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明治中期、局紙の一大産地への歩み (印刷局と越前和紙の関係を悲劇談から紐解く)【越前和紙】第2回

みなさま、こんにちは。
株式会社 山路製紙所の山路勝海です。

 「越前和紙の歴史や奥深さを知ることの楽しさをみなさまと共有し、次の世代へ継承する!」を目指して連載している本コラム。第2回は、第1回に登場した「印刷局」に関連するテーマを引き継ぎ、『明治中期、局紙の一大産地への歩み』について、印刷局と越前和紙の関係を悲劇談から紐解きながら、みなさまと一緒に考えていきたいと思います。

1.今回のテーマについて

 局紙(きょくし)とは越前和紙の品種のひとつで、主に賞状/証券用紙/名刺/ハガキ/印刷用紙などに使われています。手漉き・機械漉きの両方でつくられていて、原料には木材パルプや非木材繊維(三椏/コットン/ヨシ/バナナなど)が局紙の品種ごとに使い分けられています。(写真1)

(写真1)  五箇で現在生産されている局紙類 (賞状、証券/証書、名刺/ハガキ/カード類、印刷用紙など種類は多岐にわたっています)

局紙製品の一覧はこちらから↓↓↓

 越前和紙の産地である五箇(ごか)は、明治時代中期に局紙の一大産地へと歩み始めます。(五箇とは、不老(おいず)/大滝/岩本/定友/新在家の5村で、五箇村・岡本村とも呼ばれていました。) 
 近年、明治時代の局紙に関する文献を読み進めていくうちに、五箇が局紙の一大産地へと歩み出す過程には、ある「悲劇談」が関連していたことが分かりました。悲劇談とは「明治時代初期、新しい国産紙幣用紙の開発のために、東京の印刷局へ招かれた越前の紙漉き職人は生涯ふるさとの地を踏むことを許されなかった」というものです。詳しく調べたところ、この悲劇談は印刷局に招かれた紙漉き職人全員ではなく、特定の人物にあてはまるもので、実際には印刷局から帰郷する人物が居ました。
 その後、明治時代中期には「印刷局から帰郷した人物によって産地へもたらされた技術」をきっかけとして、五箇には局紙を中心とした繁栄の時代が訪れます。
 今回は悲劇談の背景を紐解きながら、当時の五箇が局紙の一大産地へ歩みだす過程について共有していきます。

※ お時間の少ない方は最後の「9.まとめと考察」をお読みいただくとコラムのおおよその全貌がご理解いただけます。

2.印刷局(紙幣寮)と五箇の関係

① 近代紙幣用紙のはじまりと「鳥の子」

 現在の紙幣用紙は国立印刷局にて機械漉きによって製造されていますが、用紙製造の始まりは明治8年(1875)東京の王子村に設置された手漉き工場「大蔵省紙幣寮抄紙局(おおくらしょうしへいりょうしょうしきょく)」です。
 江戸時代が終わり明治時代を迎えた明治元年(1868)、明治新政府は太政官札(だじょうかんさつ)を発行します。太政官札は日本最初の全国通用紙幣です。用紙製造は江戸時代に藩札用紙製造の実績があった五箇で行われ、印刷は京都の銅版師によって行われました[*1]。(写真2)

(写真2) 太政官札 原料は100枚につき雁皮4貫目・楮8貫目・米粉とされている。(『岡本村史』昭和31年(1956) 岡本村史刊行会発行  414頁) 写真の提供:越前市 紙の文化博物館

 しかし太政官札に施された銅版印刷技術はすでに普及していて、民間で容易に真似することができました。また、用紙も当時ありふれていた楮が主原料の紙で、偽造者が入手しやすかったため偽札が出回りました。
 次の紙幣では偽札を防ぐため、最新の精密な洋式銅版印刷を施した紙幣をドイツやアメリカへ発注し輸入します。しかしドイツ製紙幣は紙質が弱かったため、破損が多く発生しました。また、紙幣を輸入に頼ることは巨額の製造費を外国に支払うことになり、これは国家運営において好ましいものではありませんでした。(写真3,4)

(写真3) ドイツ製紙幣(ゲルマン紙幣)明治通宝5円券 原料は木綿屑(コットン)と亜麻 写真の出典:日本貨幣カタログ2023 令和4年 日本貨幣商協同組合発行 206頁
(写真4) アメリカ製紙幣 旧国立銀行券1円券 原料不明 写真の出典:日本貨幣カタログ2023 令和4年 日本貨幣商協同組合発行 209頁

 そこで紙幣寮は偽造防止のために独自の洋式銅版印刷技術の研究に取り掛かり、用紙製造も印刷も自分たちで行う方針へ切り替えます。新しい純国産の紙幣用紙のために紙幣寮抄紙局を設置し、「手漉き」によって製造することになりました。いくつかの例外を除いて、紙幣用紙は昭和24年(1949)まで手漉きで製造されていました。(写真5)

(写真5)  紙幣用紙の手漉き作業(大正末期ごろ) 写真の出典:大蔵省印刷局ー写真でみる100年のあゆみー 昭和47年3月 大蔵省印刷局発行 47頁

 紙幣用紙に求められる主な特性は、偽造防止のための精密な洋式銅版印刷が可能であることはもちろん、品位・風格を備え、かつ日常使用に耐える丈夫さです。明治時代初期、これらの特性を兼ね備えた紙を製造する機械漉き洋紙メーカーは1社もなかったと考えられます[*2]。
 そのため紙幣寮は日本古来の紙に着目し、全国各地からサンプルを収集しました。その結果、新しい紙幣用紙の原料として「雁皮」に重点を置いた研究が進められました。当時雁皮を用いた紙として知られていたものは「鳥の子」[*3]です。(写真6)

(写真6)  雁皮紙「越前鳥の子」

 「鳥の子」という名前は、紙の色合いが鳥の卵(鶏卵)に似ているところから名付けられたといわれています。色合いは淡黄色(アイボリー/クリーム色)で、紙質は緻密かつ滑らか、絹織物のような光沢があります。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には、「紙肌滑らかにして書きやすく、性堅くして久しきに耐え、紙王というべきか」と書かれていて、鳥の子(雁皮紙)は紙肌がなめらかで筆書きに適しているだけでなく、紙質は堅(かた)く引き締って強く、長持ちする特性がありました。紙幣寮はこの特性に着目した結果、紙幣用紙には雁皮を採用する方針に決定し、鳥の子(雁皮紙)が得意な紙漉き職人を必要としていたと考えられます。

 紙幣寮抄紙局設置と同年、紙幣寮は五箇から紙漉き職人を募集します。紙幣寮へ招かれた紙漉き職人たちは現地の局員と共に研究を重ね、新しい純国産の紙幣用紙を完成させます。(写真7,8,9)。

(写真7) 交換銀行紙幣1円券 明治10年 (通称 水兵札) 1円券は雁皮70%三椏30%の流し漉き(わずかながら紙面に紗の痕跡あり、明礬/松脂/糊など混入の痕跡なし) 5円券は雁皮80%三椏20%の溜め漉き このころはまだ「透かし」は無い[*4] 写真の出典:日本貨幣カタログ2023 令和4年 日本貨幣商協同組合発行 210頁
(写真8) 改造紙幣5円券 明治15年 (通称 神功皇后札) 三椏の溜め漉き(三椏へ転換、雁皮の痕跡あり) はじめての白透かし入り[*4] 写真の出典:日本貨幣カタログ2023 令和4年 日本貨幣商協同組合発行 211頁
(写真9) 日本銀行兌換銀券10円券 明治18年 (通称 大黒札) 三椏の溜め漉き はじめての黒透かし入り[*4] 写真の出典:日本貨幣カタログ2023 令和4年 日本貨幣商協同組合発行 213頁

 職人の募集は「鳥の子」の産地として有名だった摂津(兵庫県)名塩と、越前(福井県)五箇を対象に行われましたが、名塩からの応募者はありませんでした[*5]。また、紙幣用紙には大量かつ継続的に原料を供給できる体制が必要ですが、雁皮は栽培が難しいため、のちに紙幣用紙の原料は雁皮から栽培が容易な三椏に転換されます[*6]。(透かしについては日を改めてコラムのテーマに取り上げたいと思います)

※ 以降では旧名称の「紙幣寮」を使わずに「印刷局」と記載します。

② 印刷局へ招かれた職人たち

 印刷局へ招かれた紙漉き職人の第1陣メンバーは男女7名とされています。
 鉄道網が普及していないこの頃、蒸気機関車は大阪~神戸間、新橋~横浜間を運行していたのみで、7名の職人たちは紙漉き道具を携(たずさ)え、徒歩で東京の王子村へと旅立ちました。一行は大井川では増水によって渡し船が運行せず、宿泊・飲食費がかさんで所持金を使い果たし、さんざんな姿で上京したとされます。現代の人々には想像もつかない苦難の旅でした。
 その後印刷局に招かれた第1陣を含む職人たちの内、姓名が判明しているのは以下12名で、さらに女工30名(姓名不明)も採用されていたようです。

加藤賀門(のちに河内と改名)・山田藤左衛門・岩野源三郎[*7]
小林伊兵衛/まつ夫妻・山口岩次郎・山口わき・加藤ふじ・西野いし・西野しげ・福田さよ・小島きよ[*8]
女工30名[*9]

※ 姓名が判明している12名の中には裏付けがとられていない人物もいます。人数についても諸説あるため、当コラムでは脚注[*7],[*8],[*9]の文献によりました。

3.加藤賀門の悲劇談

 印刷局に招かれた7名の第一陣メンバーのひとり加藤賀門(かもん)について、『大蔵省印刷局百年史 第1巻』には、「岡本村の名門の出である加藤賀門は、郷土古来の紙漉秘法を他国に売渡した不届者(ふとどきもの)として排撃され、生涯郷里岡本の地を踏むことを許されなかったという、昔ならではの悲劇も伝えられている。」と記されています[*7]。(ここでの他国とは印刷局を指します)

同書では加藤賀門の悲劇談が生まれた背景は説明されていないため、以降では「加藤賀門・真柄武十郎」、2人の人物をご紹介しながら背景を紐解いていきます。

4.加藤賀門と真柄武十郎

①「越前鳥の子」の名手、加藤賀門

 加藤賀門は天保7年(1836)、新在家村の加藤河内(かわち)家の長男として生まれます。加藤河内家は江戸時代には御用奉書・藩札・鳥の子・打雲(うちぐも)鳥の子など、一般の漉き屋では生産を許されない特別な紙を漉く特権を持った、御紙屋(おかみや)[*10]という名門の家柄でした。賀門は「越前鳥の子」の名手で、「鳥の子」に着目した印刷局の意図にぴたりと合う人物でした。(写真10)

(写真10)  加藤賀門と新在家村加藤河内家 出典:賀門肖像画は『ファイナンス』大蔵省広報 平成6年(1994)4月 341号 「紙幣頭とお雇内国人」 寺尾雅治著 大蔵財務協会発行 99頁より 加藤河内家は『本日も休診 加藤譲太郎小個人史』平成6年(1994) 加藤譲治編集発行 57頁より

② 漉き屋・紙商を営む、真柄武十郎

 真柄武十郎は弘化3年(1846)、不老(おいず)村の真柄武兵衛家に長男として生まれます。真柄家は御紙屋ではありませんでしたが、こちらも名門の家柄で不老村庄屋を務め、奉書漉き屋と紙商を経営し、大店(おおだな)として手広く商売を営んでいました。(写真11)

(写真11)  真柄武十郎と不老村の店 出典:武十郎写真は『和紙の里 第21号』平成9年(1997) 「真柄武十郎の功績」 前川新一著 越前和紙を愛する今立の会発行 1頁より 店は『福井県下商工便覧』明治20年(1887) 龍泉堂発行より

③ 加藤賀門と真柄武十郎、両者の岐路

 江戸時代が終わり明治時代を迎え、江戸幕府や諸藩への販路を失って不況のさなかにあった五箇を潤したのは、明治元年(1868)からの太政官札(だじょうかんさつ)用紙の製造受注です。加藤賀門と真柄武十郎をはじめ、五箇の漉き屋では太政官札を漉きました。しかしこの受注も明治3年(1870)4月で終了してしまい、ふたたび不況が五箇を襲います。
 同年の暮れ、五箇村奉書紙会社が設立され、賀門と武十郎が代表になります。2人は奉書(ほうしょ)(上質な楮紙)の販売に力を注ぎますが経営は困難を極めました。さらに2人へ追い討ちをかけたのが明治4年(1871)の岡蒸気切符用紙の受注でしょう。岡蒸気切符用紙とは明治5年(1872)開通の新橋~横浜間の汽車乗車券で、賀門が五箇の漉き屋での製造をとりもち、東京へ納品しますが印刷機にかからず不適当と返品されてしまいます[*11]。この失敗の最終責任を誰が取ったかは明らかになっていませんが、賀門がこの負債を背負ったのではないかと私は推測します。
 太政官札用紙製造後の不況の中、賀門と武十郎は共同で五箇の和紙業復興を目指していましたが、努力むなしく両者をはじめ五箇中の漉き屋が不況に陥り、五箇では転廃業や出稼ぎが続出する状況でした。当時の五箇には紙漉き職人が新しい道を求めて故郷を離れて行くのを止めるだけの経済的な余裕はありませんでした。
 このような状況下、明治8年(1875)に印刷局からの募集があります。賀門(40歳)は新在家村の戸長(村長)を務めていましたが、岡蒸気切符用紙での多額の負債を背負い、苦悩の末に新しい道を求めて募集に応えて上京したのでしょう。武十郎(30歳)も募集されますが、行き詰まっていた五箇の和紙業復興に力を注ぐため、募集を断って郷里にとどまります。
 印刷局からの募集は両者の岐路になったと考えられます。

5.悲劇談の背景(賀門と武十郎の功績)

①「局紙」開発に関わり功績を残した加藤賀門

 加藤賀門をはじめ、印刷局に招かれた越前の職人たちは腕をふるい「越前鳥の子」の系譜を引いた国産紙幣用紙を完成させます。
 紙幣は外国製の印刷機にかけ、精密な図柄印刷を経て完成します。ここで賀門が製造をとりもった岡蒸気切符用紙の一件を思い出してみましょう。岡蒸気切符用紙は印刷機にかからず返品されてしまいましたが、その後印刷局に招かれた賀門は印刷機にかかる紙幣用紙を完成させ、失敗の雪辱を果たしたと考えることもできます。
 国産紙幣用紙完成の後には「局紙」の開発と製造にも関わったことでしょう。「局紙」という名前は、明治10年代に印刷局が三椏を原料に、洋式印刷に適する緻密な高級紙を開発して名声を高めたことにより付いた名前です。印刷局は明治11年(1878)のパリをはじめとして、万国博覧会に局紙を出品して高い評価を受けます。印刷局が局紙の輸出を始めると、海外では和製の羊皮紙(日本羊皮紙/ジャパニーズベラム)とも呼ばれ好評を得ます。滑らかな光沢と薄い卵黄色が品位と風格を感じさせる紙で、賞状用紙などに向きます。局紙も紙幣用紙同様、手漉きによって製造されていました。局紙もまた「越前鳥の子」の系譜を引いたと考えられます。
 賀門は印刷局で手漉き紙の乾燥法を改良して功績を残します[*12]。また、最終的には判任官という役職まで昇進します[*13]。

②「越前鳥の子」の販路に東奔西走した五箇のリーダー真柄武十郎

 印刷局の募集を断った真柄武十郎は、五箇の和紙業復興のために「越前鳥の子」の販路拡張に力を尽くします。太政官札用紙製造後の不況の中、明治4,5年(1871,72)頃から明治19年(1886)頃にかけて中央省庁と各府県の賞状/辞令用紙としての「透かし入り鳥の子紙」を受注するために東奔西走(とうほんせいそう)し、五箇の漉き屋にこれらを製造させていました。現代でいえば、「中央省庁の集まっている霞ヶ関と各都道府県の賞状/辞令用紙は、越前が一手に引き受けます」というようなものでしょう。さらに第二回内国勧業博覧会賞状用紙も受注、ドイツ人やイギリス人からも「鳥の子」の注文が入ります[*14]。
 また、明治31年(1898)に初めての組合「福井県岡本村製紙組合」が設立されますが、五箇の村長を務める傍(かたわ)ら組合設立委員長として熱烈に活動し、漉き屋を率いたのは武十郎でした。
 五箇の漉き屋にとって、武十郎は産地をひっぱるリーダー的存在でした。

③ 悲劇談の背景は「局紙」と「越前鳥の子」の敵対

 印刷局で開発された「手漉き局紙」は国内で賞状/辞令用紙などに使用されはじめたと考えられます。その根拠は武十郎自筆の『業務経歴書』にあります。同書には明治22年(1889)4月に大蔵省印刷局得能(とくのう)局長が透かし紙製造調査のために来村した時に、武十郎は得能局長に対して「従来五箇で製造していた透かし入り鳥の子紙を印刷局で製造したため、仕事を失い困っている」との陳情を述べた記述があるためです[*15]。この記述から読み取れることは、従来「越前鳥の子」の市場であった賞状/辞令用紙の分野に「印刷局製の透かし入り局紙」が入り込み、敵対する商品になって五箇の和紙業を圧迫している、という状況です。
 賀門が開発に関わった「局紙」は、武十郎が販路開拓に力を尽くしていた「越前鳥の子」のライバル商品として敵対する関係になっていたのです。
 ここまで見てきた賀門と武十郎の功績は、五箇の漉き屋には全く対照的に見えていたのではないでしょうか。両者の対照的な功績が五箇の漉き屋による加藤賀門への非難を生み、悲劇談が生まれる背景となったと考えられます。

ここまでお読みいただいたみなさまは「印刷局と加藤賀門は五箇の漉き屋の敵」というイメージを抱いてしまったかもしれませんが、ここからはそのイメージを払拭していきます。
「局紙」と「越前鳥の子」の敵対が背景となった悲劇談のその後、五箇は局紙の一大産地へと歩みはじめます。以降では、印刷局から帰郷した「小林伊兵衛/まつ夫妻」と「信洋社」をご紹介しながら、五箇が局紙の一大産地へと歩みだす過程を紐解いていきます。

6.局紙の一大産地への歩み

① 印刷局から帰郷した小林伊兵衛/まつ夫妻

 印刷局の募集に応じた五箇の職人は誰一人として郷里に帰ることはなかったのでしょうか。実はそんなことはありません。印刷局から帰郷し、印刷局での経験や知識を五箇にもたらす人物もいました。第一陣メンバーの小林伊兵衛/まつ夫妻(新在家村)です。小林夫妻は印刷局では優秀な技術者として功績を残し、8年間を勤めたのち明治16年(1883)年に郷里五箇に帰郷し、高野製紙場(社長 高野治郎 新在家村)で紙漉きに従事します[*16]。

② 小林夫妻による信洋社での局紙製法伝授

 明治19年(1886)創立の信洋社(定友村)においては、小林夫妻は高野製紙場から転向して図引用紙の改良漉きと光沢紙の製法を伝授します[*16]。図引き用紙も光沢紙もどちらも局紙に属するものです。信洋社は社長に真柄武十郎、副社長に高野治郎、支配人に西野弥平次が就任した共同出資会社でした。

③ 局紙製造の繁栄

 信洋社は設備投資資金に絡む問題によりわずか2年で解散してしまいますが、その後それぞれの自社である不老製紙場(真柄武十郎)、高野製紙場(高野治郎)、信洋舎(西野弥平次)に復帰し、局紙製造に従事します。信洋社を解散後すぐにそれぞれの自社で局紙製造を開始したことから、本当の解散理由は「設備投資資金の問題というよりも、局紙製造にある程度の目処がついたので自社生産での利益追求を目指すためだったのではないか」と私は推測します。
 その後五箇と印刷局との交流により、五箇に新しい知識や機械がもたらされ、続々と局紙の漉き屋が発足します。蒸気汽缶(ボイラー)や製紙機械を導入し、手漉きから機械漉きへと転換する漉き屋も現れ始めます。局紙製造は手漉きと機械漉き両輪で繁栄の道を歩み始め、五箇は局紙を中心とした一大産地へと成長していきました。

7.五箇の局紙は「越前鳥の子」の里帰り

 いま一度五箇の局紙のルーツを振り返ってみましょう。
 まず加藤賀門が得意とした「越前鳥の子」の系譜を引いた紙幣用紙が印刷局で生まれ、さらにこの系譜は印刷局製の「局紙」へと引き継がれます。その後局紙の製法は小林夫妻により五箇へもたらされ、印刷局との交流が盛んになり、現在も越前和紙の品種のひとつとして生産が続けられている局紙類(賞状/証券用紙/名刺/ハガキ/印刷用紙など)のルーツとなりました。
 つまり、「越前鳥の子」が印刷局で進化し、印刷に適する「局紙」となって五箇に里帰りして繁栄をもたらした、と考えることができるのではないでしょうか。(図1)

(図1) 「越前鳥の子」の系譜と里帰り

8.加藤賀門と真柄武十郎の最期

 賀門は明治25年(1892)11月、東京において57歳で永眠します[*18]。賀門が再び郷里の地を踏んだのかは今となっては分かりません。
 武十郎は組合設立を見届けられずに明治30年(1897)4月、51歳で永眠します。

9.まとめと考察

 純国産の紙幣用紙開発にあたって雁皮紙「鳥の子」に着目した印刷局(紙幣寮)は、鳥の子が得意な紙漉き職人を必要としていました。不況の中、加藤賀門と真柄武十郎は共同で五箇の和紙業復興を目指していましたが、2人は岐路を迎えます。印刷局は五箇の紙漉き職人を募集、「鳥の子の名手」加藤賀門は募集に応じて紙幣用紙と局紙開発に関わりました。真柄武十郎は募集を断って五箇にとどまり、賞状/辞令用紙としての「越前鳥の子」の販路を拡大するなど、五箇の和紙業復興に力を尽くし続けました。
 「加藤賀門の悲劇談」が生まれた背景は前述した賀門と武十郎の対照的な功績であり、それは「印刷局製の局紙」と「越前鳥の子」の、賞状/辞令用紙の市場における敵対関係でした。
 その後、局紙の製法は印刷局から帰郷した小林伊兵衛/まつ夫妻によって五箇にもたらされ、五箇は局紙を中心に一大産地へと成長していきます。
 現在の越前和紙の生産品である「局紙」のルーツを辿ってみると、まず賀門が得意としていた「越前鳥の子」があり、武十郎が受注に東奔西走した「賞状/辞令用紙の越前鳥の子」があります。武十郎の活躍と並行しつつ、印刷局では賀門が開発に関わり「越前鳥の子」の系譜を引いた「紙幣用紙」と「印刷局の局紙」が生まれます。その後局紙の製法は小林夫妻によって五箇へともたらされた、といった流れになるでしょう。
 現在の越前和紙の生産品のひとつである局紙は「越前鳥の子」が印刷局で進化し、印刷に適する「局紙」となって里帰りして繁栄をもたらした、と考えることができるのではないでしょうか。

 さて、明治10年代に印刷局の局紙が賞状/辞令用紙の市場に入り込み始めてしばらくの間は、賀門をはじめ印刷局の募集に応じた人々への非難は大きかったかもしれません。しかし小林夫妻が帰郷後、五箇の局紙の繁栄を目の当たりにすると漉き屋による賀門への非難は次第に「昔ながらの悲劇談」へと変化していったのではないでしょうか。
 このような経過をたどり、現在の五箇では悲劇談に記されたような、印刷局や賀門に対しての非難は無く、むしろ本コラムに登場した賀門を含めた幕末~明治時代の先人たち、ならびに印刷局への感謝と敬意の気持ちの方が大きく占めている、と私は考えます。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

▼次回は今回登場した「越前鳥の子」についてみなさまと一緒に考えていきたいと思います。
第3回のテーマは『越前鳥の子の昔と今』です。
次回もお楽しみに!

- 脚注

[*1] 『大蔵省印刷局百年史 第1巻』昭和46年(1971) 大蔵省印刷局発行 32頁

[*2] 『大蔵省印刷局百年史 第1巻』昭和46年(1971) 大蔵省印刷局発行 286頁

[*3] 「鳥の子」は扁平(へんぺい)な雁皮繊維の特徴によって紙の密度が高いので、にじみが少なく発色の良い紙になります。「越前鳥の子」は中世後期の宮廷女官の日記・公家の日記・僧侶の日記などに度々登場するので、このころには高品質な鳥の子の産地として有名だったと考えられます。江戸時代には「越前鳥の子」は以下のように高く評価されます。
「およそ 加賀奉書 越前鳥の子、是を以て紙の最となす」貞享1年(1684)『雍州府志』
「越前府中から出る。紙肌滑らかにして書きやすく、性堅くして久しきに耐え、紙王というべきか」正徳2年(1712)『和漢三才図会』
「鳥の子」は昔も今も最高級の紙といえるでしょう。

[*4] 『大蔵省印刷局百年史 第2巻』昭和47年(1972) 大蔵省印刷局発行 57~64頁・312~318頁・321頁

[*5] 『大蔵省印刷局百年史 第1巻』昭和46年(1971) 大蔵省印刷局発行 97頁

[*6] 『大蔵省印刷局百年史 第2巻』昭和47年(1972) 大蔵省印刷局発行 268~275頁

[*7] 『大蔵省印刷局百年史 第1巻』昭和46年(1971) 大蔵省印刷局発行 291~293頁

[*8] 『岡本村史 近代史一部原稿』 飯田栄助著 昭和17年(1942) 越前市今立図書館蔵

[*9] 『大蔵省印刷局百年史 第2巻』昭和47年(1972) 大蔵省印刷局発行 270頁

[*10] 御紙屋(おかみや)の特権は他にも、他藩へ販売する紙を統率して取り仕切る、「改め役」というものがありました。御紙屋には三田村和泉・清水山城・加藤河内・高橋因幡などが居ました。

[*11] 『岡本村史』昭和31年(1956) 小葉田淳編著 岡本村史刊行会発行 424~425頁
『今立町誌 第1巻 本編』昭和57年(1982) 今立町役場発行 737~738頁
『越前和紙のはなし』昭和48年 斎藤岩雄著 越前和紙を愛する今立の会発行 204~206頁
『今立町誌 第2巻 史料編』昭和56年(1981) 今立町役場発行 329~330頁 加藤河内家文書「岡蒸気切手紙ニ付上申書」
(以下要約)

岡蒸気切手紙ニ付上申書

 上申候
            武十郎賀門
加藤賀門が上京の際に、楮幣局の中村啓次郎から岡蒸気の切手用紙製造の相談をうけ、見本紙をもらいうけ帰国した。これは明治5年9月に開通した新橋ー横浜間の汽車乗車券のことである。賀門は漉屋惣代と相談して、漉屋惣代から漉屋へ配当、たちまち74000枚を製造し、56000枚を東京へ送り、17000枚が五箇村に残った。
東京からは印刷機械にかからず不適当と返品されてしまった。漉屋には五箇村奉書紙会社から2600円を支払ったが、残った紙を紙屑として売り払っても600円でも買い手がない有様で、1900円の損失となった。
賀門は漉屋に対して「今試作しているこの紙でよいか東京へ確認するから、それまでしばらく紙漉きを中止して欲しい」と繰り返し相談していたが、漉屋は耳を貸さずに漉いてしまった。
賀門は惣代として斡旋したまでであるから、損失金の半分を五箇村からも弁償して欲しい。
            加藤賀門(印)
 小三区 正副戸長御中

(この上申書からは、太政官札の受注が終了し不況に陥っていた五箇の製紙業者が、見本紙を十分に検討する余裕すらなく、渡に舟と飛びついたありさまが想像できます。太政官札が印刷できたからといって、同じ漉き方の紙で岡蒸気の切符用紙が印刷できるとは限らなかったのでしょう。時代の転換期に激動する社会情勢の中での、五箇の漉き屋のあせりと苦悩が垣間見れる出来事でした。1900円の損失については、明治前半の1円の重み(価値)は現在の2万円程度とされていますので、現在では3800万円程度と考えられます。)

[*12] 『印刷局沿革録』明治20年(1887) 印刷局発行 204頁
明治十二年十二月廿八日抄紙部技生加藤賀門抄造紙乾燥事業ニ付良法ヲ案出シ損紙ノ歩合ヲ減セリ

[*13] 『ファイナンス』大蔵省広報 平成6年(1994)4月 341号 「紙幣頭とお雇内国人」 寺尾雅治著 大蔵財務協会発行 99頁
『和紙の特別展/お札と花』出展目録 平成9年(1997) お札と切手の博物館/大蔵省印刷局記念館
判任官は現代でいえば、「上層部や幹部に近い位置付けの中間管理職」と考えられます。
『印刷局沿革録』明治20年(1887) 印刷局発行 312~313頁・338~339頁に依ると、明治18年(1885)時点の印刷局抄紙部(紙漉き工場)における職員総数643人中の3人が判任官という役職に就いています。また、明治19年(1886)時点では職員総数989人中の3人が判任官に就いています。

[*14] ・中央省庁御用鳥の子紙(太政官透かし御紋/陸軍省/内務省/文部省透かし入など)
       ・各府県名透かし入辞令/褒状用紙(岐阜/福井/兵庫/茨城/長野/山形/石川/鳥取/岡山/広島/山口/愛媛/埼玉/大分など)
       ・第二回内国勧業博覧会賞状用紙
以上、『和紙の里 第21号』平成9年(1997) 「真柄武十郎の功績」 前川新一著 越前和紙を愛する今立の会発行より抜粋
これら透かし入り鳥の子紙が、後に賞状/証券用紙の市場を越前が独占する基礎となったと考えられます。

[*15] 『業務経歴書』年不詳 真柄武十郎筆 石川満夫蔵
明治22年4月大蔵省印刷局得能事務長透漉紙製造実査ノ為メ出張此際従来当地方ニ於テ抄製セシ透漉鳥ノ子紙類ヲシテ同局抄紙科ニ於テ製造セラレシタメ地方産業ヲ失ヒ営業躊躇ノ旨ヲ述ブ

[*16] 『高野二三伝』 昭和18年(1943)  戸羽山瀚編著発行 104頁
『和紙の里 第21号』平成9年(1997) 「真柄武十郎の功績」 前川新一著 越前和紙を愛する今立の会発行 9頁

[*17] 『大蔵省印刷局百年史 第2巻』昭和47年(1972) 大蔵省印刷局発行 322~333頁
印刷局は副業として局紙/壁紙/革紙/各種の特殊紙/石鹸/靴墨などを生産していましたが、明治18年(1885)ごろから次第に民業へと移していきました。
局紙は明治25年(1892)ごろに生産終了します。

[*18] 『和紙の特別展/お札と花』出展目録 平成9年(1997) お札と切手の博物館/大蔵省印刷局記念館
『本日も休診 加藤譲太郎小個人史』平成6年(1994) 加藤譲治編集発行 68頁

- 参考文献

『印刷局沿革録』明治20年(1887) 印刷局発行

『大蔵省印刷局百年史 第1巻』昭和46年(1971) 大蔵省印刷局発行

『大蔵省印刷局百年史 第2巻』昭和47年(1972) 大蔵省印刷局発行

『ファイナンス』大蔵省広報 平成6年(1994)4月 341号 「紙幣頭とお雇内国人」 寺尾雅治著 大蔵財務協会発行

『和紙の特別展/お札と花』出展目録 平成9年(1997) お札と切手の博物館/大蔵省印刷局記念館

『第30回東京国際コイン・コンヴェンション』ブックレット 令和1年(2019) 「我が国の紙幣印刷近代化に貢献した人々」 植村峻著 日本貨幣商協同組合発行

『日本貨幣カタログ2023』 令和4年(2022) 日本貨幣商協同組合発行

『紙幣肖像の近現代史』 平成27年(2015) 植村峻著 吉川弘文館発行

『岡本村史』昭和31年(1956) 小葉田淳編著 岡本村史刊行会発行

『岡本村史 近代史一部原稿』昭和17年(1942) 飯田栄助著  越前市今立図書館蔵

『今立町誌 第1巻 本編』昭和57年(1982) 今立町役場発行

『今立町誌 第2巻 史料編』昭和56年(1981) 今立町役場発行

『本日も休診 加藤譲太郎小個人史』平成6年(1994) 加藤譲治編集発行 越前市紙の文化博物館蔵

『業務経歴書』年不詳 真柄武十郎筆 石川満夫蔵

『高野二三伝』 昭和18年(1943) 戸羽山瀚編著発行

『季刊和紙』第15号 平成10年(1998) 対談 前川新一 石川満夫「波乱を好機に変えた男たち」 全国手すき和紙連合会発行

『越前和紙のはなし』昭和48年 斎藤岩雄著 越前和紙を愛する今立の会発行

『和紙の里 第21号』平成9年(1997) 「真柄武十郎の功績」 前川新一著 越前和紙を愛する今立の会発行

『和紙の里 第23号』平成11年(1999)  「西野弥平次の生涯と功績」 前川新一著 越前和紙を愛する会発行

『和紙の里 第24号』平成12年(2000)  「高野治郎・豊・二三の生涯と功績」 前川新一著 越前和紙を愛する会発行

文責 (株)山路製紙所 山路勝海
令和4年(2022)12月執筆

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