それとも得体の知れない何かであるのか、ミカには分かるはずもなかった。
駅で男と別れ、自分の部屋に帰ったあと、ミカはすぐにお風呂を沸かしてあったまった。お風呂に入りながらいつの間にか自分の体を抱きしめる格好になっていたのだが、どうしてそうしようと思ったのかミカは覚えていなかった。
お風呂から出て来た後、もらったお茶にお湯を注ぎ、お湯の色が変わるのを待っていた。ティーカップからスパイスの香りが広がって来る。男から以前もらったポプリの匂いにどこか似ている。
「そういえばいつのまにか香りが消えちゃったなぁ」
そう言いながらミカは窓に置いたポプリの方を見る。あの時は春までに素敵な恋人でも作れたらなんて思っていたはずなのに、なかなかうまく行かないものだ。
だがそんな心情とは裏腹にミカの顔はとても穏やかだった。
◆
あれから二回目の日曜日、ミカはai's cafeの前に立っていた。マスターからの指示のもと、今日は裏口に向かっている。悪いことをしているような気分になりながら敷地の奥に入り、裏から入っていく。
「ごめんくださーい」
ミカがおそるおそる挨拶すると、奥から私服のマスターが出て来た。
「あ、いらっしゃーい! 結構早く来たんだねぇ。もしかして、待ちきれなかった?」
「あ、ありがとうございます! 待ちきれなくて早く来ちゃいました」
「いまお昼ご飯を作ってたんだよー。こちらへどうぞー」
「はいー!」
そう言いながらミカはai's cafeのキッチンに案内された。キッチンは予想以上に大きかった。大きな冷蔵庫にさまざまな調理器具と設備は充実している。コックがいそうな本格的な厨房だ。ai's cafeの魔法のような料理がこの場所で作り出されているのだと思うとミカの胸は高鳴った。
「ちょっとだけ待っててね。いま準備しちゃうから」
そう言ってマスターはあくせく動き出した。少し待っているとマスターがミカのところにやって来た。
「お待たせー。早速だけどピクルス一緒に作っちゃおっか。お昼の付け合せにしよう!」
「はい。あの⋯⋯あのとき勢いに任せて作り方教えてくださいなんて言ってしまったのですが本当によかったのですか⋯⋯? お店の大切なレシピを教えてもらうだなんて、今更ですが⋯⋯」
「うん! 全然大丈夫だよ! うちはいくつかのお茶とお菓子のレシピ以外は、聞かれたら全部伝えることにしているの。こうやって一緒に作りながら教えるのは初めてだけどね」
そう言いながらマスターは茶色がかった瞳をミカに向けて微笑んだ。その顔がとっても綺麗で、ミカの心の詰まりが一気に除かれてしまった。
「さて、そしたらもう作り始めちゃうよ! 今日はカブ、人参、きゅうり、蓮根、カリフラワーを買って来たからこれで作ろうね。もうカットしてあるの」
マスターがカットされた野菜たちを取り出した。どれもボウルに入っていている。
「しゃきしゃきが良かったら生のままでもいいんだけれど、私は軽く蒸してからピクルスにするのが好きかな。野菜の甘みがさっと香って食べやすいの。いつもはスチーマーを使うんだけど、今日はレンジにしよっか。お家でも簡単に作れるようにね」
ミカは「ふむふむ」と言いながらメモを取っている。
「お野菜には軽く塩を振って、さっくり混ぜるといいかなー。この量だったら五分チンだね」
マスターは野菜の入ったボウルにラップをかけ、レンジに入れ、調理をスタートさせた。
「ピクルス液だけど、うちでは寿司酢と白ワインを使っているの」
「⋯⋯寿司酢ですか?」
「そうなの。寿司酢を使うと和の空気が入って来て懐かしい風味になるんだよ」
確かにこの前食べたピクルスは和風の酢漬けのようでもあったので、ミカは納得した。
「昆布出汁の入った寿司酢にするとより和に近くなるかな。白ワインは何でもいいよ。飲み残しで気が抜けちゃっていても美味しくなるから大丈夫だしね。あとはハーブ。いつもはローズマリーをちょっと入れるの。お野菜によってはローリエとかタイムも使うんだけど、加減が難しいんだよね。もしあったら試しに使ってみるくらいで大丈夫。今日はローズマリーだけにしてみるね」
マスターはそう言いながらローズマリーの茎を手に取り、くんくんと嗅いでから三センチほど切って深型のフライパンに入れた。
「酢と白ワインは一対一が基本の分量ね。甘めが良かったらここでお砂糖足しても良いし、寿司酢を多めにするのもありだと思う」
マスターは計量カップに酢とワインを計り取り、フライパンに入れた。
「あとはこれを野菜と一緒に軽く煮立てたら完成だよ! 酸味が欲しかったら後で酢を足しても良いからね」
そんなこんなでマスターに変わってミカが調味液を煮立てたり、煮沸消毒した瓶に詰めたりしてから、二人のピクルスは完成したのだった。
料理のメモをもらった後、料理の仕上げをするから少し待っていてと言われたミカは、いつものようにカフェの席についてワクワクしていた。
「今日のご飯はなんだろうなぁ⋯⋯」
マスターは今日のランチのメニューについては何にも話していなかった。厨房では鍋が火にかけられていたが、蓋がされていて中身が見えなかった。スープか、煮込みか⋯⋯なんにせよ楽しみだとミカは呟き、厨房の方をぼーっと眺めていた。
「おまたせー! 本日のランチ、鶏肉のトマト煮込み、ジャガイモのガレット、そしてピクルスでございます!」
マスターが声を張り上げながら勢いよく前に飛び出して来た。手にはいつものお盆を持っている。
「私も一緒に食べるね!」
そう言いながらマスターはお皿をテーブルに並べだした。トマトのたおやかな香りが広がり、ミカの食欲を刺激する。
「このトマト煮込みは野菜と鶏肉の水分だけで煮込んだものなの! たくさんあるからおかわりしてね! パンは商店街のはずれにあるお店で買って来たんだよ。ミニカンパーニュだって! 少しライ麦が入っているみたいでね、皮がパリパリでおいしそうだったから、買ってみた」
「うわぁ、おいしそうです! 食べてもいいですか? 食べていいですよね? いただきます!」
ミカもマスターもしっかりと手を合わせたのち、さっと動きだして食事を貪り始めた。
十五分後、そこにはお腹を抱えて幸せそうな二人の女性がいた。
「もう何にも食べられない⋯⋯」
二人とも悪ノリというか、お互いの勢いにつられてしまい、いつも以上に食べてしまっていた。本当に美味しかったのだが、さすがにお腹がきつかった。
「食後にコーヒーでもと思ったけど、もう少し休憩してからにしようね⋯⋯」
「はい⋯⋯」
満足そうな顔をしていながらも、しかばねのように動くことをやめた二人は気怠さに身を任せ、自分たちの業の深さにただうなだれるのであった。
「前から聞こうとおもっていたのですが」
徐々に消化が進み、胃の重さが和らいで来た頃、ミカが口を開いた。
「マスターっていつもは楽しそうにしていますが、たまに張り詰めているというか、すごく真剣な顔になってコーヒーを作っていることがありますよね? あれって何かあるんでしょうか?」
マスターはミカの話を聞いて、細めの目を軽く見開いた。しかしそれも一瞬で、すぐに普段の柔らかい表情に戻った。
「あー、そうなんだよねぇ。そういうことがあるんだよねえ。どうやって説明したらいいのかなぁ⋯⋯」
「あ、あの、余計なこと聞いてますか⋯⋯?」
「ううん。そういうんじゃないから全然大丈夫だよ! うーん。そうだなぁ⋯⋯。そのことを話すためには少し前置きが長くなっちゃうけど、聞いてもらえるかな?」
やや真面目になったマスターの表情を見て、ミカは姿勢を正しながら頷いた。
「私ね。自分が必要な人に必要なものを送るためのストローみたいになれたら良いなぁって思っているんだ。人ってさ、真面目にまっすぐ生きているつもりでも、道を踏み外しちゃったり、失敗しちゃったりするでしょ? そんな時、自分だけではどうしようもなくて誰かの助けを必要としていると思うの」
マスターの声はこれまでミカが聞いてきた中でも一番低かった。
「そんな人の中には美味しいコーヒーや懐かしい料理に救われる人もいるんじゃないかなぁって思うんだよね。だから私を通してそんな人たちに料理を届けられたらなって気持ちでこの店をやっているんだ。せっかくこのカフェに迷い込んだのだったら、できる限り良いものを届けたいなぁって日々思っているの」
マスターはミカのことを見つつ、たまに視線を外して遠い目になる。ミカはそんなマスターの姿に見惚れながら、精一杯の気持ちで耳を傾けている。
「だから毎日最高のものを届けたくて真剣に準備をしているんだけど、なかなか難しいんだよねぇ。体力とか精神力のこともあるのだけど、本当にいいものを作るためにはタイミングとか巡り合わせとか、そういうものが必要なんだ⋯⋯。むーん、ミカちゃんが信じるかわからないけど——」
マスターの顔から微妙に力が抜け、物憂げなような、でも喜びも含んだ表情になった。
「時々ね、コーヒーの豆や茶葉が飲んで欲しそうにしているって感じることがあるんだ。『自分を美味しくしてくれ』って言われているようなね。私の妄想かもしれないけど⋯⋯だけど、そういう時は不思議と良いものが作れるの。その日の湿気、豆の挽き具合、お客さんの空気感、ポットと手の馴染み具合⋯⋯全てが完璧に思えて、噛み合って、いつもよりも集中できる。そういうとき『あぁ、世界が私を通してあの人に最高のものを与えようとしている』って気持ちになって来て、とても神聖なことをしているように錯覚する」
ミカはマスターの顔つきが変わったことに気がついた。いつもは二十代後半に見えるのだが、このときばかりはもっと年上のように見えた。
「あとからどんなに真剣に真似しようとしても、その時みたいにはうまくできないの。まるで自分じゃなかったみたいで、コーヒーもお茶も料理も本当にすごくいいものができるんだ。そういう時の私は、もしかしたらいつもみたいにただ楽しんでいるっていうよりは、深く集中していて真剣に見えるのかもしれないなぁ」
ミカはマスターの話を正確に理解できた訳ではなかったけれど、どこか腑に落ちるようにも感じていた。あの日、見知らぬ駅で降りてこのカフェに引き寄せられた時、ミカも運命のような何かを感じた。マスターが言いたいことは、きっとそういうことなのだろう。
「ミカちゃんが初めてここに来た時もそうだったよ。薬草茶の注文を受けて、茶葉を缶から出す時、お茶が喜んでいるような気がした。お茶の量も、お湯から引き上げるタイミングも完璧で⋯⋯あれより美味しい薬草茶を今はきっと作れないんだ。毎回誠実に作っているつもりなんだけど、それでもやっぱり超えられないんだ。よく分からないけれど、私にとってはそういうものなの」
ミカはハッとした。確かに薬草茶が好きでよく頼んでいるが、初めて飲んだ薬草茶はとびきり美味しかった。ミカの気分や体調的な問題のせいでそう感じられたのだろうと推測していたが、問題はそれだけではなかったのかもしれない。
「あのとき初めて飲んだ薬草茶は本当に美味しかったです。それこそ魔法みたいに⋯⋯。いつものご飯やお茶も美味しいのですが、あの日の衝撃は忘れられません。だからマスターの言いたいこと、どこかわかる気がします⋯⋯」
「うん⋯⋯ありがとう。誰かが必要としているものを必要としている時に渡せた気になる時はやっぱり嬉しいんだ。だから、その時がまた来ますように。その時に良いものを作れる私でありますように。その時に良い準備をしていられますように。って思いながら毎日を過ごしているんだ⋯⋯。って格好いいこと言っても、いつもの私はすごく抜けているんだけどね」
そう言うマスターの顔はとても晴れやかだった。ミカはそれを目にして胸が熱くなった。ミカはこらえながら思いついた言葉を口にする。
「それってなんだか、祈りに似ていますね」
小声ではあったが、その言葉は水面に落ちた雫のように波紋を作り、店中に広がっていった。朗らかな顔でマスターが答える。
「そうだね。私は祈るようにお茶とコーヒーを淹れて、料理を作るの。それがこの店なんだ」
ミカはその時、この店に人が引き寄せられてくる理由が分かった気がした。そして今日のこの出来事を心の中に大切にしまっておこうと決めた。
話が終わるとお腹の様子も落ち着いて来たので、マスターがコーヒーを淹れるために席を立った。ミカはまだ先ほどの話が頭に残っていて、どこか夢見心地であった。
「さてさて、気を取り直して。どうぞどうぞ『春期限定サクラコーヒー&ケーキセット』です!!」
ミカが待っていると、いつも通り⋯⋯いや、いつも以上に芝居がかって元気なマスターが飛び出して来た。目の前にコーヒーとケーキが置かれる。
「あっ、ついに完成したんですね!」
ケーキに目をやると、上部にそぼろのようなものが乗っていて、あまり見たことのない状態だった。カットされた面を見てみると大部分はピンク色だが、そこにかぼちゃの種やグリーンレーズンの緑が差していて綺麗だ。マスターの話によると乾燥させたクランベリーやチェリーも入っているとのことで、しっとりとしていて美味しそうだ。
ミカはケーキをフォークで取り、一口食べてみた。
さくほろ。
ミカは驚いた。上部のそぼろはしっとりとしたスコーンのような食感で、これまで感じたことのないアクセントを与えてくる。ケーキの生地の部分もしっとりとしているが、パウンドケーキよりは微妙にかたく焼き上げられている。そぼろと生地の二つの食感が調和しあっており、どんどん口に入れてしまいたくなる。甘さは控えめだけど、ドライフルーツの芳醇さやかぼちゃの種の香ばしさが備わっているため味わい深い。
このケーキはコーヒーにも合っていた。サクラコーヒーの軽さのあるコクをクラムケーキがより引き立てる。表面上はさっぱりした軽いセットだが、食べ飲み進めていくうちに風味が重ねられていく気がするとミカは感じた。
「これがマスターの、私たちの春⋯⋯」
いいかもしれないとミカは思った。最初は少数の草が生い茂っているだけだったのに、小さな変化が折り重なり情景を変えてゆき、そしてあるとき開花とともに春の息吹が一斉に芽吹く。そんな春の芽生えのイメージが込められているようにミカは感じた。
あっという間にケーキを平らげ、コーヒーを飲み干してしまったミカはとてもリラックスした気持ちになっていた。おいしい料理に、デザートに、コーヒー。心も口も軽くなるというものだ。
ペラペラと二人でおしゃべりしているうちに勢いも増し、興も乗り、ミカは曖昧にしておきたかったことをついマスターに聞いてしまった。
「マスターとあの人ってどういう関係なんですか?」
これから何ヶ月も、ミカはこの質問をしたことを後悔するのだった。
次話はこちらです。
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