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自己紹介って何を紹介するの / 「ティファニーで朝食を」

私は誰。私は愚か者。私は私を知らない。それが、すべて。

坂口安吾

誰しも”私”というものに対して不安めいた感情を抱いたり、それが空疎であることについて怯えたりする。noteの自己紹介の欄に”どこ大学卒”と書いたり"作家/ライター/評論家/云々"と肩書きをたくさん並べてみたり、そうしたラベリングを通じて居場所を探しているように見える人が多い。僕がこうして毎日、それぞれの記事を数十分かけて書いていると”こいつは何者だ”と訝る方がいるかもしれないが、僕は自己紹介の欄に記した通り"田舎者"ということの他に言うべきことが見当たらないし、そもそも”現在は田舎者”であって、もともとそうではない。つまりフィクションである。”幼い頃から文章力が頭抜けていると評価されていた”と書けばノンフィクションにあたるだろう。ロアルド・ダールが言っていたように、文章力は天賦の才である。努力でどうにかなるものではないと思う。
さて、ニューヨークに舞台を設定しよう。テキサスの田舎から出てきて偽名を名乗り、あちこちのカフェやレストランで紳士をつかまえては”我が家のように感じられる時”を探し続ける若き女ーー。「ティファニーで朝食を」である。前回のnoteでカポーティを取り上げたが、この作品は「冷血」の8年ほど前に出版された。
都会の雑踏のなかで孤独に気付く人が多いように、本作で語られるホリーという女はあちこちへ出かけていき、ファッションや交友関係を通じて”私は誰”という空白を埋めようとしていた。学歴や職業といった、ありきたりな自己紹介を持たないホリーは home と感じられるものを求めてアッパーイーストサイドを彷徨うのだが、本作の語り手はホリーのライフスタイルを娼婦ではなく”アメリカの芸者”と呼んでいた。カポーティがニューヨークで親しくしていた何人もの”上流の女”がモデルになったと言われている。
ホリーのような人はどこへ行っても home を感じられないのではないか、と冷たく突き放すことは簡単だし、原作ではホリーはブラジルへ旅立ってしまうのだが、このホリーが感じていた”home ではない”感覚というものは本質を突いている。noteや履歴書の自己紹介欄に書かれがちなことが home なのだろうか。いったい我々はじぶんのなかの居心地の悪さのようなものから解放されているだろうか。
ホリーにとって道の向こうに見えているティファニーの本店だけが安心を与えてくれるものとして描かれ、本作の題名もこれに由来するのだが、華やかなニューヨークの社交界のなかでホリーあるいはカポーティはずっと不安に苛まれていたのだろう。"それなら社交するなよ"とこちらは思うのだが、このあたりがいかにも”アメリカン”なことである。
さて、ここまで原作の話をすればお気付きかと思うが、この小説に基づいた映画は原作とは全く異なる趣旨の映画である。だいたい主演がオードリー・ヘップバーンなのだから原作に忠実であろうとするならミスキャストも甚だしいが、脚本も設定も大幅に手を加えられているし、そもそもバカウケしたのだから良いのだ。映画「ティファニーで朝食を」がアメリカの女のスタイルに絶大な影響を与えたことは疑いがない。
作り話が現実を作る、という話をもう一つすると、ティファニーはこの小説(映画)のファンの期待に応え、2017年に本店の中にカフェをつくった。もちろん原作ではティファニー本店で朝食を食べるシーンなどないが、こういう遊び心は好きだ。
かつて坂口安吾はこんなことを書いていた。

私はいつも「これから」の中に生きている。これから、何かをしよう、これから、何か、納得、私は何かに納得されたいのだろうか。然し、ともかく「これから」という期待の中に、いつも、私の命が賭けられている。

坂口安吾

僕はこの感覚が好きだ。

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