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『日本文学盛衰史』(青年団)観劇ルポ

坪内逍遥からAIライティングまで

もう5年も経っていた。タイトルでこれは面白そうだと観に行った、『日本文学盛衰史』は、吉祥寺シアター初演から5年経っていたのだった。HPの紹介文には「日本文学の黎明期を辿る」とあるし、初演では確かにそうだった記憶があるが、再演時の今回は、この5年の間に大崩壊した出版文化まで取り上げ、最後はAIライティングによって誰もわざわざ書かなくなり読まなくなった近未来に足を掛けて、レイ・ブラッドベリの『華氏451』さえ想起させて終わる。
(そもそも初演時にヒットしていたベストセラー本の1位は、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』の漫画!!!だったのだ。)

高橋源一郎氏の小説『日本文学盛衰史』を下敷きに、日本近代文学の黎明期を、抱腹絶倒のコメディタッチでわかりやすく綴った青春群像劇。初演時に大きな反響を呼び、第22回鶴屋南北戯曲賞を受賞した作品の待望の再演となる。笑いの中に「文学とは何か」「近代とは何か」「文学は青春をかけるに値するものか」といった根本的な命題が浮かび上がる、どの年代でも楽しめるエンタテイメント作品。

[上演時間:約2時間20分レイ定)・途中休憩なし]

青年団公式HPより
  1. 吉祥寺公演:2023年1月13日(金)- 1月30日(月)

  2. 伊丹公演:2023年2月2日(木)- 2月6日(月)


森鴎外は「擬古文」。江戸時代じゃないっ

森鴎外の代表作にして、ドイツロマン主義の金字塔『舞姫』は、「石炭をばはや積み果てつ」という印象的な1文で始まる。「つ」は完了の助動詞「つ」の終止形だなどとわざわざ言わなくとも、「石炭は早くも積み終えてしまった」という意味だと何となくわかるのは、「どっちに行っていいかわからなくて行きつ戻りつしちまったよー」など、日常の中で自然に古語を入れて話すDNAが残っているからだと思う。ただしそれも20代後半以上から。今の高校生から大学生には、なんと現代語訳が要るのだ。
舞姫は明治時代に入ってからの小説であるから、鴎外は本当の古文ではなく擬古文(ぎこぶん/なんちゃって古文)で書いている。だから、教科書も、原文を載せているだけで現代語訳などはつけていない。しかし生徒には、「つ」や「なり」で終わる小説がなぜ「擬古文」なのかわからない。ばりばり古文に見えるらしい。

受付で原作や近代文学資料も販売していた

心象風景は海外輸入品

このあたりを青年団の『日本文学盛衰史』は実に巧みに説明していた。私が行った13日マチネは、高校生が多く見に来ていたのだが、こんなエンタメ劇で見せてもらえるなら、講師としてこんなありがたいことはないのである。
ちなみになぜ『石炭をば早積み果てつ』が純粋古文でないかというと、船で積み終えてしまったのは石炭だけでなく、ベルリンに捨ててきた美しい舞姫のことをも表す、ダブルミーニングになっているからである。出会うときの雪景色、路地裏にひるがえる洗濯物、つららと氷の王宮などなどすべては主人公のエリート青年「太田豊太郎」の心象風景やキャラクターと重なっており、たとえ事実に基づいた話といえども「雪が降っていたから雪を降らせた」という単純な話ではない。もちろん、消えてしまう恋だから雪さんさんなのである。
これは、18世紀後半にはもう欧州文学が開発していた「悲しかった、とか言葉で説明せず風景で心情を表現する」手法を日本に移し替えたもので、日本では明治時代初期にあたる時代にフランスで大ヒットしていた『レ・ミゼラブル』などで多用されている。フランス語もドイツ語もぺらぺらだった鴎外は、もちろん最先端の文学に取材して、切ったはった恨んだ泣いたの江戸時代ナニワ節に斧をふるったのだ。

彼は驚きてわが黄なる面を打守りしが、我が真率なる心や色に形あらはれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷むごくはあらじ。又また我母の如く。」暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬を流れ落つ。

『舞姫』より。擬古文だから鍵かっこを平気で使っております

文学史とは世代交代のこと

本作の特徴は、全4場、休憩なしの2時間20分と長丁場ながら、それぞれ葬儀シーンで日本文学を担う人々の世代交代を表現しているところだろう。1場で葬儀の参列者だった作家が、2場では故人になっていたり、病に伏していたりする。1場から4場まで通しで登場しているのは、森鴎外(山内健司氏)や田山花袋(島田曜蔵氏)であり、およそ明治黎明期から大正までの近代文学全シーンを彼らが見ていたという設定だ。ただ、重鎮の森鴎外に比べ、『蒲団』の女々しいシーンだけが評判になってしまった田山花袋は、場面転換のたび蒲団にからむという、切ないアイコンの役割を果たしている。
「順番」という言葉があるが、第一場(1894年)では若々しかった漱石が、第四場(1916年)では、もう葬式の主役になっていまう。そして、一場では、「江戸時代なにわ節の旧作家たちをいかに駆逐し、日本に新しい文学を根付かせるか」を若々しく語っていた彼らが、四場ではもう、太宰や芥川に追われる立場になってしまうのだ。

駅から徒歩5分。欄干のような入口が特徴

漱石と賢治がひとり二役

第四場、夏目漱石(兵藤公美氏)の葬儀に、「岩手から上京した」少年、宮沢賢治(兵藤公美氏/ひとり二役)が登場するのは、世代交代の最もわかりやすい象徴に見えた。心象風景どころか、文字で音楽を表現してしまうのだから。そうして、ふと思えば漱石も鴎外も東京の人。実は近代文学は「東京の趣味人」「エリートの教養」に過ぎなかったのか。岩手の方言を実にハイカラに文字に置き換える賢治少年に、もはや旧世代となってしまった漱石や鴎外は消えるしかない。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

宮沢賢治「風の又三郎」より
併設のカフェ「なおきち」。カレーや豆花が美味しい

原作は2000年の刊行であり、本や雑誌の売上がピークアウトしたくらいの時。もちろん、その後のアマゾン上陸や雑誌の廃刊などは原作者も当時の読者も知らない。ここが演劇の面白いところで、おそらく作者の了解さえ得られれば、常に最旬ネタを加えて再演できるのだ。今回は、スマホの台頭と入れ替わりとなった書店の殲滅で、「文字はただで読むもの、書くもの」が定着した現代を「小説家になろう」サイトhttps://syosetu.com/ に事寄せて語っていたのが面白かった。
その後、文字は、小説は、本はどうなるのか。不毛の大地に再び芽吹くときがくるのか。それは観てのお楽しみということで……2月から関西公演もあるようです!

座布団の和室で精進落としを飲み食いしながら作家たちが思い出話する仕立て

原作:『日本文学盛衰史』(講談社文庫刊)

原作『日本文学盛衰史』
高橋源一郎の長編小説。『群像』に1997年〜2000年にかけて連載。
日本近現代文学の文豪たちの作品や彼らの私生活に素材を取りつつ、ラップ、アダルトビデオ、伝言ダイヤル、BBSの書き込みと「祭」、たまごっち、果ては作者自らの胃カメラ写真までが登場する超絶長編小説。第13回伊藤整文学賞受賞作。

青年団HPより
もしも豊太郎がエリスと結婚していたら……ベルリンの教会にて







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