病んだ父子カンタービレ / 「シャイン」
僕の父親が好きだったエピソードは、僕が幼稚園に通っていた時の話だ。ある時、幼稚園の担任が何かの活動の際にヴィヴァルディ作曲のヴァイオリン協奏曲「四季」を園内に流した。クラシック音楽の大ファンだった父のせいで、音楽に詳しい僕は「これヴィヴァルディだよ」と担任に言ったらしい。もちろん担任は喫驚し、後日両親に一体どんな教育をしているのかと感心したそうだ。教育なんて大層なものではなく、昼夜を問わず父がクラシック音楽を家屋でも車でも流していたに過ぎない。
人が親から受ける影響は多大である。前回の記事で取り上げた「若者のすべて」では、イタリアの家庭における母の存在がテーマになっていたが、1996年のオーストラリアの映画「シャイン」は、父と息子の歪な関係が描かれた作品である。
この映画はデイヴィッド・ヘルフゴットという実在のピアニストの人生を描いていると喧伝されているものの、主にデイヴィッドとその妻への取材から得られた情報をもとにして脚本を書いており、映画が公開されてから家族や関係者から「事実と著しく異なる」と抗議の声が上がった。精神病を長年抱えた人物の人生を描くのだから、よほど周辺への取材を徹底しない限り、せめて主人公の名は架空にすべきだった。僕がいつも書いているように、映画は映画なのだ。現実のふりをした映画はだいたいプロパガンダである。
さて、"事実"はさておき、主人公デイヴィッドは家庭の全てを支配したがる父ピーターのもとで音楽の才能に気付き、その父から推薦されたラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を弾くことにこだわるようになる。クラシック音楽が好きな人なら分かると思うが、およそ未成年が弾くような曲ではない。デイヴィッドの留学を一度は止めさせたり、それでも留学するなら勘当すると言ったり、とにかくピーターは子どもを抑圧する男として描かれ、あたかも父の"教育"のせいでデイヴィッドが精神を崩壊させたように映る。しかしこれは現実の単純化、すなわち観客にとって分かりやすく見せるための手法に過ぎず、長いあいだ精神病院に入院する者は単に両親のどちらかから脳の機能不全を遺伝し、それを悪化させただけである。
退院してからレストランでピアニストとして再生していくデイヴィッドの姿は誰の目にも"よかったねェ"と映るものだし、監督や脚本家はこうしたドン底からの再起を映画にしたかったのだろうが、筋書きは三幕構成の典型であり、制作者の手の内が見えまくっている作品だ。
劇中で父とデイヴィッドの関係は修復することがなかった。親子の関係はいろんな映画で描かれるほど、人にとって重要なものだ。僕は父の"教育"のおかげで、大抵のクラシック音楽は聴けば曲名が分かる。本作はラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を取り上げていたが、僕は第2番の方が好きだ。
ちなみに僕は40代の男だが、学生の頃、映画の好きな者が薦めてくる作品といえば、「ショーシャンクの空に」か、本作だった。ひねくれていたのか、僕は「ハンニバル」を観てレクター博士のようになりたいと願っていた。当時はまだ吉祥寺にバウスシアターがあり、名作から駄作まで幅広く上映していた。まだスマホなんて無かった頃の話である。