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30年間の思い込みを言語化してみたら|日常と非日常についての考察

きっかけは、1本のホームビデオ。

幼い日に訪れた東京ディズニーランドでの出来事が収められていた。

父はカメラ・ビデオで家族旅行や記念日を撮るのが好きで、多い時には100本くらいの記録テープがあって。

物を減らすために最近は結構手放していたと思うが、これは渾身の1本だったらしく、まだ残っていた。


普段は昔の記憶(10歳前後まで)なんて基本忘れているのだけど……

ビデオを見たら、色々な思い出が蘇ってきた。

シンデレラ城前の「アラジン」ショー

1994年に東京ディズニーランドで開催された「アラジンの大冒険」のイベント

シンデレラ城の前で、Disneyのアニメ映画『アラジン』を題材にした華麗なショーが行われた。


幼い自分はこのショーから多くのことを感じ取ったのだろう。

演劇の素敵さ、芸術の美しさ、音響技術が人に与える影響、アラビア的な異国への憧れ、自由のすばらしさ、……

小学校の頃に演劇クラブに入ったのも、大学でミュージカルサークルに入ったのも、原点はこの時の鑑賞が原因かもしれない。

音楽や美術や舞台鑑賞は今も大好きで趣味の1つだが、その大元の原因となっている可能性もある。

それくらい印象的だった。


映画『アラジン』を見て少し違和感を持ったり、想起する音楽の順番が違ったりするのも、このショーがベースにあるから。

……やっと思い出し、頭の中の細々としたピースがカチッとハマる音がした。


あゝ素晴らしきかな、非日常

旅行、遊園地、観劇、遠出、……

この体験だけではないけれど、私はとにかく「非日常」が好きだった。

その理由は日常の暗さにある。

私の子ども時代の毎日はグレースケールみたいな感じだった。

小学1年生から中学3年生まで、近眼を理由にテレビ禁止
(もちろんゲームも買ってもらえない)

平日は、毎日の予習復習が必須。
(『進研ゼミ』的な通信教材を9年間ずっと利用)

習い事も、スイミング・ピアノ・そろばん・習字・塾……
平均すると週に5・6回ほどは通っていた。

中学1年生から高校3年生の6年間は、NHKラジオ英語の講座を欠かさず聴いていた。(母が毎日録音)

当然、友達と遊ぶ時間や自由時間は減る。駄菓子屋さんに行ったり学校の校庭で遊んだりする経験は、周囲より圧倒的に少なかっただろう。

習い事(そろばん)をサボったことが1回だけあるけれど、なぜか見つかってこっぴどく叱られた。未だにバレた理由が分からない。

母に叩かれる回数はさほど多くなかったけれど(昔の一般的な感じだと思う)、テストで95点を取ってもミスを指摘され、褒められることはほとんど無かった。


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常に灰色と黒の間を行き来するような、息が詰まる感じ。

ただ当時はそれが当たり前だったし比較対象もなかったから、特になんとも思わなかった。

けれど、長期休みには決まって、旅行大好きの父に連れられて家族みんなで旅行に出かけた。それが幼心にすごく楽しかったのを覚えている。

いつもガミガミ怖い母も旅行中は笑顔だったし、私も勉強や習い事から一時的に離れて違う世界を味わうことができたから。


「理想の日常」とは何ぞ?

それが数年前、三木智有さんに「理想の日常を考えてみよう」と言われて……驚いた。

お片付けBootCamp!内のワークだったのだが、私は正直
「は? 日常が最高になり得る? 何言ってんの?」
と思った。(三木さん、ごめんなさい……)

なぜなら、
「日常はつまらないもので、非日常こそ最高」
という固定観念
に囚われていたからだ。

この時、自分のマインドセットにやっと気づけた気もする。


そしてワークも無事完成。

でも、この理想は既に私の生活に近いもので。

「今の生活に満足できていることの現れなのかもしれない」
とも思えて、感慨深かった。


世間は「体験格差」と言うけれど

「『学校外の体験機会を得られるかどうか』について、子ども・家庭によって格差が生じている」
という意見を最近よく見かける。

そのせいか
「私が忙しいせいで子どもとお出かけできない」
「特別な体験が不足しているのかも」

と悩んだり焦ったりする親御さんの話を、身近でも聞く。

なるほど、確かにそうかもしれない。

朝起きて学校へ行き、放課後に友達と遊んだり宿題したりの日常だけを味わっている子と、時々親と博物館に行ったり旅をしたりイベントに参加したりする子とでは、見える世界が大きく違ってくるのかも。


でも、大事なのはそれだけじゃない

  • 毎日の生活の中で、親の言いなりではなく自己決定しているか

  • 負の感情ばかりでなく快い気持ちを感じることができるか

  • ゆっくり休養できているか

も、非日常体験以上に大切なのではないだろうか?


「どこかに連れて行ってもらった記憶」だけが特別なのではない。

普段の生活でどれだけ親に尊重してもらっているか、気持ちをないがしろにされていないか、高い能力やテストの点数ではなく自分そのものを愛してくれているか、……

そういう基本的なことこそ大事にしてほしいと、切に願う。


日常が楽しければストレス発散は不要

先日、友人と韓国旅行に行ってきた。

久々の海外旅行という意味でも新鮮だったが、何よりも驚いたのは帰途につく時の心持ち。

なんと「帰りたくない、日常に戻りたくない」と一切思わなかったのだ。


以前は、旅行から帰る時には必ず一定の憂鬱な気持ちがあった。

それがここ最近、どんどん消えてきている。むしろ
「早く帰ってバリバリ仕事したい」

と思うほど。


私は2019年頃から、高すぎる承認欲求を少しでも抑えようと、
「なるべく自分の好きなように生きよう」
としてきた。

好きな漫画を大人買いしたり、昔禁止されていたゲームを心ゆくまで遊んだり、やるべきことの前にやりたいことをやったり、……

そのせいか、ここ最近はずいぶん生きやすくなっているようだ。


昔は子育てに疲れると、空を見上げながら
「あぁ、ディズニーランドに行きたい……なんか楽しいことはないかな」
と思っていたものだが、その癖も無くなった。

日常に心から満足していれば、特別な非日常は無くても良いのである。

大好きな旅行もストレス発散の手段ではなく、単純に
「これやってみたい」
「その景色を見てみたい」
「一体どんな場所なんだろう?」

という興味関心の対象になってきている。

もちろん私の現在が完璧で最上のものではないけれど、昔とは大きく違う。

毎日辛すぎる人は、単に非日常を求めるのではなく、日常を見直してみてもよいのかもしれない。

子ども時代は大人よりも自由がないかもしれないが、くじけないでほしい。

気持ち次第で変わることも多い(かもしれない)し、できたら周囲にヘルプを出してほしいな。


人生って、実はほとんど日常でできている。
非日常なんてほんの少し。

だから、日常をこそ愛していきたい。


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