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傷跡を知り願いを捧げる 〜戦場へ行った人たちのその後の人生〜

皆さんはここアメリカのVeterans Day(ベテランズデー)という祝日をご存知でしょうか?
11月11日のベテランズデーとは復員軍人、退役軍人の日とも呼ばれます。

私は去年までニューヨークに15年以上、その前はボストンにも2年弱住んでいましたが、ここタンパに住むまでこのベテランズデーの祝日の意味を深く考えさせられるような機会には恵まれませんでした。

去年3月から移住したここフロリダ州、タンパには米軍の基地があります。
日常生活を送っていてたくさんの軍人の奥様たちに出会いましたし、息子が通う学校の送り迎えに毎朝軍服のユニフォームを着た軍人のお父さんたちが小さな子供達を学校に送りに行く姿を当たり前のように見かけます。
息子のクラスメイトのお父さんの一人も軍人で奥様が日本人の方なので、家族で親しくさせてもらっています。

その他にも、私が去年ニューヨークからタンパに二泊だけ家を探しに来た時、家探しのお手伝いをお願いした不動産屋さんのエージェンシーの方も退役軍人でしたし、空港で少しおしゃべりした警備員の方も又、元軍人でした。
今現在のフロリダ州知事、デサントス知事も退役軍人です。
仕事の求人情報にも退役軍人優遇の案内が記載されていたり、家の契約をする時には家族のメンバーに軍勤務の方がいる場合専用の申し込み方法があったりもします。
それほどに、このタンパという町は軍と関わり深いエリアなのです。



今年に入り4歳の息子が朝8時から午後2時まで学校へ行き始めたのをきっかけに、2月から息子の学校がある平日の4時間だけ自宅から徒歩5分のコンビニでパートに行き始めました。

そこで私が働き始めた同じ時期にドイツ人のとても綺麗な軍人の奥様が同僚としてパート先に入ってきました。
彼女の旦那さんは軍の中でも少しお偉い方(説明はされましたが、私はアメリカ軍の軍位に対して全くの無知であり、彼女の旦那さんがどのくらいの地位なのかいまだにはっきり把握していません….)らしいのですが、基地の敷地内にある住宅地の軍人妻たちのソサイアティーに全く興味がなく、なんでもいいから外に出て働きたいという理由で朝の4時間だけ私と同じ時間帯に働きに来ているのです。

お互いの家族の話や、ドイツの文化、日本の文化、国際結婚をしてアメリカに住む環境など会話がいつも耐える事はなく、彼女は本当になんでも話せる仲になれた知人の1人です。
その彼女が先月から旦那さんの病院の付き添いで何度かお仕事を早退していました。
そして彼女は旦那さんの深刻なPTSD『外傷後ストレス障害』について私に話し始めたのです。
なぜ急に話し始めたかというと、やっと彼女の旦那さんがそのことについて話し始め、治療を始める行動を起こしたというのです。

このPTSDとは別名『戦闘ストレス障害』とも言われています。
彼女の旦那さんは若い頃からアメリカ軍に入隊し、911の後、アフガニスタン、イラクの戦地で任務についていました。
彼が従える部隊の半数以上をなくした経験、乗っていた軍用機以外のすべてが撃墜された経験..
聞いている私の表情がみるみるこわばっていくほど生々しい旦那さんの経験を妻である彼女は私に話してくれたのです。

彼女が彼を始めて病院に連れて行った翌日、彼女が私に語ったことを綴ります。

『彼は私と出会って10年以上経つけれど、一度たりとも夜から朝まで寝れたことはない。

彼は毎晩何度も夜目を覚ます。
彼は私と生活を共にするようになって一つのお願いをしてきた。それは”僕が寝ている時に絶対に体を揺すぶって起こさないでほしい”ということ。

その他にも彼は一生治ることのない頭痛を抱えている。
その頭痛が最近あまりにも悪化し、鉄の棒で右目の上を殴りつけられているような痛みを感じると言い出したの。
そして私は彼に”専門家に診てもらってしっかり治療を始めましょう。”と初めて彼に促した。私は今まで彼に対してPTSDの事に対して何か強制したり要請したことは一度もない。

いつも静かにそばに寄り添い、ただ支えていきたいと思っている。

だけど、今、しっかり二人で彼の症状と向き合う時が来た。

ねぇ、SUE…。
イラクとアフガニスタンから帰ってきた軍人、元軍人たちがどれだけ自殺しているか知ってる?
その数は戦地で亡くなった軍人の数をはるかに超えるのよ。
自殺はしなくても、ホームレスになる人、精神をひどく患い普通の生活が送れなくなる人、ドラッグ、アルコール、セックス中毒に陥る人….。

夫の親友だった一人は軍の中でも優秀なスナイパーだった。
彼は戦地から帰ると、アルコール、ドラッグ、セックス、世の中が悪いという全てのものに溺れた。
そして挙げ句の果てに娼婦と結婚し、彼女は彼のすべての財産を持って消えてしまった…。その後、彼は全てを失い社会復帰が不可能な状態にまでになってしまった….。

私の夫のメンタリティーはとても強い。
しっかり今も任務についている。
けれども彼が初めて昨日、PTSD専門のカウンセリングで自分で過去の経験を語り始めた。
私は彼は本当に強い男だと思った。色んなことを乗り越えていける人だと確信した。』

笑顔で話していましたが、彼女の目は潤んでいました。

私はそんな彼女の事を心から素晴らしい女性であり、妻であると思ったのと同時に彼女の痛みが見えた気がしたのです。
いつでも彼を尊敬し愛し、寄り添い続けている。
アフガニスタンから帰ってきた後も、彼がアフリカのソマリアに勤務した時はとても危険な時期だったらしいのですが、彼女は彼の事を信じて待ち続けていた。
戦地に赴く彼等だけではなく、彼等を待ち続ける家族の心の戦いも相当なものだと実感せずにはいられないのです。


そして、もう一人。
彼は私のパート先にいつも来るペプシの業者さんでした。
毎日顔をあわせるようになると、いつも日常会話をし私の息子の話やお互いの話をするようになりました。
彼もニューヨーク州出身で私が去年から息子を連れてニューヨークからタンパに移住したこともあって、おしゃべりを楽しむ仲になれた知人です。

彼は私と歳が一つしか違いませんが、19歳からアメリカ軍に入隊してそれから10年間、軍に所属していました。
彼が入隊した2ヶ月後に911のテロが起こり、アフガニスタンに出兵することになったそうです。

彼はある時、
『僕はいつも疲れているんだよ。ぐっすり寝れないから、何度も起きてしまう。』
とふとした会話の中でぽろっと言ったのです。
先ほど書いたパートの仲良しの同僚の旦那さんの話を聞いた後、すぐに私はピンときてしまって私は彼に言いました。

『もし話したくなかったら話さなくてもいいし、嫌な気持ちになったらごめんね。前言ってたなかなか寝れない原因ってPTSDの症状だったりする?』
そうすると彼は
『そうだよ。アフガニスタンやイラクから帰ってきた奴らはほとんどみんな同じ症状を抱えているんじゃないかな。』
とすらっと軽く言いました。

そして彼は笑顔で付け加えたのです。
『本当の戦場を経験した俺たちの数多くは、戦地から帰ってきたら当時のことは何も話さない。
誰も話さないよ。』
いつも明るく、気さくな彼もこんなことを言うのかとハッとした私がいました。

彼は軍に10年勤務した後、フロリダの州警察で4年間勤務したそうです。
州警察で最後の数年はState Prison(州が運営する刑務所)で勤務し、それを最後に州警察をやめ、ペプシに就職して私が住むここタンパに来たという人物でした。
彼の右膝には今もボトルが入っていて、右膝がかなり変形しているのを私に見せてくれた時があります。
それはアフガニスタンの戦地で負った傷跡でした。
彼もまた、アフガニスタンに駐留したアメリカ軍の一人だったのです。

『僕の人生の中で、”死”というものはいつも身近にあった。
だから僕にとって”死”はそんなに怖いものじゃない。
君は聖書を読んだことある?
僕は神様を愛しているんだ。
聖書にはね、
”神様は僕たち一人一人の人生に何が起こるのか最初から全て知っている。”
って書いてあるんだよ。
僕にはたくさんの戦死者を出した戦地で一緒に戦った戦友が一人いた。
彼も僕も一緒に戦地から生き延びてこの国に帰ってきた。
だけど、彼はそのあとバイクの事故でこの世を去った。
この意味が君には分かる?
神様は僕たち一人一人に人生を与えてくださっている。
危険な状況で生き残る者がいても、平和な時間の中で急に死んでしまう奴もいる。
だから僕は自分の死をいつも神様に委ねている。』

彼が話してくれた言葉が私は今も忘れられません。
自分とたった一つしか歳が違わない彼の10代後半から20代ほとんどの人生は軍人だったんだと改めて気付かされたのです。

私は18歳で日本の高校を卒業し、ボストンの音楽大学に音楽の勉強をするために渡米しました。
そしてその翌年、911のテロをボストンで経験し、その後もアフガニスタンやイラクの戦場はテレビで流れているものとしか認識してなかった….。
当時、たくさんのアメリカ人の私と同じ世代の若者たちが戦地に赴いていた間、私は音楽を愛し、自分の20代前半をこのアメリカという国で味わい謳歌していたのです。

このアメリカというの国に住む人々がいつもどこからかの攻撃に怯えることもなく、ある人はエンターテイメントを謳歌し、ある人はビジネスに挑み豊かさを追い続け、そしてある人は何の心配もなく恋人や家族との愛を育み合うことができる….。


この当たり前の日常は戦地に赴いてきた若者達や軍人達の犠牲で成り立っていたのです。
今年に入って私はここタンパで社会に出て、初めて彼らの傷跡をほんの少しだけ知った気がするのです。

私は広島県で生まれ育ったので、小学校に入学してから高校を卒業するまで『平和学習』という時間がありました。
その学習で日本が過去世界大恐慌から第二次世界大戦が終わるまでの歴史や被害をたくさんの資料を通じて学んできたつもりでした。

その一方でここアメリカでは戦争はまだ『過去』として過ぎ去った歴史の一部分では決してないのです。
ずっとこの国はどこかで戦争を続けてきたのです。

ここまで身近に自分の国のために戦地に赴き戦争を経験した人やその家族に接していると、容易く
『やっぱり平和が一番いいね。』とか
『戦争はやっぱりよくないよね。』と言う気になれないのは私だけでしょうか….?

今の私が精一杯できることは
『どうか自分の国のために体や心に傷を負った人たちが、少しでも安らかに安心して眠れる時間が齎されますように…。』
と祈りを捧げることだけなのです。

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