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『ソフィーの世界』を再読|なぜこの本と哲学が好きなんだろう?

「昔読んだ本を読み返す」チャレンジの1つ。

10代の頃に読んだものを再読してみると、意外に発見があって面白いのだ。

今回はヨ―スタイン・ゴルデルさんの『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』

これ、めちゃ良いと当時は思ってたけど、内容がすっぽり抜けてて……
途中まで読んでやっと思い出した!

じっくりと2回3回、読んでみた。

『ソフィーの世界』の何が良いのか、哲学のどこが好きなのか、ちょっと書いてみる。

(引用が多めになってしまったけど、良いこと言いすぎなので仕方ない……!)

冒頭から引き込まれてしまう

最初に不思議な手紙をもらった時にソフィーが考えたことが、これ。

 人は、いつかはかならず死ぬということを思い知らなければ、生きているという事を実感することもできない、とソフィーは考えた。そして、生のすばらしさを知らなければ、死なないとならないということをじっくりと考えることもできない、と。
 ソフィーは、祖母が自分の病気を告げられた日に、似たようなことを言っていたのを思い出した。
「人生はなんて豊かなんでしょう、今ようやくわかった」
 たいていの人が、生きることのすばらしさに気づくのが病気になってからだなんて、悲しい。みんなが謎の手紙を郵便箱に見つければいいのに。

そう、ホントそうなの!!! この部分で既に心を掴まれてしまう。

私は死への恐怖を毎日思い出しがちなのだが、それと同時に思いを馳せるのはこの世界の美しさや素晴らしさ

「毎日死を想うなんておかしい」
と周囲の人には思われているだろうけど、その分「生きていることのありがたみ」も感じている……と言えるかもしれない。

木々が風にそよぐさまも、空に浮かんだ雲がどんどん流れていく様子も、ずーっと見ていたくなるくらいに美しい。

情緒不安定すぎるけど、自然を見ているだけで泣けることもある。


哲学=誰にでも関係あること

ソフィーに2日目に届いた手紙の一節も、すごく印象的。

全ての人に関心のあることなんてあるだろうか? だれにでも、世界のどこに住んでいる人にでも、あらゆる人間に関係あることなんて、あるのだろうか? あるんですよ、親愛なるソフィー。
(中略)
もちろん、人はみな、食べなければならない。愛と気配りも必要です。けれども、すべての人々にとって切実なものはまだある。わたしたちはだれなのか、なぜ生きているのか、それを知りたいという切実な欲求を、わたしたちはもっているのです。

その通り!

本来「哲学」って小難しいものではなく、この世の人々全員に関係するはずのものだ。

ただ、さらに重要なのが以下の話。

人はだれでも哲学の問いに向きあいはするけれど、だからといってすべての人が哲学者になるのではありません。ほとんどの人びとは、さまざまな理由から日常にとらわれて、生きることへの驚きを深いところに押しこんでしまう。(人びとは兎の毛の奥深くにもぐりこみ、そこの居心地がよくなって、人生の残りを毛皮のなかで過ごすのです。)
 子どもにとって世界は、そして世界にあるすべてのものは驚きを呼びさます「新しいもの」です。おとなはそんな見方はしない。たいていのおとなは、世界を当たり前のこととして受けいれている。
 だからこそ、哲学者たちはたいへん珍しい例外なのです。哲学者には、世界にすっかりなれっこになるなど、どうしてもできない。

世界は不思議すぎるし、謎に満ちている

1日1回以上は驚いている気がするし、私の言う「面白い!」は多分ほとんどが「びっくり!」の意味だ。


この部分を読んで「私は哲学者でありたい」と強く願った。

世界の事象を当たり前のものとして受け止めたくない。

周囲の居心地の良さに惑わされず、本質を探し続けたい。誰かと馴れ合って主張を変えたくないし、目先の利益のために考えを曲げたくもない。

「将来の夢は哲学者だなー」
と呟いてたら子どもに
「いや、もうママは大人じゃん……」
って言われてしまったけど、全然いいのである。

何歳だって夢を持っていいと思う。
80歳でも100歳でも、たとえ明日死ぬとしても。


気になる哲学者・思想

本書で紹介されているものの中で、特に注目した哲学者・思想について。

私は哲学が好きだけど
「この時代に誰々がこういった」
とかは全然覚えられていないので、復習にもなった。

プラトン、アリストテレス

私が中学生の頃からプラトンが好きなのは、完全にこの漫画の影響。

『百億の昼と千億の夜』は好きな漫画ベスト5に入る傑作で、多分20回くらいは読み返したと思う。

元となった光瀬龍さんの本はまだ読めていないのだけど、いつかチャレンジしてみたい。

高校の世界史の先生がプラトンの『饗宴』をプリントで配ってくれたことも印象的だ。

昔人間は「男男」「男女」「女女」の3種類がいて、2つに引き裂かれてしまった……というお話。

先生は「"男女"だけじゃないのがいいですよね」と言っていて、その言葉に私も影響されてきた。LGBTQという言葉が生まれる前から、同性愛にも全然違和感を覚えない。
(「そもそも恋・愛とは何だろう?」みたいなことは考えてしまうけど)

プラトンの思想自体はさほど好きではないけれど、私は「イデア」的な理想をつい持ってしまうので、共感はする。

そして
「女性が教育を受けず、教養をはぐくまない国は、右腕だけをトレーニングする人のようなものだ」
という言葉には、女の一員として嬉しくなる。

そして彼の弟子・アリストテレス

彼については哲学者というより、知識体系を整えた人として尊敬する。

アリストテレスはギリシア最後の偉大な哲学者であるだけではなくて、ヨーロッパの最初の偉大な生物学者でもあったんだ。
(中略)
アリストテレスは、さまざまな分野で今でも使われている学術用語をつくったことで、ヨーロッパ文明に大きな意味をもっている。アリストテレスはさまざまな学問の基礎をつくり、学問をきちんとした組織にととのえた偉大な学者だった。

アリストテレスが「女性は劣っている」と考えていたせいで哲学や学問が男たちだけのものになってしまったのは非常に残念だが、学問の基礎を作ってくれたこと自体は素晴らしい。

また、彼の唱えた「中庸の徳」は、私にとっては現実を踏まえた真実のように思われる。

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誤解されているエピクロス

ヘレニズム時代の哲学流派を作った人物の1人・エピクロスについて。

「なぜ死を恐れるのか」
「わたしたちが存在するあいだ、死は存在しないし、死が存在するやいなやわたしたちはもう存在しないのだから」

という言葉は、本当にごもっとも。

「だから死を恐れる必要はない」
というのも少し分かるのだが、どうしてもその先のことを思い悩んでしまうなぁ……

エピクロス自身は快楽についてそこまで良しとしていないのにエピクロス学派のせいでエピクロス自身も誤解されているのも、
「こういうケースって世の中にあるよね」
って感じで感慨深い。


ヒュームとブッダの類似性

ヒュームによれば、ぼくたちは入れ代わり立ち代わり交代する知覚や気分の背後にも下にも、変わらない基本的な人格なんてもっていない。人格はスクリーンに映る動く映像のようなものだ。
ヒュームがやった人間の心の分析と普遍の自我の否定を、とっくの昔、二千五百年も前に地球の裏側でやった人がいるんだよ。
(中略)
ブッダだ。

この「ヒュームとブッダが似ている」という話、めっちゃ興味深い。

ブッダという人物を超尊敬しているが、私もブッダは宗教家というよりも哲学者だと思っているからだ。

宗教研究は私のライフワーク。

中高生の頃から地道に1人で学び続けている対象の1つだ。(特定の宗派や信仰は無い)

仏教ってキリスト教・イスラム教とはまた全然違うと思うんだよね……

まぁそれは原始仏教の話であって、日本に広がっている現在の仏教とはまた違うのだけど。


汎神論 vs 個人主義

ソフィーが赤い水と青い水を飲んで、両極端の思想を体感する話も面白かった!

赤い水は、汎神論同一哲学

スピノザ、ヘーゲル、ロマン主義者の世界精神で
「すべては、たった一つの大きな自我(わたし)」
「世界はわたしであり、あなたもわたしも一つである」

と受け止めるもの。

一人ひとりの人生よりも、歴史の大きな流れを重視する。

『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画に近い話だろうか?


対して、青い水は個人主義

キルケゴール、ライプニッツ、ブッダに代表される
「個人はそれぞれがとてもユニーク」
「私たちは、この一回こっきりの生を生きるたった一人の個人だ」
「生きる上で意味のある、個人の数だけの真理を探究することが大切」

という考え方。

これは現代に広くはびこっている思想で、最近ちょっと行き過ぎている気もする。

私たちは赤い水を少し飲んだほうがいいかもしれない。


他には、ソクラテスデカルトニーチェも好き。ニーチェの言う「超人」を目指したくなる時もある。

サルトルの実存主義もこの本を読んで良いなぁと思ったけれど、書ききれないため今回は省略。


歴史の流れを思想面から追う

高校時代に『世界史』の科目が大好きだったが、1つ大きな不満があった。

それは教わる時に「政治」と「文化」が別れてしまっていること。

本当は政治が文化にも影響しているし、文化や時代の空気がが政治を左右することも多いのに。特に宗教は政治と分けて語れないし……

音楽家・画家・学者などの文化の流れを政治年表に入れ込んで理解したいと長らく思っていたものの取り掛かれていなかったが、『ソフィーの世界』はその1つの解だと感じた。

哲学者からの手紙を受け取ったことでソフィーは色々考えるようになり、歴史を学ぶことの意義を悟る。

わたしはただ、たまたまこういう人間だ。でも、自分の歴史のルーツを知ったら、わたしはたまたま以上の何かになるのだ。わたしはほんのわずかのあいだ、この惑星に生きているだけだけど、人類の歴史がわたし自身の歴史だとしたら、わたしはある意味で何千歳ということになる。

論文執筆者や学術界でよく言われる「巨人の肩の上に乗る」と似た意味かもしれない。

個としての私はとてもちっぽけだが、ホモ・サピエンスという種や現代を覆う思想のルーツを知ることにより、ある意味「大いなるもの」「古くから生きているもの」の視点を持つこともできる……というか。

私が本を読むのは先人の知恵を知って取り入れるためでもある。

以前から
「難しいから大変だけど、もっともっと古典を読みたい」
と強く願って入門書・新書・説明漫画にチャレンジしてきたのは、そういうことか……(自分を再発見)

歴史の流れの中では、ヘレニズム・ルネサンス・自然主義についての記述で気づかされることが多かった。

まずヘレニズムとは、歴史の時代区分としては
「アレクサンドロスの死亡(紀元前323年)からプトレマイオス朝エジプトが滅亡(紀元前30年)するまでの約300年間」
を指すようだ。

さまざまな国や文化の仕切りがとっぱらわれたことが、ヘレニズムの特徴だ。
(中略)
 ヘレニズムの文化状況は、じつに現代と似ている。二十世紀にも、国際的な共同社会はどんどん広がっている。ぼくたちの時代にも、信仰と人生観は大きな転換に見舞われている。
(中略)
 ぼくたちの時代にも、新旧の宗教や哲学や科学のごたまぜが、「世界観の市場」に売り出される新商品の開発の基礎になっているんだよ。
 こうした「新しい知」のかなりのものは、実は古い思想の遺産なのだ。その根っこをたどっていくとヘレニズムに行きつく。

 という部分を読んで感心した。

ヘレニズム時代には以前からロマンを抱くことが多かったのだけど、このごちゃ混ぜ感・文化の交わりの様子を「素敵だなぁ」と思ったのかもしれない。


また、「ルネサンスの背景になった政治と文化」も超興味深い。

コンパスのおかげで大航海時代が開始され、火薬や鉄砲などの新兵器によってヨーロッパ人は地球の中で優位に立つことができた。

知識は古くから教会が独占してきたが、印刷物の発達によって地位を失った。

科学の歩みはルネサンスに始まって、ついには人類を月につれていくことになる。この道はヒロシマとチェルノブイリにもつうじているけれど。

うーむ、私たちが今日当たり前のように接している医療技術やテクノロジーの大元は、この時代に起因しているのか……

さらに
貨幣経済の発展によって市民階級が生活からある程度自由になり、勉強したり想像力や創造性をはばたかせたりすることができた」
と。

本当、世の中って個人の努力だけでどうにかなることだけではない。技術の発展にはこうした構造的な変化も必要なんだよなぁ。

また、この文章に衝撃を受けた。

ルネサンスの人文主義は古代よりも個人主義の色が濃い。ぼくたちはただの人間なのではない、たった一人しかいない個人なんだ。この考え方はほとんど際限のない天才崇拝へとつながっていく。ぼくたちは生活のあらゆる分野、つまり芸術にも科学にもかかわりをもつ人のことをルネサンス的人間と呼ぶけれど、そういう人が理想とされたんだ。

え。まさに私の理想そのものじゃん……!

上記noteに書いたように、私はずっと偉人になりたかった。

偉人と一口に言っても色々な人がいるけれど、いつも頭で思い浮かべるのは「レオナルド・ダ・ヴィンチ」だったかも。

彼こそ、芸術面でも科学面でも業績を上げたルネサンス的人間ではないか……!

最近は「できる人への憧れは持たなくていい」とか言うようになったけれど、心の奥底ではダ・ヴィンチへの憧れを捨てられていなかった。

現代でもスティーブ・ジョブスや藤井聡太や大谷翔平などの天才的人物を讃えようとする傾向があるし、ある意味ルネサンスと似ているのではないだろうか?

いずれにせよ、
「ルネサンスに科学に新しい方法(自然を自分の感覚を使って研究する)が確立し、そのあとにトータルな技術の進歩が始まった」
という。

今では当たり前のことだが、当たり前じゃないことを始めるのは本当に難しいものだ。

とは言え、科学の発展は良い面だけではない。

いいことと悪いことは二本の糸のように人類のすべての歴史をつらぬいている。二本の糸はからみあっている。
(中略)
ルネサンスに始まった技術の進歩は紡績機械と失業につながった。医薬品と新しい病気を生み出した。農業の生産性を高めたけれど、自然をいためつけてしまった。洗濯機や冷蔵庫のようなじっさいに役に立つ新しい道具をつくったけれど、環境汚染とゴミの山もつくった。
(中略)
はっきりしているのは、中世に逆戻りはできないということだ。

本当にその通りで。
物事や事象のある一面だけを見て、良し悪しを判断することはできない。

歴史の不可逆性についても同感。

「電力を減らそう」
「エネルギーを使わないように」
とか言っても、マインクラフトの世界のように松明(たいまつ)やツルハシだけを使って生きていくわけにいかないんだよね。

最近の日本の夏は酷暑がひどすぎて、クーラーがないと物理的に死にかねないし。

地球環境問題には生涯をかけて取り組みたいと思いつつ、何をどうしていけばいいのか自分にはイマイチ見えてこない……これからも考え続けるけど。

そして、自然主義の大賢人3人の話。ダーウィンとフロイトとマルクスだ。

ダーウィンには昔から憧れている。仮説を立ててコツコツ積み上げたり航海に出て調査を重ねたりしてきた生き様もかっこいい。

私にはおそらく、自然科学への憧れがあるのだと思う。エビデンスや科学への信頼はそこから来ているのかも……

マルクスも、巷で言われているほど悪くないと思っている。

上記note感想文でも少しだけ触れたけれど、マルクスの思想はまだまだ堀り甲斐があるのでは?

なーんて、私自身も『資本論』をきちんと読めてないけれど……

フロイトも『深層心理学』『精神分析』の分野を作った人だし、ざっくりとしか知らないからまだまだ学びたい。


エセ科学の批判

本書では、オカルト・超感覚的知覚・超心理学・心霊現象・占星術などへの批判もなされている。

「目の前には明るい陽の光に照らされたすばらしい創造の世界が広がっているんだよ」
(中略)
「なのに、どうして占い師におうかがいを立てたり、似非科学に首をつっこんだりして、『ドキドキすること』や『日常の外に踏み出すようなこと』を体験する必要があるんだろう?」

ここは、全部を太字にしたいくらい共感だ。

トランス状態になっている人も単に自分の無意識を表現しているだけで、からくりがある。

中でも科学の皮をかぶっている「エセ科学」的なものは、本当に有害だ。

私はこの世界の素晴らしさ・不思議さに毎日驚いているから、わざわざオカルトや霊的なものを求めない。日常も楽しいし、それらに頼る必要はまったくない。

とは言え、本にも言及があるように
「超常現象を絶対に信じないわけでも盲信するわけでもなく、探すことをやめてはいけない」
という姿勢が重要なんだろうな。


本書に書かれた主張の素敵さ

この本では、人類が知ろうとして進歩し続ける歴史的歩みを必ずしも前向きにとらえているわけでもない。

人間は着々と自然の法則を解きあかしている。けれども、哲学と科学というジグソーパズルの最後の一ピースがぴたりとおさまっても、歴史はあいかわらずつづいていくのだろうか? それとも人間の歴史はどんづまりをむかえるのだろうか? いっぽうの思考と科学の進歩、そしてもういっぽうの、人類の滅びにつながるかもしれない大気の温室効果や熱帯雨林の伐採、そのあいだには関係がないのだろうか? 人間の知りたいという欲望が「堕罪」と言われるのは、そんなにナンセンスではないのでは?

これは主人公の思考として書かれた文章だがが、私も似たように考えた経験がある。

「知りたい」という欲に突き動かされて毎日動いているけれど、それは果たして善なのだろうか?

人類全部がその欲を満たそうとしていったら倫理的に正しくないところに辿りついてしまうかもしれない。そういう危うさはあると思う。

とは言え、全部を明らかにする前にホモ・サピエンスという種は滅ぶ気もしている。宇宙から未知の生命体がやってきたりしたらまた別の話だけど、何となく結末をそう予測してしまう。



本書の中のとても素敵な主張を、2つ紹介する。

ぼくたちは宇宙で燃えている太陽をめぐって航行する舟なのだ。けれどもぼくたち一人ひとりも、遺伝子を載せて生命の海を行く舟なのだ。この積み荷をつぎの港に運んだら、ぼくたちの生は無意味ではなかったことになる。

以前見た、Eテレの番組『モーガン・フリーマン 時空を超えて』の「私たちが存在する理由は何か?」にも似たような話があった。

生命の本質は情報処理で、私たちは常に進化するアルゴリズム(問題解決の手順)。進化とは「環境の情報をより多く獲得できるようになること」で、その過程で環境も複雑になり、生物進化が世界そのものを進化させる。生物の目的は世界がどのように機能しているかを突き止めること。「宇宙は生物を通じて自分自身を理解しようとしている」?

番組を見た時に書いたメモより

私たちの人類の生きる意義は、個々の夢とは別に何かあるのかもしれない。


2つ目がこれ。

「夜光虫もほかのすべての有機体も、かつてはひとかたまりの星だった元素でできているんだ」
(中略)
「わたしたちも星屑なんだ」
(中略)
「わたしたちは空を見あげるたびに、始原への帰り道を探していることになるんだよ」

これ、めちゃくちゃ素敵すぎるなぁ……

確かにそう考えることも可能だし、ロマンチックすぎる。

星を見ている時にまた思い出したい言葉だ。


謎解き部分について(ネタバレあり)

※ ここからは本書のネタバレを含むので注意

ソフィーに手紙を送っていた哲学者(アルベルト・クノックス)は、物語の中盤でこう説明する。

「バークリは、物質のリアリティを疑っただけではない。時間と空間は絶対的な存在か、つまり精神から独立した存在をもつか、ということも疑った。つまりぼくたちの時間体験や空間体験も、神の心のなかにしかないかもしれないんだ。ぼくたちにとっての一、二週間が、神にとっての一、二週間である必要はない」
(中略)
「『すべてのなかにはたらいてすべてを行なう』この『意志あるいは精神』は、ぼくたちにとってはヒルデの父親かもしれない」

ヒルデ・ムーレル=クナーグは、ノルウェーの町・リレサンに住む女の子だ。

ヒルデの父(アルベルト・クナーグ)はヒルデの15歳の誕生日のお祝いに、タイプライターで打った長い物語を贈る。

それがこの、ソフィーが出てくる『ソフィーの世界』だ……というわけ。


ソフィーは自分のことを実在する人間だとばかり思っていたのに、ヒルデの父親によって作られたお話の中の登場人物に過ぎないと知る。

この仕組み(入れ子の構造)、本当にうまくできていると思う。

物語の中でヒルデは実在の人物だと書かれているが、実は私たちが手に取っている『ソフィーの世界』(ヨ―スタイン・ゴルデル作)の登場人物に過ぎないのだから。

ということは、もしかしたら私(sugamari)やこのnoteを読んでいるあなたも、誰かに作られたお話の中に生きているだけだったりして?

「私の人生は誰かの書いた物語じゃない!」
って、どうして言えるのだろうか?

……いや、誰も断言はできないはず。

なんだか「胡蝶の夢」みたいな話だ。

※ 胡蝶の夢
荘子が夢の中で胡蝶になり、自分が胡蝶か、胡蝶が自分か区別がつかなくなったという話に由来し、現実と夢とが区別できないことのたとえ


『はてしない物語』にも似たような部分があったけど、結局最後はどうなったっけ……? 肝心なところをいつも忘れてしまう。

でも、本の中の登場人物がその外にいる人間と交流したり本物の「生」を羨ましがったりするお話は、他に無い気がする。

上記の構造がめちゃくちゃ面白いし、哲学的な考え方も勧めたい。

だからぜひ周囲にオススメしたい本なのだが、
「ここについて話したら超ネタバレになるから言えない」
のが残念。

解決する方法があったら教えてほしい……!

以上、『ソフィーの世界』の感想文。

本当はもっと紹介したい部分もあるけれど、長いし引用ばかりになっちゃうしで、やめた。

この本や哲学好きな人がいたら、ぜひ語り合いたいな。


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