見出し画像

【読書感想】ぜんしゅの跫

自宅の角川ホラー文庫が着実に増えていっている。

先日もホラー小説が好きだという事を記事に書いたが、やはり、本屋の角川、とくにホラー小説の段の前に行くとわくわくする。
「粘膜人間」なんて名前は知っているけれど、まだ手を出せていない。
相当にグロテスクらしい。綾辻行人の「殺人鬼」もままグロかったけれど、どちらの方がよりグロいのか気になるところではある。
ちなみにホラー小説や映画は好きだが、お化け屋敷は嫌いである。

13日の土曜日に購入して、14日は終日読むことが出来ず、今日、読了した。
もともと厚みもそこまでなく、5話からなる短編集だったので、するすると読めてしまった。
っていうか、在宅でそんなにやる仕事がなかったので、本を読んでサボっていたからっていう理由なんだけど。在宅万歳。

「ぼぎわんが、来る」の前日譚である「

口裂け女級に有名な怪談話の「わたしの町のレイコさん

後半に行くにつれて語り部の狂気がちらつく「鬼のうみたりければ

「ずうのめ人形」の後日譚「赤い学生服の女子

そして表題の「ぜんしゅの跫

長編であるぼぎわんやずうのめと比べると、怖さは劣るものの、不穏さと気持ち悪さ漂う短編が多かった。
けれど最後のぜんしゅはイヤミスにはなっておらず、ほっこりするお話だった。

「鏡」は相変わらず話し手の「私」がくそ野郎で、ぼぎわんを読んだことがある人ならきっと、「ああ、そうそう、こんな感じのくそ野郎だった」と思うはずだ。
が、話し手よりも気になったのが、浄玻璃の鏡の話と、鏡の中にいた野崎君と、タブレットに写真となって30代の面影で止まったいた真琴だった。
意味深すぎる示唆に、今後が心配でならない。

「わたしの町のレイコさん」は昨年あたりにオカルト系YouTubeにハマって、在宅で仕事をしながら流していたことがあった。
その時に「カシマレイコ」の話を知ったのだ。
動画を埋め込もうとしたら、思いのほかサムネがちょっとショッキングだったので、noteの平穏を守ろうと思い、テキストリンクにすることにした。

オカルトって突き詰めて調べて行くと、様々な情報がないまぜになっていたりして、面白いなって澤村先生の本を読んだり、上記の動画を聞きながら思った。
その地特有の話も付加され、ご当地怪談となりつつも、しっかりと回避経路を確保して流布されている。

ちなみに「お馴染みの人たち」が出てくるのは最終話のぜんしゅなのだけれど、「ああ、澤村先生お得意の手法っぽい」と思ったのは「鬼のうみたりければ」という話。

幼少期、山で遊んでいた双子は、兄のみ行方知れずとなって、弟だけ下山してきた。それから数十年の月日が流れ、四十手前になった弟夫婦の元に、件の兄が突然帰宅してくる。
義母の介護と無職の旦那の狭間でかろうじて立ち回っていた妻にとって、重荷になる存在かと思いきや、アルバイトも決まり、なんなら母の介護もしてくれる義兄。好転し始めたはずの家庭は何故か次第に不穏な空気に包まれていく。

そしてこの全ての過程を語っているのがその妻。
彼女は昔、オカルト雑誌編集者の野崎君と知り合いで、そのツテを頼って、わざわざ舞台である兵庫から東京へ上京してきている。
文章は全て彼女が野崎君へ話している口語をそのまま文字に起こしている形となっている。
このやり方がなんとも澤村先生らしいのだ。

他の話も第一人称で語り部が話を進めている。けれどそれは、きちんと整理され、一対多への話し方だ。
けれど「鬼のうみたりければ」は一対一の対話形式。
主観的に話しを進めつつ、別の主観からも同じ話を解剖していく澤村先生の書き方が好きだったりする。特にぼぎわんとずうのめは視点が違うと、同じ事象でも意味が異なってくる。
その「別の主観」を読者に投げているような話だったのだ。

そしてその話の内容も、もしこれが澤村先生の書籍ではなく、例えば他の作家さんの推理小説の一部だったら、頭がおかしい人の話と理解し、当人を取り巻く環境や背景を考えてしまう。
けれどこの話はホラー作家の書籍の中にある。
これを頭がおかしい人の話として捉えることもできるし、あるいは、と思ってしまう。
そこがまた面白いところでもある。

春が近づきぽかぽかと、美しい青空が広がる日が多くなってきた。
秋の夜長に読むホラー小説も楽しいけれど、青空の下、暖かい日差しを浴びてホラー小説を読むのも実は気味が悪くて好きだったりする。

おしまい

この記事が参加している募集

頂いたサポートは、note記事へ反映させます! そしてそのサポートから、誰かとの輪が繋がり広がりますように...