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#07「マンガのなかのわたし」(第2話:作者のアバターに聞いてみよう)

WONDER ORDER(あるいはORDER WONDER)では、マンガ・リフレクションを通して、なぜか気になる対象(ワンダー:不思議)について考え、そこにある本質(オーダー:秩序)を少しでも理解しようと思索を進めていきます。どこに向かうかわからない漫(そぞ)ろな足取りになりがちですが、The Sense of Wow!der の心持ちで、学習と創造のプロセスを楽しみ、記録していきます。

第7回は、第6回に引き続き「マンガのなかのわたし」をテーマに、自伝コミックスやエッセイマンガのなかの「わたし」について考えます。一緒に面白がっていただけたら、嬉しいです。

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お読みいただき、ありがとうございます。

そもそも、マンガ・リフレクションと名づけているこの活動は、自己分析に近いところがあると思います。けれど、そこにマンガのある種の文法のような強制力に身を委ねたり、フィクションをからませていく。あるいは、自分でも思いがけないキャラたちの振る舞いによって、思考が触発されるということが起こります。「マンガのなかのわたし」について考えるなかで、この「」(=不思議)自体が、強烈に意識されました。

第1話で、「私たちは誰の分身(アバター)か?」という「問い」を際立たせる演出をしたことで、この物語を動かす「問い」の不動点が生まれました。

そのため、物語はこの「問い」を中心に進んでいくことになりました。もちろん、わたし自身もこの「問い」が気になるからそうしたけれど、実は、わたしの「問い」は、もう一つメタな次元にある感じもする。だから、マンガのなかでキャラには見えていない「作者の手」が介入してくる演出をしたくなったのだろうなと思います。

マンガ・リフレクションでは、自分なりの「問い」の設定と「答え(仮説)」の導出や、それを演出するビジュアル表現に無意識が露呈しているはずで、制作したマンガ自体を分析の解剖台にあげることができる。

つまり、マンガを精神分析の素材にできる。言葉とビジュアルの両面で思考しているから、分析するための「とっかかり」が多いと思います。

と、精神分析の話が出たところで、
ルジュンヌ『フランスの自伝』を読んで、ハッとさせられたことを紹介したいと思います。

まず、ルジュンヌが、さまざまな自伝作家と作品を分析して述べている自伝観に、わたしはすごく共感します。少し長いですが引用します。

自伝作家自身、歴史的正確さという点では自分の試みに限界があることを誰よりもよく意識している。その限界をやむを得ないものとして容易に受け入れるのは、自分が探求している真実は歴史家の真実とは異なるものだ、ということを多かれ少なかれ知っているからである。みずからの歴史を綴ること、それは自己を知ろうとする以上に自己を構築しようとすることなのだ。たいせつなのは歴史的真実を明らかにすることではなく、内的な真実を露呈させることなのである。自伝作家が求めるのは資料や網羅性よりも、意味統一性である。(…)誠実さという不毛な問題ではなく、真正さという問題を立てなければならない。真実を所有することではなく、真実たることが重要なのだ。(※太字は原典での傍点箇所)

フィリップ・ルジュンヌ、小倉考誠 訳、『フランスの自伝』(p.84)

このような自己を構築する行為である、「自伝」を書くこと。自伝は原則として一度しか書かれないわけですが、エッセイであっても、上記の感覚は同じだと思います。

では、どうやって自分の内的な真実を解剖することができるだろう

そう考えたとき、精神分析の方法が、自伝を描くことに役立つ理論や方法を提供してくれると考えがちです。わたし自身、ふわっとそう感じていました。しかし、次の一節を読んで、ハッとしたのです。

一見したところ精神分析は、それまで経験的なものにとどまっていた自伝作家の探求に、いわば理論的基盤を与えることによって、自伝の企図を正当化してくれると考えられよう。そして、人格はその歴史によって説明され、この歴史のもっとも重要な部分は子供時代であるという公準を裏付け、未来の自伝作家により有効な方法を提供してくれる、と考えられるかもしれない。だが、現実はかなり違う。(※太字は筆者=田中による強調)

フィリップ・ルジュンヌ、小倉考誠 訳、『フランスの自伝』(p.91)

ルジュンヌによれば、「自伝を綴るという企図と行為」と「精神分析」は、目的が異なるため「完全に対立」しており、「同じ地平には位置付けられない」ものです。

そしてさらに、精神分析と自伝、そして自己分析の違いを4つの観点から区別していきます。整理した図を添付します。

そしてルジュンヌは、次のように述べます。

 われわれが「自伝契約」と呼んだものと、精神分析学者が分析の「基本原則」と呼んでいるものを対比してみるとき、以上のような相違をよりよく要約できるだろう。自伝契約は、ナルシシズムと露出趣味が関与する相互交流のなかで、一人の個人と厖大な読者大衆を結びつける契約である。それにたいして、基本原則は診察室の秘密のなかで患者と医者を結びつける契約であり、患者のほうは最終的にすべてを「告白」するのではなく、単に、まずすべてを話すと約束するのである。
 したがって精神分析の観点からすれば、自伝は認識の試みというよりも、むしろ人格を構築するための試みにほかならない。自伝は、それが示してくる行為をつうじて、そしてまた意識せずにそれが解釈にゆだねる思い出や物語をつうじて、精神分析に多くの材料を提供してくれる。精神分析が誰かに「手段」や方法を提供することがあるとすれば、それは自伝の著者にではなく、むしろその読者にである。 
(※太字は筆者=田中による強調)

フィリップ・ルジュンヌ、小倉考誠 訳、『フランスの自伝』(pp.94-95)

ルジュンヌは、精神分析が「認識の試み」だとすると、自伝は「人格を構築する試み」だとして整理しています。そして、精神分析は、自伝の作者ではなく読者に素材を提供することができるのだと。

なるほど確かに…

わたしは、ルジュンヌの整理にハッとさせられると同時に、自分の活動をルジュンヌの整理に位置付けるとしたら、どうなるのだろう?という疑問を持ちました。

というのは、今続けている「マンガ・リフレクション」という活動は、自伝や自己分析の活動に近いにも関わらず、精神分析に近い活動も組み込まれている(精神分析医ではありませんが)という感じがあるからです。

マンガ・リフレクションであったり、もっと拡大して省察的実践により何かを制作し続ける行為は、作品という「かたち」のある実体として思考をアウトプットする。生み出された作品は、自分と「分離」される。これが、わたしの実感です。分離された作品を、自分とは関係のない何かとして理解しようとしながら、また自分の作品制作に組み込んでいく、そういう思考のダイナミズムが感じられます。

そして、特にマンガ・リフレクションの場合は、マンガという表現形式が持つある種のシステム(=学習環境)による制約が、まるで世界や他者と対話するような感覚をともなってくる。人間関係のなかで生まれてくるような何かを伴って(幻想だとしても)、立ち現れてくる

たとえば、マンガ内で展開する物語と作者自身の学びがパラレルに進行するなかでのギャップや、キャラやキャラクターの振る舞いや発言に対する驚き、無意識で浮かんでしまった情景や映像の謎を作者自身が問い続けるなかでの発見の連鎖など。

マンガのシステムによる制約が、対話的な何かを生み出します

このことについては、あまり似たような議論が少ないようにも感じています。マンガ・リフレクションを続けていくことで、もっと深く理解して言語化していけたらよいなと思えました。

今回は、マンガの内容そのものというより、マンガ・リフレクションという行為そのものへと思考が発展したため、とても振り返りコメントが長くなりました。しかし、これこそが、マンガ・リフレクションの醍醐味でもあると感じています。


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