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中国の教育が作る「中国人らしさ」の話

松井博さんが日本とアメリカの教育の違いについて書いていて、興味深く読みました。

これを読んで、ある国の教育って「その国らしさ」や「その国にいる人らしさ」に直接的につながっているものなんだよな、ということを感じました。

今日はそれについて書いてみたいと思います。

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松井さんのnoteを読んでまず思ったのは、日本の教育ってまずはとにかく「型」を仕込むためのものなんだろうな、ということです。

漢字の「とめ・はね・はらい」にやたらと気を遣って(遣わせて)いるのも、まずは何事にも正しい「型」があり、そこに向かっていけばとりあえず間違いはないから、とにかくコレをやっとけというものです。

そして、それはある程度、日本での生きやすさにもつながっているのではないか、とも言えるのではないかと思います。

僕自身を含め、日本人っておおむね現状維持が好きです。社会に出てからも、新しく何かを変えたり始めたりするよりは、同じことを続けてそれを突き詰めることに重きが置かれます。なんとなく既存のルール、つまり「型」を破壊してくれる人を望むような声が聞かれつつも、実際にそういう人が出てくると全力で叩き潰されたりします。

そういう社会で生き抜くための処世術を教えるものとして、おそらく教育があるんだろうな、と思います。「型」にあわせておけば間違いない社会で生き抜くために、まずは「型」をこなすことを徹底的に叩き込む。それによって、少なくとも日本の社会では生きやすくなったりする。

そのサイクルが繰り返されていくことで、やがて学校で学ぶことは国民の共通認識となり、「この社会ってこういう感じだよね」という合意がより強まります。そして、みんなが同じ意識を持ち、社会がスムーズに回るようになる。

教育には、個々人の認知や能力、情緒を育てるという以外にも、そのような「社会にとっての「これがよい価値観だよね」という共通認識をつくる機能」があるんだよな、ということを改めて思いました。

以前、日本でお子さんを育てている中国人が「日本人は、学校での体育の授業と掃除と部活によって「日本人」になるのだと知った」というのを聞いたことがありますが、まさしくそういうことなのでしょう。

ちなみに、この日本式の教育によって育まれる日本的な社会のルールは、製造業が産業の主流だったころにはたいへん有効だったのでしょうが、グローバル化によって否応なく国々の境界線が薄れ、また産業の中心がITに移っていくにつれて、力を発揮できないようになってしまいました。

個々人の基礎能力が高いことや、ルールをよく遵守すること、能力や考えが均質化されているぶん合意形成が取りやすい(いわゆる「ツーカー」「阿吽の呼吸」)ことなどは強みでもあると思うのですが、それだけでは世界と渡り合っていけないのも事実でしょう。日本の教育が変わることを強く望みます。

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日本の話ばっかりしていてもウチのマガジン的にはしょうがないので、中国の話をしましょう。

この「教育がその国の人をつくる」が正しいとすると、中国にも中国式の教育によってつくられる「中国人らしさ」があるはずです。では、それは一体どういうものなのでしょうか。

個人的には教育がつくりだす「中国人らしさ」とは、「量をこなすことが正義」という認識と、「世の中は平等ではない」という割り切りなのではないかと思います。

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