【Hiro's 】転職前夜① 新人時代の本
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2000年代初頭のドコモは、iモードでモバイルインターネットで世界最先端を行き、ビジネス誌で何度も特集が組まれるなど、イノベーティブな会社というイメージが浸透していたように思う。
そういう先進的な取組をしていることは紛れもない事実で、僕もそういう仕事を手掛けれるようになりたいと思いながら、新卒時代を過ごしていた。一方で、ドコモのビジネスの土台、基礎にあるのは「電話通信」で、その巨大なインフラを支えてきたのは、ドコモとして分かれる前のNTT、さらにNTTが民営化する前の電電公社、という時代から続いてきた企業風土、文化であり、経営者、社員たちだった。
そういう見地から、振り返って、考えらえれるようになっているが、新人時代の僕は、当時から語られていた『放送と通信が融合するという近未来』に関わりたいと思いながら、大企業の社会人という世界の新鮮さに気分が高揚したり、一方で、不思議さに途惑いながら、想定外だった「地方支店勤務」という日々をそれなりに楽しんでいた。
当時、新人の僕に「不思議なこと」として映っていたものは色々あった。というより、かなりそもそもの部分が、よくわからなくて、そんなことに疑問を持つ自分の方が変なのかもしれない、と思いながら、漠然と大きな「?」をもって過ごしていた。
うまく表現できてると思わないが、言うなれば、先輩や上司たちの社会人としての行動を支えているものは何なのだろう、ということについて腹落ちがなかなかできなかった。
・なんで上司の言うことを聞くことになっているのだろう?
・何が評価の基準なのだろう?
・評価に差がついても給与や昇進にそこまで差がつかないことについて、色んな意見がないのだろうか?
・評価されないことはしちゃいけないんだろうか?(それだと新しいものとか生まれない気もするけど)
・人事異動もかなり運が影響するようだが、それに納得するのが当然と思える感覚ってどこから来るんだろう?
当時、こんな言語化をした形で疑問に思っていたわけじゃないけれど、要するに多分こういうことがどことなく「?」で、一つ一つについての疑問というより、「企業人、サラリーマンという生き方ってどういうことなの?」というところにしっくりと来てなかったように思う。
後に初めての転職をする段になり、実はカルチャーフィットのない職場だったのでは、という「!」に気づくことになるが、あのときのように仕事、サラリーマンというものについて、その情報をどう受け止めて良いかという枠組みが、ひどく脆弱だったこの頃の僕は、就職活動を2年もやって多少の知識はインプットしていたつもりだったけど、うまく消化しきれず、他の会社や、カルチャーの存在に目を向けるという発想にもならず、「何か自分がおかしいんだろう」と思い始めた(多分にそういう部分もあったろう)。
この漠然とした「?」に取り組もうと思って取った方法は「サラリーマン小説」を読み漁る、ということだった。
地方支店での1年目はとにかく暇だったので、近所の国道沿いにあったBOOK OFFのパチ業態など数件の本屋を回って、高杉良の企業小説を片っ端から買い込み、仕事の終わる夕方から寝落ちする深夜まで読み続けることを数カ月続けた。
『金融腐蝕列島』『広報室沈黙す』
『燃ゆるとき』『挑戦つきることなし』
『人事権』『虚構の城』『大逆転』
などなど、どの順番で読んだか、何冊読んだかは覚えていないし、プロットなど具体的な内容自体もほぼ忘れたが、ストーリーに登場する、企業人たちの頑張り、悲哀、苦闘というものを読みながら、
「こういうときはこう受け止めるのがサラリーマンなのかぁ」といった、「事象の処理の仕方」のサンプルを自分の中にインプットしていった。
「小説」なので、人間ドラマは鮮やかに描かれていたし、熱い思いを持った人たちをめぐる話であったが、企業小説というものに免疫がなかった僕にとって、職場舞台で、会社員が主人公の物語はかなり地味なテイストだと思った。ただ「地味な世界」の中で、モチベーションを持ち、目標や夢を持ち、理不尽なめぐり合わせにもあいながら、生き抜いていく様を描くのが面白く、文字通り「勉強になるわぁ」という感じで、かなりハマった。
この数年後に、気がつけば、投資銀行、バイアウトファンドという仕事をするようになっていたが、そういう選択をするようになったのは『ハゲタカ』や、黒木亮の『トップレフト』『アジアの隼』などを読んだことも幾ばくか影響があると思う。そういう企業を舞台にした小説を手に取って、初めて「面白い」と思って読み耽った”高杉良・時代”の印象は強い。
当時の大企業に入ったものの一般常識のような、”業務命令”、”人事権”というものや、企業人としての立ち振る舞い、みたいなものを、文字の情報としてでなく、人物像からまるまるインプットできたことは、ある意味効率的だったようにも思う。
とはいえ、結果的に、伝統的インフラ大企業のカルチャーにフィットし損なった僕は、高杉良の作品に出てくる人物像にも心から共感することができなかったのだと思う。
ドコモを去ろうと決心した数カ月前、僕は舞浜駅のすぐ近く、
普段はディズニーランドに行く人が宿泊するホテルの宴会場で繰り広げられている「NTTグループ組合研修」なるものの会場に、身を置きながらも、
研修内容を一切聞かずに、僕は一日中、一冊の本を読み耽っていた。