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自分の「識」が揺さぶられる映画体験

神戸市長田にある介護付きシェアハウス「はっぴーの家ろっけん」の日常を記録した映画「30」。その山口上映会を2日、周南公立大学で開催しました。学生と一般の方も併せて約150人が来場され、とてもいい時間となりました。

今回、僕は実行委の一人として携わったのですが、なぜかショックを受けたような感覚が、二日経ったいまでも続いています。

この映画を観るのは2回目。だけど、今回は初見のときとはまるで違う作品のように感じたんです。映画を観た、というより、映画という体験をした、とでも言えばいいのか……。

「祖父母の介護、理想の子育てができる環境、そして妻が気持ち良く働ける場所。それらを追求してできたのが、ここ。俺らが創りたい場所を求めている人もいるだろうって。だって、俺らが本気で欲しいから」

代表の首藤さんのそんな想いからスタートした「はっぴーの家」。そこには、お年寄りから子供たち、乳幼児を抱えたママさん、中高生、外国人……など、多様な世代と背景を持った人たちが生活し、働き、出入りしています。当然、室内はごちゃまぜ。なんでもありのカオス状態です。

最初にこの作品を観たとき、僕は「はっぴーの家」がどんなものか、頭で理解しようとしていました。だから登場人物の言葉や、繰り広げられる人間ドラマなどの構成部分だけを追っていたように思います。それが今回は……なにが違っていたのだろう? 言葉では、まだうまく説明できない。ただ、なんだかそのカオスな空間が、居心地の良いものに感じている自分がいたんです。

おそらく、この作品を受け止める自分のなかの「認識」の層(レイヤー)が、前回とは全く違っていたのだろうと想います。

認識の「識」とは、仏教の世界で心や洞察力を指す言葉。ヴィジニャーナというサンスクリット語が語源で、「今、この瞬間に注意を向ける、心を傾ける」という意味があるそうです。

首藤さんは、阪神淡路大震災を9歳で経験。昨日まで当り前にあった街が崩れ、燃え、焼け野原に。混沌そのものの世界から少しずつ再建し、復興していくという一連の過程を、ずっとその「なか」で生活しながら体験しています。おそらくそうした原体験が、首藤さんの「識」を育み、認識の層を普通よりもずっと深いものにするきっかけになっているのではないかと思われます。

「自分は今にしか興味がない。今、目の前にいる人だけにしか関心がないんです」と映画の中でも語っていました。まさにヴィジニャーナそのもの。

では、自分にとっては何が、前回と今回の「識」の違いを生んだのか……?

もちろん、2回目ということもあります。鑑賞する立場ではなく、主催する立場だったということも大きいでしょう。初回は一人で鑑賞しましたが、今回は約150人の来場者と一緒だったという環境の違いも間違いなく影響しています。

さらに、上映会の前日に体験した一件も、もしかしたらその大きな理由かも知れません。

前日、僕は以前からSNSなどを通じて3年近く交流してきた方と、1対1で2時間以上語り合う機会を得ました。その方と、対面で長時間向き合うのは初めて。すると、それまでの印象や、こちらが無自覚的に創り上げていた「こういう人」といった人物像が、もやが晴れるように綺麗に消え去ってしまったのです。そして、よりクリアに、より奥深く、相手の生き方や想いを「識る」ことができるようになりました。

それと同時に、自分への疑問も生まれました。

いままで分かったつもり、知っているつもりになっていた、自分のなかの「この人」とは、いったいなんだったんだろう。ごくごく表層しか、捉えられていなかった。その表層だけで理解したつもりになっていた……。

もしかしたら、人に対してだけでなく、あらゆる事柄について、同じことが言えるんじゃないのか……?自分の「識」の範囲内だけで、分かったつもりで生き、死んでいくには、生命の時間はあまりに尊い。自分の「識」の浅さに気づくことのないままに生き続けるとしたら……それはただ、ただ怖ろしい。

そんな問いを抱えたまま迎えた、翌日の上映会だったのです。

きっとこれらすべての体験が合わさって、僕のなかの「識」がほんの少し、深い層へ触れていたのかもしれません。

と言っても、まだこの作品世界の一端に触れた程度。なぜなら、「はっぴーの家」の首藤さんは、いまこの瞬間にも「目の前の一人」をハッピーにするために全生命を傾け続けています。「30」を制作した鈴木監督は、現場に3年間通って撮影しながら、何百時間も「はっぴーの家」のカオスに浸っています。

それほどの体験を経て深化した「識」から生まれた作品が、そう簡単に認識できるはずがない、と想うのです。つまり、僕が今回、映画を鑑賞して感じたものなんて、とんでもない表層でしかないということです。

これもやはり、現実認識そのものに対して当てはまることのように感じられます。

「分かっていない」
「まだ自分の認識は浅い」

そう識っているなら、単純に誰かを嫌ったり、非難したり、攻撃したり……できないのではないでしょうか?

逆に、謙虚な気持ちで向き合い、虚心坦懐に聴き合うことを意識してみる。それによって、どれほどカオスな状態であったとしても、重ねた時間と手間の分だけお互いの認識は深まり、関係性は深化していく-。いまは、そんな感触があります。

***

今回の上映会は、会場となった周南公立大学のご厚意により、ダイバーシティ教育の一環として開催していただきました。

上映後の質疑応答では、最後にダウン症の女性が手を挙げ、映画の感想を懸命に表現してくれました。はっきりとは聴き取れなくても、「この作品を作ってくれてありがとう」という想いだけはしっかりと伝わってきました。

「理解するのではなく、体験し、感じる」。この映画の本質を象徴するような、とても美しい時間。会場全体が温かく、優しい拍手に包まれたのでした。


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