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初めての転職【Hiro's Subject】

社会人になって3年が経ち、4年目を迎えた2006年の6月、僕はリクルートエージェント(当時はリクルートエイブリック、以下、いずれも"RA”)でSier企業向けに人材紹介の営業職に就いていた。オフィスは虎ノ門の霞が関ビル。銀座線で一本で行けることから、台東区の三ノ輪駅近くに一人暮らしを始めた。念願の東京での一人暮らし。RAには結果的に1年しか在籍しないことになったが、僕の社会人人生を振り返って、純粋に一番楽しい時期の一つだった。実は、まともに電車通勤をしたのもの、社会人生活20年を超える中で、この1年だけで、最初の3年は車通勤。次の職場では徒歩。今では自転車とバイクがメインとなっている。

新卒で入ったNTTドコモでは群馬支店に配属され、そこで丸3年過ごした。初めての人事異動によって4年目から東京に戻ってくることは確約されていたが、その配属先が正式に決まる直前に退職を願い出た。

内定してたのはRAと、ワークスアプリケーション(WA)の2社で、どちらもドコモ時代と同様、法人営業職での採用だった。WAのユニークな企業カルチャーや新規性のある事業領域は魅力的だったが、リクルートグループの方は複数の親しい友人が入社している安心感や、新卒時にドコモと最後まで迷っていた先がRAの競合だったくらい人材紹介の領域にはもともと興味が強かったこと、最初の給与水準がRAの方が高かったなどの要素で決めた。

就職留年までして入社した企業を辞めようと思った理由は”焦燥感”にあった。「もっとこういう仕事がやりたい」というVision先行ではなく、この環境にこれ以上いることがマズイのではないか、という思いが後押しした。
3年間在籍したドコモは間違いなく「素晴らしい会社」だった。i-modeが爆発的にヒットし、日本だけでなく世界においてもモバイルインターネット領域を牽引。退職時点は3G帯の普及や、キャッシュレス機能をいち早く取り入れたお財布ケータイを普及させ、契約数も6,000万に迫ろうという、企業としてこれ以上ないくらいの安心安定の勤務先だったと思う。

ただ、企業としてどれだけ素晴らしいとしても、僕にとっては勤務先として理想的な環境ではなかった。要するに企業カルチャーとフィットしなかった。電電公社からのインフラ企業の性格が想像以上に色濃く、労組の発言権も強いこともあって、夜遅くまで働くことが企業として推奨されていない。そもそも水曜日はノー残業デーで、18時には退社しなくてはいけない。「そんなに根詰めて働いてもしょうがないぞ」ということを先輩や、上司によく言われた。
2000年代前半の当時から”ワークライフバランス”という観点で言えば申し分なく、産休・育休からの復帰も当たり前にできる女性目線でも働きやすい会社だったと思うが、社会に出て経験やスキルを高めたくて仕方なかった僕は、リクルートや、総合商社、グローバルメーカー、マスコミ、ベンチャー企業などに就職した社会人同期の友人たちと、スキル、経験や年収面での差が、どんどんついていっているような気がしていた。

そんな強い危機感から自己啓発本やビジネス書を買い込み貪るように読み、オーディオブックで営業車での移動中も聞き続けた。内定者時代から主催していた「異業種交流会」を開催し続けるために土日は毎週のように東京に帰っていた。焦りはあったが、語れる経験・実績が何もなく「石の上にも3年」で、3年経つまで転職は封印しようと思っていた。

2年半が過ぎたころ、ドコモを辞めることに迷いはなくなり転職に向けて動くことになった。

僕の法人営業の成績は、全社でトップクラスということになっており(今思うと大半が幸運が重なったことによるものだったが)自信もついていた。査定の評価も悪くなく、配属先面談の感触もよく、希望を通してもらえる手応えはあった。新卒のときに「こういう仕事がしたいなぁ」と思っていた領域だった。けれど、また数年たつと別の職場に異動となるのが通例でその仕事にずっと携われる可能性は低いし、また地方に行く可能性もいくらでもある。伝統的大企業であり、役職がつくための昇格のスピードも速くない。この会社にいて、自分が胸を張れるような経験や実績を身に着けられるまでどれくらいかかるのか見当がつかなった。
「仕事内容、決裁権、住む場所、、人生にとって大切なことがなんで自分の努力で決められないんだろう?」というのは不思議でしょうがなかったし、それを良しとしているドコモの人たちの感覚もうまく理解できずにいたが、ある時、ハタと気が付いた。

「この会社は普通にいてはまずクビになることはないし、会社がつぶれることもまずない、ブラック企業のように激しい労働を強要されることもない、、自分では気づいてないが、俺は手厚く守られているんだ。その見返りとして俺は自分の人生の裁量を手放している、そういう構造にあるんだ」

40を過ぎた今の僕からすれば当たり前すぎることで、もっと早く気づけよ、と自分にツッコミたくなるが、この時のこの気づきは当時の僕には強烈だった。

「何をやりたいか」というのはどこまでいってもどこか漠然としていた一方で、
「一人で戦え、どこに行っても生き延びられるビジネスパーソンになりたい」という根っこの思いはクリアになっていた

「人から守ってもらう代わりに裁量を捨てる」という生き方や環境は、自分が求め望むものとは真逆じゃないか。その解釈が腹落ちしたとたん、「俺はこの会社を一刻も早く辞めなくてはいけない」という心境になっていた。

自宅のパソコンから転職支援をしてくれるリクルートエイブリックとインテリジェンスに登録。結果、RAから紹介を受けた自社の求人に応募し就職することになった。

東京の本社勤務になれば状況は変わるかもしれない、という気持ちがなかったわけではない。支店の時よりも大きな、社会的に影響ある仕事ができるチャンスもあったと思う。それでも「自分のことを自分で守り、生き抜く力を磨く」という観点では、あまり変わらないだろうと思った。あと1ヶ月ほどで、新しい異動先が決まるという時期で、それを聞いてしまったら決心が鈍る気がした。

カルチャーフィットという面ではRAは抜群だった。個人と所属チームの双方で高い営業成績を上げることができ、在籍した1年間、仕事面、人間関係ともに、嫌な思いをした記憶がない。

それでも、RAに在籍して10カ月が経とうという頃、再度の転職を考え始める。

「自由が欲しいならリスクを引き受けるしかない」

「俺は守られなくても生きていく力を養える厳しい環境で力をつけたい」

ドコモを辞めることを決意させた強烈な気づきが僕を突き動かしていた。この気づきは生きていく上での基礎となった。この考えを下地にした人生の物語をなぞり、演じながら今に至ったように思う。

RAで理想的に思える職場と出会いながらも、もっと大きなリスクをとって、その環境で耐え抜ける力を磨き生き残れれば、どこに行っても通用するような「一人前の自由」を手に入れられるんじゃないか?

僕はそんなことを思っていた。

RAをちょうど1年で離れ、それまでの仕事や大学までの勉強分野とも全く関係のない世界である、金融の世界、”外資系投資銀行”の領域に飛び込むことになった。

(続く)

#nttdocomo #転職   #リクルート


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