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はじまりのはなし…不足感⑥

足りないもの...何か忘れている気がする。

「空(クウ) と空(カラ)とは異なるのです。クウとは有るが無い状態であり、カラとは無いが有る状態なのです。
有る事を求める事と、無いものを求める事は余り相違ございません。
足りないという意味では同義であり、求める本質は同じです…ただ、カラとは全てが満たされなくとも…それが一欠片でも…どれだけ少量でも…何かが有る状態になれば、カラはカラでは無くなります。
しかし、クウとは無いままに在り続け、有る事の許されぬままに横たわっているのです。
クウとは常にクウなのです。それ程、際限も無く足り得る事の無いものなのです。それは何と悲しい事でしょう… 」

商店街の花屋に寄って、窓辺に置く小さな向日葵は買ったし…暇つぶしに読む小説は、夕べ鞄に入れた…お茶はビニール袋に入れたし…インスタントコーヒーはまだ棚にあった…ガスの元栓は閉めたし、玄関の鍵はわざわざ一度戻って、閉めた事を確認し直した。

それでも何か忘れている気がする…それなのに慌てて電車に乗ってしまった…
なんだったかなぁ…彼女に何か頼まれていたような…記憶が定かではなく、曖昧ではっきりしない...何度自分に大丈夫と言い聞かせても、なんだか落ち着かない。

これだからいけない...心配ばかりして余計な物ばかり買ってしまう...不必要な物が増える...断捨離しなきゃいけないと思いながらも、コンビニで貰った割り箸は溜まる一方だし、ビジネスホテルで貰った使い捨ての歯ブラシやら、一枚刃のT字カミソリやら...中々捨てるに捨てられない。

「あっ、歯磨き粉だ…」

彼女に頼まれたホワイトニングの歯磨き粉は駅前のコンビニにあるだろうか?無ければ少し歩いてドラッグストアに行かなければならない。病院とは反対方向だが、仕方がない。ドラッグストアに寄るのなら、序でにボディーソープと洗濯用洗剤とトイレットペーパーと...いや、そんな大荷物で帰りの電車に乗るのは厳しいだろう。序でにがいつも余分である。

僕は実家に置いておけば良かった学生時代のガラクタまで一緒に引っ越して、今の部屋の押入れに閉じ込めてしまった。

すっかり色褪せてしまった教科書や、落書きだらけの地図帳…グリコのおまけや、キン肉マン消しゴムにプロ野球カード…このまま順調に人生を積み重ねれば、僕はいずれゴミ屋敷の主人になるだろう。

そう言えば近所にも、そんな人が一人居るらしい…
最近たまたま見たテレビ番組で特集されていた…大体そういう屋敷の主人というのは偏屈で頑固と相場が決まっていると思っていたが、テレビに映るその人は、愛嬌があって人懐っこい雰囲気の人だった。

軽蔑の表情を浮かべた若い女性リポーターの質問にも楽しそうに笑顔で答えながら、ゴミを拾った時や貰った時…家の前に勝手に不法投棄された時など…ひとつひとつのゴミに纏わるエピソードを詳細且つ雄弁に語っていた。

ゴミ屋敷の主人は自分が晒し者にされていることを理解しているのだろうか?それともお宝鑑定か何かの番組と勘違いしているのだろうか?
ゴミを集める人…高級な美術品を集める人…どちらも収集癖に変わりない…

だが、大枚叩いて物欲を満たしている人の方が世の中では一般的であり、誰にも愛されることのないゴミを、一生懸命コレクションしているおじさんの熱意は狂気としてお茶の間に紹介される。

「ゴミの処分に困っている人の役に立つ事が嬉しいんです。それが私の生き甲斐なんです」

ゴミ屋敷の主人が見せた真っ直ぐでピュアな眼差しは、…彼女が躁状態の時に見せる、無邪気で妙に幼稚な目つきと重なった。捨てられない大量の思い出に囲まれながら眠る彼も、彼女と同じく胎児の様に眠るのだろうか?

それにしても、還暦を迎えているかどうかの彼と…彼女が重なって見えるなんて…僕は疲れているのかもしれない。近頃はビル清掃の夜勤明けにシャワー浴びるばかりで、湯船に浸かっていないからだろう。久し振りにちゃんと湯船に浸かれば、僕も羊水に満たされた胎児の様にぐっすりと眠れるのかも知れない。

彼女のお母さんは、残業で帰りが遅くなる日には必ずケーキを買って来て、寝ている彼女を揺り起こしては一緒に食べたらしい。
そのお土産のケーキが入った小さな箱には、必ずリボンの形をした可愛らしいシールが貼ってあって…彼女はそのシールをこっそりと集めては、母の日の手紙に貼ったり…カレンダーの記念日に貼ったりしていたらしい。
その習慣は大人になっても続き、二人の誕生日や入籍する予定だった日にも、リボンのシールが貼ってあった。

「コーヒーとか紅茶じゃなくてさぁ…いつも熱い緑茶を淹れるだよね…お母さんって、そういう所がズレてるんだよね」

「君のお母さんらしいね…」

「毎回ケーキっていうワンパターンな所とかね...でも、お母さんなりに精一杯だったと思うんだ…お父さんがいない分…辛い思いをさせないようにって…」

「そうかなぁ…単純に娘の笑顔が見たかったんじゃない?…そんな人だと思うよ」

「へぇ〜、よくご存知で」

いつだっただろう...そんな話をした事を思い出した。彼女が〝お父さん〟という言葉を口にする事は珍しい。自分から話す事は少ないし、恐る恐る聞いたとしても、物心が付く前に亡くなってしまったと言うだけで、それ以上の事はいつもはぐらかされてばかりだった。結婚式について相談している時も、新婦父の席に遺影を置くかどうかで、少し喧嘩になりそうになった。

「賑やかな挙式にした方がね。しんみりさせても...」

「うん...でも、お母さんは嬉しいんじゃ?」

「私は全く覚えてないから...」

「まぁ、そうだろうとは思うけど...」

「全くって事は...お父さんの遺影を見たって、他人を見ているのと同じって事...だから悲しみもないし、愛情もないの。でも、悔しい気持ちはある...色んな事があったから、嫌な事ばかり思い出す...だから、そんな事を言われても困る」

「...ごめん」

それだけ彼女にとって父親が居ないという事は、コンプレックスなのだろう。僕は仕事で忙しかった父親が、運動会や父兄参観に参加してくれなかっただけでも辛かったのに...彼女は幼い頃から心に大きな穴ボコが空いた状態で生きて来たに違いない。それはミロのヴィーナスが、どれだけ美しくても腕が無いのと同じで...どれだけ彼女のお母さんが素晴らしくても、埋め合わせる事の出来ない欠落だったのだろう。

車内アナウンスが流れ、窓の向こうに病院が見えた。駅にはもう直ぐ到着する。ドラッグストアで歯磨き粉を買ったら、何か季節の果物が入ったケーキを買いに行こう...

駅の近くに、ケーキ屋さんはあっただろうか?

続く

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