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トラウマの考察

スガカオルです。

今日はトラウマについて考えていきたいと思います。
解離性障害の人にとってトラウマというものは身近なものです。

しかし、トラウマという言葉が一般の方(他の精神疾患の方も含め)と私とは大きなズレがあるように感じるのです。

そもそもトラウマとはどういうものか、ざっくばらんにお話していきます。

トラウマとはなんなのか?

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普段多くの人が口にする「トラウマになるわー」「マジ、トラウマだわ」なんて表現を耳にしたこともあるかと思います。
もしかしたら日常の中で使っているかもしれませんね。

私がそれを耳にしたら「そんなしょっちゅうトラウマになってたら、命何個あっても足らねーわっ!」っていうのが本音です。

トラウマを抱えるということは命がけなのです。

トラウマとは“心的外傷体験”のことです。
嫌な記憶とかそんなナマっちょろいレベルではありません。
「殺される!」「死んだと思った」「死にたくなる出来事」ぐらいのレベルのことを言います(ここ重要!)

一回の大きな死ぬかと思ったレベルのトラウマというものは、例をあげるとすれば交通事故です。
交通事故にあっても、トラウマにならない人ももちろんいます。
だからと言って、トラウマになる人が弱いわけではありません。
そこは勘違いしてほしくないところです。

交通事故のような一度のトラウマを単回性トラウマなどと言います。
トラウマ体験が一度きりの場合のことを指します。

それとは別に複雑性トラウマと呼ばれるものがあります。
これは長期的に繰り返してトラウマ体験を経験すること、複数回のトラウマ体験があることです。

例をあげるとすれば、家庭内で行なわれる虐待やDVなどは長期間に渡り、何度も何度も繰り返し行われることが多いため、複雑性トラウマといえます。
また学校内でもいじめは長期間にわたり行われますから、複雑性トラウマと呼べるでしょう。

単回性トラウマに比べ、複雑性トラウマは治療が困難です。
特に今の日本の精神科治療において、複雑性トラウマを持っている人を治療できる精神科医がごく限られています。

私は複雑性トラウマを経験しています。
母親からの虐待、小中学生の頃のいじめだけではありません。
デートDVといえばソフトに聞こえますが、あれは紛れもなく性暴力、レイプでした。
どれも長期間に渡り、何度も繰り返して行われました。

その出来事だけではなく、他の要素も絡んでトラウマは作られたと私は思っています。
ではその他の要素とはなんでしょうか?

トラウマを作るもの

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外傷体験はすさまじい破壊力があることは想像することができるでしょう。
その他にトラウマ化する要因があると私は考えています。

一般的には脆弱性とか言われることもあります。
養育歴、遺伝的要因なども関係するかもしれませんが、そんな専門家みたいなことは抜きにして考えられる要因です。

それは言語化できない状況と孤独感がトラウマ化を進めると私は感じます。

私の場合、虐待していた母親からされたことも、父が単身赴任や出張が多かったことと仕事から帰宅する前には私が寝てしまっていたので話すこともできませんでした。
また、父からも嫌われてしまっては生きていけないと思っていたこともあり、相談することで嫌われてしまうのではないかと思っていたぐらいでした。

また、高校生になると母親が蒸発するのですが(なんだその展開w)、父親から「お母さんから連絡がきても知らないふりをしてほしい」と言われており、口止めされていました。
そのため、誰かに相談することがで知られてしまうのではないかと相談をせず、孤立しました。

性暴力のことは誰にも話すことができませんでした。
高校生のことでしたので、まだまだ思春期真っ盛りなお年頃ですから性のことを口にすることすら難しい中、自分に起こっていることを誰かに相談することを考えることができませんでした。

その当時、母親は家を出て蒸発しておりましたので、家庭内はそれどころではない状況でしたし。男しかいない状況で家族に相談することも難しかったのです。

誰かに相談することは大きな役割を持っています。

勇気をもらえる、悲しみを共有してもらえる、自分だけの時間を与えてくれる、安心感をもらえる…などなど、誰かに困っていることを話すことは癒しにつながります。

誰にも話せない状況というのは八方塞がりという状況だけではありません。
誰も周りにいないことも同じです。
そんな状況ではトラウマを一人で抱え込む、腐敗を進めていくことになるのは容易に想像できることです。

つまり、トラウマ化させないということは、孤立せず誰かに話を聞いてもらうことです。

トラウマを持ちながら生きること

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トラウマ体験をすると、絶望感とともに死の淵に追いやられている感覚です。

まるで孤独で誰にも助けを呼ぶこともできない状況が続いていくという負のループにハマっていくような、底なし沼に足を突っ込んでしまい抜けずにズブズブと沈んでいく感覚。

多くのトラウマを経験した人はこのような感覚に陥ったことがあるかもしれません。

トラウマを持ちながら生きるということは、底なし沼を歩いていくことなのかもしれません。

この沼から出ることはできるだろうか?

誰か手を差し伸べてくれる人はいるのだろうか?

このまま沈んでしまった方が楽なのではないだろうか?

そんな不安と葛藤しながら生きていきます。


私もそんな日々を経験しました。

でも今、私がいるところは底なし沼ではありません。

多くの人に助けられた、そう思っています。

差し出してくれる手はちゃんとあった、そのことに気が付いたのです。
「助けて」と言える人たちがちゃんといてくれていました。

独りぼっちだと勘違いしていたのかもしれない。
ただ助けを呼ぶ声をあげることが出来なかった。

それも間違いなく私自身です。

死ぬかもしれないと思うような出来事もあったし、もう死んで終わりにしたいと思うような日々だった。

今も困難があったり、トラウマに飲み込まれそうになることがあるけれど、それでも生きていくと覚悟を決めています。

覚悟を持たせてくれたのは、私の周りにいた大切な人たちのおかげです。


トラウマと共に生きる。

簡単なことではないけれど、それでも生きる覚悟を持つことが私の生きる道です。


ではでは、またね。

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