男は困惑していた。 宿場町の茶店にいて、目の前に粟餅が置いてある。 見覚えのある店だった。 男が子どものころ、奉公していた旅籠屋の近くの茶店だった。 腰の曲がった婆…
もう五十年ほども昔の話だ。 私の育った海辺の村は毎年恒例のように台風に襲われた。 台風の夜には停電がつきもので、どこの家でも日の暮れる前から早寝を決…
私は、夕焼けを売ってるんです。そんなものが売れるのかって? 買う人はたくさんいますよ。おや、夕焼けなんてタダだとおっしゃる? とんでもない。あなたも生…
短説の会・関西座会
2020年9月21日 23:52
男は困惑していた。宿場町の茶店にいて、目の前に粟餅が置いてある。見覚えのある店だった。男が子どものころ、奉公していた旅籠屋の近くの茶店だった。腰の曲がった婆さまが働いている。男が九つのとき、亡くなったはずだ。茶店の前を通るたび、粟餅を蒸すにおいにひかれて、何度、立ち寄りたいと思ったことか。奉公人で、子どもだった男には粟餅を買う金を持っていない。いや、一度だけ、茶店で粟餅を頼んだこと
2020年9月21日 19:46
もう五十年ほども昔の話だ。 私の育った海辺の村は毎年恒例のように台風に襲われた。 台風の夜には停電がつきもので、どこの家でも日の暮れる前から早寝を決め込んでいたのだが、そんなに早い時間から無闇に眠れるはずもなく、台風は怖いながらももう運を天にまかすしかすべもなく、雑音入りのラジオに耳を傾けながら、暇を持て余していた。 そうなると私の出番なのだった。 まだ小学生だった私は、懐中電
2020年9月21日 19:37
私は、夕焼けを売ってるんです。そんなものが売れるのかって? 買う人はたくさんいますよ。おや、夕焼けなんてタダだとおっしゃる? とんでもない。あなたも生きて来た中で、いちばん綺麗だった夕焼けってあるはずです。それが人生の財産ですよ。でも不思議なもんでね、たとえば同じ夕焼けを見ても、人によって見え方が違うんです。同じ夕焼けを見ていても、心に響かなかったり、涙がとまらないくらいに美しく見えた