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境界性パーソナリティ障害のわたしは優等生でいる必要はない

スガカオルです。

わたしは境界性パーソナリティ障害を持っている。
ついでに言えば、解離性障害と複雑性PTSDと診断されている。

境界性パーソナリティ障害は白黒思考なため、両極端の思考に陥りやすい。
白黒思考ゆえに、正義を持っていたり優等生であろうとするのだ。
良い自分であろうとする部分がある。

また完璧主義なので「~すべきだ」などの言葉を使いやすい。
わたしはこの「~すべき」を使うのを気をつけている節がある。
気をつけないと使ってしまうからだ。

世の中そんなにmustなことは少ないはずである。

今日は、優等生がやめられない境界性パーソナリティ障害のわたしが優等生でいようとするために起こる苦しみ、解決策について考えてみたいと思う。

お付き合いいただけると嬉しい。

優等生でいる心は見捨てられ不安?

なぜ優等生でいようとするのだろうか?
少し深掘りしてみようと思う。

白黒思考ゆえに、良い自分であろうとする心がある。
完璧主義も関係しているだろう。

では、なぜ良い自分でいようとするのか?
正義を振りかざして、善人であろうとする。
それはなぜだろう?

ひとつは見捨てられ不安から、人に嫌われたくない心理が働いて、無意識のうちに誰からも嫌われない自分を作り上げているように思う。

結果的に我慢しすぎて疲弊する。
そうすると全てを投げ出して、自分が作り上げた完璧で善人の自分を放棄しようとする。

わたしは我慢の限界を別人格に切り替わったことで自覚する。
優等生の自分でいたことに、ようやく気が付くのだ。
我慢しすぎていたと…。
無理しすぎてストレスから別人格に代わる。

もうひとつは他人に危害を与える存在であってはならないという妄想だ。
他人に危害を与えないということは、確かに重要そうなことではある。
対人関係の中で建設的な関係性を築くことは必要である。

しかし、相手は好き勝手に物事を言ってきたとしたら?
こっちが気にしていることをズケズケと言ってきても、穏便に済ませていいものなのだろうか?
そこまで言う相手ならば、逆に怒りを伝えてもよさそうである。

相手に指摘することすら、危害を与えるという認知は幼少期からの慣習だった。
指摘することで相手を怒らせる、という【認知】は正しいとは限らない。
いや、正当に指摘したほうがよい相手というのも存在するのだ。

対人関係というのは、誰しもあらゆる人からさまざまな影響を受けながら与えながら成り立っている。
その中で完全なる善人でなければならないと思い込んでいる認知は改めたほうがよさそうである。

誰からも好かれて見捨てられず、善人であろうとする心

誰からも嫌われず善人であるのは無理なのに、嫌われないようにという努力は果てしなく途方に暮れるものだ。

完璧であろうとする幻想、ありえないことを築こうとする無駄な努力と言っても過言ではない。

そう、自分でわかっていながらやめられないのだ。
自ら選んでいることはわかっているし、やめればいいこともわかっている。

しかし、慣れ親しんだ認知がそうはさせない。
どうにか認知を把握しても、またやってるよと思いつつもやめられない。

もやは病気だ、いや病気なのだけどもw

善人であろうとする心は疲弊する。
誰からも好かれている状態というのは存在しないのだ。

完璧を求めることをいい加減に手放したい。
慣れ親しんだ認知の中で、自分のこころと対峙して、完璧であることや善人であることから脱却しようと試みている。

まだ、練習中ではある。
最初からうまくはいかない。

しかし、変えようとする努力の初めの一歩が重要だと考えている。

優等生であり続ける必要はないとはいえど

善人ヅラして何をやってるのかと把握しながらも、途方に暮れながらも、何をやってるんだと分かりながらも、やめられないこの自動思考から脱却するのは、もはや職人技といえよう。

熟練された鍛錬が必要なのだ。

たとえばマインドフルネス、この思考を葉っぱに載せて、川に流していくのを見つめてみる。

「ああ、またやってるな…」
俯瞰して自分を見つめてみるとバカバカしくもある。

そんな自分の姿さえも川の流れに沿うように、葉っぱの上に乗せて流していく。
憐れな優等生のマリオネットが葉っぱに揺られて、川下へと流れていく。
そう、自分はいつでも自分の認知が作ったマリオネットなのだ。

そんな道化師でいる必要はない。
いくら自分がないとはいえ、わたしは自分の気持ちを取りつくろう必要はないのだ。
自分の歪んだ認知が生み出す道化師ではなく、自分自身の足で歩んでいきたい。

まだまだ、練習が必要でうまくはいかないかもしれない。
それでも変えようとする試みを持つことを恐れず、変えられるものを変えていく心を持っていきたい。

失敗ありきで恐れるな、転んでも転んでも、また立ち上がって進むのがわたしらしいではないか。

そんな言葉で自分を鼓舞することしかできないが、間違いではないと信じて優等生の看板を下ろそうとしている。


ではでは、またね。




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