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柳田知雪『たい焼き屋のベテランバイトは神様です』第一話 大丈夫だって言われたい 前編

 おじいちゃんが病院に運ばれた。
 急な報せに取るものもとりあえず、病室へ駆け込むと……
「みんな可愛えぇの~! 骨折した甲斐もあったあった」
 おじいちゃんは白衣の天使たちに囲まれ、キャッキャウフフな天国を築いていた。
「もう今川さんったら、元気になったらデートしましょうね」
「あ、ずる~い。私ともデートしましょうね~」
「うんうん、するする! どこでも行きたいとこ連れて行ってやるからのぉ」
 生涯現役を掲げる我が祖父、今川尭(いまがわ あきら)は、理由は分からないが齢七十を超えた今でも様々な世代の女性からモテる。数年前に亡くなった祖母は、そういう人だから、と諦めつつも、幼い頃の私にこっそりと教えてくれた。
――あの人は絶対に私のところに帰ってくるのよ。
 と、嬉しそうに、自信に満ちた笑顔で。だから、私もこれが祖父なのだとただ受け入れたのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「おじいちゃん! 看護師さんをナンパしないの! 他の患者さんにも迷惑でしょ!」
「おぉ、結貴。もう来たのか」
 ギプスで固めた脚を吊られたおじいちゃんはけろりとして私に手を振った。集まっていた看護師たちは、それぞれにおじいちゃんに挨拶をしながら病室を出て行く。同じ部屋の入院患者さんにぺこぺこと頭を下げて、私はおじいちゃんのベッド脇の椅子に腰かけて、ようやく一息ついた。
「心配したんだから。階段から落ちて救急車で運ばれた、なんて。お母さんたちもビックリして、新幹線に飛び乗りかけたって」
「はっはっは! 電車賃が無駄にならなくて良かったのぉ」
「笑い事じゃないってば……」
「段差を踏み外してジャンプしたまでは良かったが、まさか着地の衝撃で骨が折れるとは!」
 豪快に笑うおじいちゃんは、脚以外はいつも通り元気そうで安心する。ほっと胸を撫で下ろしていると、突然はっと目を見開いて私の肩を掴んだ。
「店は! たい焼きはどうなっとる!?」
 たい焼き、というのはおじいちゃんが経営しているたい焼き屋『こちょう』だ。私が中学生くらいの頃にセカンドライフとして定年退職後に開いたお店で、学生街にあるスーパーの真ん前、というなかなかの好立地。近所の学生や、スーパーでの買い物帰りに奥様方がよく買ってくれるらしい。
「和泉さんもいるし、大丈夫でしょ」
 私が和泉さんの名前を出すと、おじいちゃんは安心するどころか余計に顔を曇らせた。
「あいつ一人に任せるのは不安でのぉ。やはり、儂が戻って……」
「ダメだって! ゆっくりしてないと治るものも治らないし、和泉さんだって開店からずっと一緒に働いてるんでしょ? 何が心配なの?」
 宥めてみるも、唸るような声を上げるだけでおじいちゃんの表情が晴れることはない。うーんと唸りながら腕を組むと、ぼそりと小さく零す。
「せめて、儂の代わりに和泉を監視して、店を守ってくれるような奴がおればのぉ……」
 嫌な予感がした。
 すいーっと泳いでいた祖父の視線は、わざとらしく私の顔に照準を合わせ、キラリと瞳が輝く。
「そうじゃ、結貴がおった! 今からお前をこちょうの代理店長に任命する!」
「ムリムリムリ!」
 思わず大きな声が出てしまい、はっとして口を抑えた。動揺しながらも、このままでは本当に押し切られてしまうと慌てて言葉を続ける。
「私、たい焼きは食べる専門だし!」
「たい焼きを好きな気持ちがあれば十分」
「店のこととか何にも分かんないし……」
「それは和泉が大抵知っとるから聞けばいい」
「代理店長なんて、私には荷が重いというか……!」
「和泉がアホなことをやらかさないよう、監督をしてくれればいい。結貴はしっかりしとるし、和泉だけに任せるよりは儂も安心できるしの」
「で、でも……そもそも、休職中の私がそんなことしていいの?」
「要するに、暇ってことだなぁ」
「ぐっ……」
 言葉に詰まった私に、おじいちゃんがニヤッと笑みを浮かべる。そういう意味で言ったわけではなかったのだが、暇か暇じゃないかと言われれば、間違いなく前者だ。
 私の職場はヤムヤミーという製菓会社である。子供に安心、安全、美味しいを提供することを掲げた会社で、私は研究職を志望していた。子供時代の定番に、そしていつか親になった時にも自分の子供に食べさせたい。そんなお菓子を開発することを夢見ていたのだ。
 最初の挫折は、入社する直前の二月頃のこと。内定式を終え、入社する旨の誓約書を書いた後、通知された配属先は営業部であった。元来人見知りの私が、もっとも恐れていた事態だった。
 確かに総合職として入社試験は受けたし、面接では、
「どの部署に配属されるか分かりませんがよろしいですか?」
 と聞かれた。ここで肯定しない就活生がいるだろうか。それも、すでに何通もお祈りメールをもらい切羽詰まった就活生が。
 しかし、その時はまだ前向きに捉えられた方だ。毎年、部署移動願いを出すこともできるというし、営業で蓄えた知識をいつか研究職でも活かせたらいい、と。そう、思いながら営業として働いていたのだが……
「今川さんさぁ、やる気あるの?」
「……」
 無い、と言ったらどうなるのだろう。実行しなくても何となく予想はできる。きっと、この無限ループのお説教に油を注ぐだけだ。
「嘘も方便って言うだろ? 正しいことだけ並べたところで相手も人間だからさ、結局受注取れなきゃ意味ないわけ。分かる?」
「はい……」
 何がはい、なのか自分でももうよく分からない。入社して三年、「はい」が私の鳴き声になってしまったのかもしれない。記録に残らない残業時間と、休日も鳴りやまない携帯電話、そして上司からの要領を得ないお説教。
俯きながら視線だけを上げた時、ふと課長の後ろの窓に映る自分の姿が視界に入った。
 髪には艶がなく、肌もカサついて化粧乗りが悪い。目元のクマも、もうコンシーラーじゃ隠せなくなってきた。最後にぐっすり眠ったのは、いつだっただろう。
「君は女なんだから、もっと愛嬌良くするだけでも違うんじゃない?」
「……はい」
 いつもよりも説教が長かったその日の帰り道、排水溝の金網にパンプスのヒールを引っ掻け、それはもう無様に転んだ。パキンと綺麗に折れたヒールと、ストッキングの下で滲む血を見た瞬間、なぜか涙が溢れてきた。
 この会社で働きたい。営業部から移動の気配はないけれど、ここにいればいつかチャンスも巡ってくるかもしれないし、何より給料だって悪くない。大学時代の友人と会えば仕事の愚痴大会になるけれど、そうして友達と飲んだりランチができたりするのも、働いているからだ。
 そう言い聞かせていたけれど……もう、私は限界だった。
「結貴」
 はっと自分の名前を呼ぶおじいちゃんの声に顔を上げた。
「ごめん、ちょっと考え込んじゃった……」
 笑みを取り繕おうとしても、どこか不格好になっているような気がした。そんな私にわずかに目を細め慈愛の眼差しを向けるおじいちゃんは、穏やかにたい焼き屋への勧誘を再開する。
「バイト代は出すし、たい焼きも余った分は食べていい。ついでに、店の上にある家も儂が入院してる間は好きに使ってくれていいぞ?」
「え、本当?」
 こちょうのたい焼きは好きだ。それに何より、今住んでいる場所とは別に一時的とは言え住処を得られるという条件は、この上なく魅力的だった。
「どうじゃ? 今日だけでも少し考えてくれんか?」
「……」
 最後はおねだりするかのように、手の平を合わせながら頭を小さく下げる。ちょっとひょうきんで、強引で、でも時折こういう物腰の柔らかさを見せてくるが世の女性たちに受ける理由の一つなのかもしれない。
 目の前で銀色の鍵をちらつかされる。回転しながら光を反射する鍵を、ひったくるように掴んだ。
「ひとまず、着替えとか必要でしょ。そのために、預かるだけだから」
「うんうん、よろしくの」


 おじいちゃんを見舞った帰り道、気付けば私はたい焼き屋『こちょう』を前にしていた。
 私立橘樹大学というマンモス校と、その附属高等学校により学生たちで賑わうたちばな商店街の中に、こちょうはある。車一台分ほどのレンガ道を挟んだ向かいにはスーパーがあり、店の前を老若男女さまざまな人々が行き交っていた。
 木造古屋の一階に入っているお店には道に面した窓があり、その窓の上に掛かる小紫色の布には『たい焼き こちょう』と白く文字が抜かれていた。暖簾をはためかせる風が焼いた小麦粉とあんこの香ばしさをレンガ道へと漂わせ、夕食前でお腹を空かせた人々は、誰もがチラリとその暖簾を振り返った。店内で流しているラジオなのか、最近話題のアイドルの曲がこの時間の喧騒をさらに華やがせている。
 こちょうを訪れるのは、就職が決まったと祖父に報告しに来た時以来だろうか。とりあえず、と就職祝いに出来立てのたい焼きをおじいちゃんはご馳走してくれた。その時のあんこの甘さを思い出すと、嬉しさと共に今の自分の姿が不甲斐なくて胃が重い。
「おい」
「え?」
 頭の上から声が降ってくる。ドスの効いた声に、説教を垂れる上司の顔が一瞬脳裏を過って背筋が凍った。恐る恐る顔を上げると、頭一つ分ほど高い位置からサングラスの青年が見下ろしている。
 しかし、彼の首からはまるで幼稚園児が作った工作のような『奉納』と書かれた小さな段ボール箱がぶら下がっていて、一見チャラそうな外見からは随分と浮いていた。そんな見覚えのある恰好にあっと声が漏れる。
「たい焼き買わねーのに店の前でボーッと突っ立ってんじゃねぇ。営業妨害だ」
「和泉さん、私です……結貴です」
「あ? あぁ、尭の孫!」
 尭、とまるで友人のようにおじいちゃんの名前を呼ぶ和泉さんの白い頬に、さらりと艶やかな黒髪が垂れる。なぜか年中かけている薄い水色のサングラスのせいで瞳の表情は分かりづらい。しかし、サングラスの奥からこちらを見つめているのは肌で感じられた。
「なんだ孫かぁ、久しぶりだな。悪ぃが尭なら朝から姿が見えなくてさ。今日はデートなんて言ってなかったんだが、ま、そのうち帰ってくるだろ」
 最初の威圧感が嘘のように、あっけらかんと彼は笑う。笑った表情は、以前顔を合わせた時にも見覚えのあるそれだった。むしろ、数年経っても全く変わらない彼の若々しさに違和感すら覚える。童顔というわけでもない精悍な顔つきなのに、こうも年を感じさせないものだろうか。
「せっかくだし、待ってる間にたい焼きでも食うか?」
 慣れた手つきで和泉さんが鉄のたい焼き器に油を引き始めたところで、待ったをかけた。
「もしかして、聞いてませんか?」
「何が?」
「おじいちゃん、入院したんです。階段で転んで……あ、でも脚以外は元気なので」
 おじいちゃんから言わせれば転んでない、と反論されそうだが、今はとにかく入院したという事実が伝わればいい。口の中で小さく入院、と言葉を繰り返した和泉さんはピタリと固まって動かなくなった。
 店長であるおじいちゃんが急に入院となったら、雇われている側としてはやはり不安だろう。だからと言って、代理店長を引き受けるとも決めていないし、何より引き受けたところで店のことを何も知らない私がいても、彼にはお荷物なだけだ。
 なんと言葉をかけたものかと悩む私の耳に、突然、くくっと喉を揺らすような笑い声が聞こえてくる。
「ってことは実質、しばらくは俺がこの店の店長ってことでいいんだよな?」
「え、あ、いや……?」
 店長代理の話はした方がいいのだろうか。
 そんなことを悩んでいるうちに、彼は力強く拳を握った。
「いよっし!」
 驚く私をよそに、彼は受取口に出していたポスターを掴むとマジックで何か書き込んでいく。次に店頭に出されたポスターには『たい焼きひとつ一二〇円』だったものが『たい焼きひとつ四九〇円』と書き換えられていた。
「なんで急に値上げなんですか!?」
「材料費、人件費、維持費もろもろ合わせたら、これくらいもらわないと割に合わねーんだよ。『たい焼きは安いから旨いんじゃ!』って尭は言ってたが、本人がいねーなら話は早ぇ」
 もしや、おじいちゃんが不安がっていたのはこうなることを見越していたのだろうか。
 確かにおじいちゃんが大切にしているお店だから、気がかりで今日は立ち寄った。だからと言って、私に何ができるだろう。店長代理をやるという気力も、度胸も、実力もないというのに。
 それでも、このままここを離れることもできなかった。
「そんなに高くて、本当に売れるんですか?」
「売れる! 間違いなくな!」
 四九〇円もするたい焼きなんて聞いたことがない。それなのに、彼に満ち溢れる自信は何なのだろう。営業部でもし、今の彼みたいに私が自信たっぷりに営業ができていれば……とそこまで考えて頭を振った。今は自分の思考に浸っている場合ではない。
「おじいちゃんがお店のこと心配してたので、様子を見ていてもいいですか?」
「いいけど。どうせ店にいるなら、ちょっとそこの洗い物やっといてくれよ」
「はぁ……」
 まぁ、洗い物くらいなら家事でやるし、特に難しいこともないだろう。おじいちゃんが普段使っている、暖簾と同じ書体で『こちょう』とロゴの入ったエプロンを拝借して、私は店の中の洗い場に立った。たい焼きの生地を混ぜた後のボウルやミキサーを洗っていく。その間、これと言って客がやってくることはなかった。
 しかし和泉さんはそんなこと気にも留めず、時計の針が五時を過ぎると、思い出したかのように型に生地を流し込み始めた。型は一度に六つのたい焼きが焼けるらしい。生地が型に伸びたのを確認すると、艶々とした粒の残るあんこを四角い大きなへらのようなもので掬い取り、流し込んだ生地の上に乗せた。
 皮の焼ける香りが漂い始めた頃、反対側の型にも生地を注ぎ、和泉さんは型の持ち手を掴んで、ひょいとあんこが乗った方の板を返して型同士をくっつける。彼が板を操る鮮やかな流れに、つい洗い物の手を止めて眺めてしまった。
「食べてーか?」
 ニヤッと笑みを浮かべる和泉さんは、これみよがしに返した方の型を開いた。現れたたい焼きたちは片面が見事な小麦色に色づき、甘い香りが漂ってくる。でこぼことした鱗一枚一枚が、歯当たりの軽やかさを主張してくるようで、口の中にじゅわりと唾液が溢れた。
「そこの洗い物、全部終わったらひとつやるよ。働かざる者、食うべからずだ。もしくは四九〇円払うかだな」
「これだけ売れなくても値段はそのままなんですね」
「当たり前だろ。このたい焼きにはそれくらいの価値がある!」
「ちゃんと売ってからじゃないと、説得力もないですよ……」
 確かに美味しそうに焼けているが、普段おじいちゃんが売っているたい焼きとそれほど違いは分からない。それなのに、彼の売れるという確信は揺るがないらしい。
 その時、受取口から銀髪を頭の後ろでくるりとまとめたおばあさんがひょっこりと顔を覗かせた。
「お、カナエちゃん! いらっしゃい!」
 和泉さんの声に、おばあさんはにっこりと笑い皺を増やした。どうやら、カナエちゃんというのがおばあさんの名前らしい。
「和泉ちゃん、何だかたい焼きが高くなってなぁい?」
「まぁ、いろいろあってさ。でも味は保証するから! ひとつ食べてみてよ」
「そうねぇ……」
 そわそわと二人のやり取りに耳を傾ける。
 本当に四九〇円もするたい焼きを買う人がいるのだろうか。カナエさんは会話から察するに常連さんのようだけれども、値段が倍以上になったたい焼きに追い逸れと手を出すとは思えない。下手をすれば、これは常連を失うかもしれない賭けではないのだろうか。
 病院で表情を曇らせていたおじいちゃんの顔を思い出し、ドクドクと心臓は嫌な音を立てる。
「じゃあ、美味しくなかったらタダでいいよ」
「えっ!?」

続きは来月刊行予定の『Sugomori2021年2月号』でお楽しみください!

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