【楽園の噂話】 Vol.26 「尊厳バブル」 (No.207)

 以前読んだアフリカの話にこういう実話がある。

父のカタキを取るために15,6歳の少年が銃を持ってカタキの家に行ったが、報復する代わりにその男の娘を嫁にもらうことで許したという話だ。

相手の男は家族もあるくらいの年上であったが銃を持っているとはいえ、少年と心から話し合い、まだ3歳の娘を大人に育ったら必ず嫁にあげると約束をし、それをきちんと果たしたのだ。

この話を読んでもこの二人の関係には、相手を下に見るようなところはない。

子供でも父のカタキを取るために人を殺しに行っているのだから見下すことなど出来ない。少年だが本気なのだ。

更に相手が予想と違い、良い人であったために殺すことが出来ないという葛藤まで抱えたうえに、誰も出来なかった許しを選択し復讐の因果を断つ偉業を行ったのだ。

この話は現地でもとても珍しいものだそうだが、私達には珍しいを超えて神話のようにも感じる。

カタキを取ることや、償いに娘を差し出すというところは確かにあまりにも私達の生活からかけ離れすぎていてピンとくる事が無いが、少年と家庭を持った男が同じ立場で話し合い、約束をしたうえに、その約束をきちんと果たしたところには、なんとも生々しい違和感を受ける。

いったい私達の生活のどこに、歳も大きくかけ離れた他人同士がまともに話し合い、そこで双方納得の約束をして、十数年経ったあとにきちんと約束を果たすなんてことがあるだろうか。

これこそ本当に想像も出来ない。

私の人生を尺度に使えば、こんなことは絶対に無いと断言できる。絶対に途中で反故にする。

こんなにお互いが腹を割って話し合い、約束をするなんてことはない。

ぎゃあぎゃあ適当にお互いが主張をして何も解り合うことなく終わるだろう。

この場合だと、結局解決は銃となる。

この方がよっぽど現実的に感じる。

それほど人と人との関係に溝を、距離を、温度差を覚える。

相手を下に見る癖が社会的にも付いている気がする。

この私達の社会は、他人に敬意を払い尊敬することが出来ない社会だと思う。愛の冷えた社会だ。

人が人に関わりたくない、と感じる社会には尊敬が欠けているのだと思う。他人を値踏みし、自分より下と見切った相手はバカにして良いという価値観があるのではないだろうか。

何処へ行っても常に互いを値踏みしけん制し合い、あげくバカにされて真っ当に扱ってもらえないのだから、他人と関わりたくないと考え引きこもるのは当然ともいえる。無理ない話だ。

私はこのアフリカでの話から、ひょっとしたら誰もが平等であり同じであるという考え方が、人と人との間から尊敬の念を奪っているのかもしれないと考えた。

ソマリアでは長老という存在がコミュニティ内部で尊敬の対象となっている。トラブルなどがあった時は彼を中心に方針が決められ解決へと導く。

これは珍しいものではなくてかつてはどこの国でも地域でもこうだった。ただソマリアでは未だにこの方法が存在しているところに珍しさを覚えるのだ。

当然だが長老を頂点としたこの社会にも問題はあり、ヒエラルキーで下の階層に位置する存在には、辛いことがある。

これと違って私達の社会では表面上は誰でも同じという「体」で成立している。優しかろうが信頼感があろうが優秀であろうが、逆に悪辣であろうとも性根が腐っていようとも過去や現在に犯罪を犯していようとも、誰であっても同じというルールが敷かれている。

もちろんこれは良い面もある。

いわゆる身分というもので、その身分差で大変苦労があった時代を経験してきたという歴史を一応は学んでいる。だから誰でも同じ扱いを、一応はしてもらえる約束には今でも感謝や恩恵を強く感じる人が多いのだと思う。

だが、こんなこと自分でも書いていて白々しいと思う。

こんなことは嘘だ。これは誰でも知っている。

みんなが同じ?

ありえない。

そんなことは、おそらくは一度も無い。

池袋の事件を引き合いに出す必要もないくらいに、生きていて平等を感じたことなんて無かったと思う。

誰もが誰かを自分の上か下に押しやることを繰り返している様を見てきたはずだ。

人によって態度を変える瞬間を見てきたはずだ。

対応を、評価を、基準を、視線を、視点を変えられたところを見てきたに違いない。使う定規を変える瞬間を。

本当にこんな平等であったり、誰でも同じであるなんていう「体」は、全くもって成立なんてしていないし、成立させようという努力すら感じられない。

結局は、時の政権のように、解釈が悪用されるのだ。都合の良いところだけ切り取り、使い分けをする。

ではみんなが同じという「体」が作った平等が、現実にはどんな機能をはたしているのか。

それはただの厳しい負担だ。

平等といって、弱い人にも均等に負担を負わせる。少額でなんとかその日を懸命に生きる人にも月単位や年単位で重い税を課して僅かな手持ちさえぶん取っていく。この奪われる弱い人にとって、平等という価値観は果たして意味があるのだろうか? ただイタズラに苦しみをより多く背負わされているだけではないのか?

身分による苦しみが人の差別心から発生したと考え、その解決として差別心を生み出す人の「心」を奪うことを目的としたのであれば、現代の苦しさ、悲しさはとても良く理解できる。

それほどに、ひとりひとりの心は小さくされ、冷たくされている。

ほんの僅かな温かみや気心さえ、人に与えず見せずの生活が当然のようになっている。

それを持ち、見せることは弱みであると指摘する風潮が常識のような顔で日々の生活を闊歩している。

差別、平等、ルール、基準。

こんな言葉で言いくるめられ、結局出来たものは何なのか。

ただの氷のような冷たい社会だ。金と血脈でしか人として扱ってもらえない世界だ。

大多数の人たちは、私のような者達は、この金と血脈を持つものにただ従い気に入られるようにしっぽを振ることで生きながらえることが許可される。

ペットであり奴隷であり玩具であり、ロボットである。

弱い人が負担を背負わされる。でもそれを助けることが許されない。

差別、平等、ルール、基準・・・。

こんな言葉が私達から「心」を奪った。

弱い人を気の毒に思い助けようとする心をすら奪ったのだ。

誰もがそんなことを「思っては」いけない世界にされてしまったのだ。

定期的に行われるチャリティという興行でだけ、その「心」を使った慈善行為を擬似的に行うことが許可される。

そしてその金は利益として計上され、消えていく。

人が生まれてからいただき備わっている心、愛、尊厳は、興行として築かれたところでのみ使用を許可され、それに多くの人が不満を抱くことなく従い財産を、愛を、人生を吸い取られていく。

人はお金以上に気持ちや心を交換、交歓し合いたいと望んでいる。

これは抑えられない。これが人生の喜びであると断言しても差し支えないほど、人はこれを好む。生物はと言い換えても良いかもしれない。動物を見ていてもそれを感じるからだ。

この生命の必然である行為を現在では社会的には許されないこととされる。無いこととされている。

もしあるとしているのなら、物資的には豊かなのだし経済的にも豊かなのだから飢えたり住むところがない人なんて皆無のはずだ。気の毒に思う心が許可され社会の中にその存在が認可されているなら、弱い人は社会が救っているはずだ。

でも、それはない。

吸い上げた税金は絶対に還元しないという鉄の掟があるのだから、給付金なんて彼らには犯罪とカウントされる。

当然生活保護なんて絶対に出ない。

金や血脈を持つ者の言いなりになる悪人達に加担することと、この手の福祉はトレード扱いなのだ。蛇口はとっくに悪人が握っているから。

人の心を壊し、フラットにすることで平等を実現しようとする行為は過激という言葉では足りず、ただの壊滅的な破壊行為だ。生きることの根底を壊している。あらゆる暴力を使って人の心を破壊し制限し、ロボット化させることで実現を図った。

魂も愛も尊厳も知性もすべて奪い、破壊する。

これらを失って得られた平等とは、ただの荒野にすぎず、もはや誰もが救われない不毛の地だ。

ゴチャゴチャだから一旦白紙に戻そうという、あまりにも乱暴な行為が過去に行われその続きが私達の現代でも継続し、苦しみと冷たい荒野の世界を人生の舞台に据えられてしまっている。

当然そのゴチャゴチャという考えは、上手いこと奪いとって利益を得たい気持ちから出ている。

でも、それでも、命あるものは誰かと心を、気持ちを、愛を伝えあわせずにはいられない。

どれだけ報われないものであると判っていても、してしまうのだ。

社会内での他者への尊敬の心が階層を作り、差別が生まれ低階層は不満を溜める。そして反発や離反、暴動や革命などを繰り返し、今のような表面上はフラットな社会へと移行したのだと考えたとしても、一方でこの社会にも結局差別はある。だが表面上は誰もが同じでフラットという約束があるゆえに、差別は「無い」ことにされる。これは差別のあることが認められる社会より残酷である。

フラットな扱いが表面上でも前提となると、人との関係に尊敬や愛が取り除かれることになってしまう。

つまり尊敬や愛を差別の根拠とし、これを壊しにいったのだ。

同時に人の心は日を追うごとに冷え、壊れていった。

尊敬や愛が罪とされたのだ。確かに目には見えないし手にも取れない。それだから無いものとして排除された。

誰の所有物でも無いのだから撤廃もできるし、尊敬はその社会内での上層の者達と同一になっていたのだから、社会内で不満を溜めた民衆を煽れば多勢に無勢で進められたのだろう。

これも尊敬を受けるものが謙虚なものであれば、こうはならなかったのかもしれないが。

愛や尊敬が敵視され批判される。これを無くせといきり立つ。

でも、その果てにあるものは何か?ただのロボット社会だ。

人はロボットではない。ロボットにはなれないのだ。

人には人を愛したり尊敬したりされたいという、抗えない欲求があるのだ。

しかしこの日本で、この欲求が満足行くほどに上手く交歓出来ている人たちがどれほどいるのだろうか?


いる。

残念ながらいる。


カルト宗教の形でそれが行われ続けているのだ。


フラットな社会で欲求を満たせないものの受け皿として昔から彼らが暗躍している。

人が絶対に持っている尊敬や愛の行き先を、財産であるこの貴重な心の行き先は、ヤクザそのものの悪人たちの元へと流れるように道行を舗装されてしまっているのだ。


悪人どもはこの注がれる尊敬や愛を「換金」する。

まるでパチンコの屑鉄のように金に替える。

なぜなら尊敬や愛は「価値が無い」ことになっているのだから、持っていても彼らには何の意味もない。

何の躊躇もなく悪人は愛を換金する。

この下劣な姿は、その枠に居ないものには吐き気がするほど汚らしい。

だがこのおぞましい換金行為は加速する。

より多くより高く、露骨なまでに尊敬を強制し金額を釣り上げ出すのだ。

それでも、この枠に組み込まれたものには、異常性は感じ取れない。

あまりの悪臭に誰もが逃げ出す状況であっても、彼らは耐える。

繰り返しによって自然と作られた脇道や人の足跡で汚れ床に出来た導線のように、その道を知ったものは平坦なその道がまるで下り坂に見えるのだ。戻るには果てない上り坂が待っているように見えてしまうのだ。

彼らは永遠に尊敬や愛を明け渡すことを強制され、悪人はそれを換金する。

そのうちに、渡すときには予め換金しておくように指示されるのだ。

もともと形をなさず、手にも取れず目にも見えない愛や尊敬の、存在する資格が破壊されたことで、却ってそれには値段という形で価値がついてしまったのだ。

それまでは大切であったり良いものであったりと誰もが思いながらも、その素晴らしさをただ楽しみあっていたものが、破壊され許可制にまでされたのだ。

一体何の権利で?一体何様のつもりなのか?

しかしこういうことがあっさりと通過してしまう。恐ろしいほどあっさりと誰もが受け入れる。

人が無知であればあるほどに、こういう大きな愚かさが鵜呑みにされるのだ。

昔からずっとこんなことが繰り返されているのだ。

今もちょうど、全く無意味で無価値な紙っペラのマスクに大金が動き、人々が奪い合ったように。

空虚で無意味であろうと人は奪い合い、大切で掛け替えのないものでも平気で投げ捨てる。

このときの判断にはひとりひとりの知性がまるで働いていない。

あるのはその場のノリだけ。

つまりこれはバブルだ。

嘘偽りを持って旗振りが人を煽り、それに乗せられた人たちが自分での一切の判断を放棄し悪人に従う。

そして大量の人を都合に合わせて操り、一部のものたちが彼らの財産や権利、そして人生、命を根こそぎ奪っていく。

この繰り返しで悪人たちは肥え太り権力を得てきたのだ。


だがこのバブルは弾けた。


この事実を知らずに、未だに同じことを繰り返し、その手口にすがっている者達がいる。

今までの地位が、これまでの財産が、価値がまた再び戻ってくるという妄想を抱く者たち。

これまでに繰り返し使われ手垢にまみれた悪事の手法を真似て、もうけを得ようとする者たちもいる。

でも、もう上手く行かないのだ。

尊敬や愛という価値観も存在も、当然だが未だに人心から消えずにある。

そしてその心は向かうべきところに向かいだした。

これは決して難しい理由ではない。

悪人のバブルが弾けたのは、真実が知られるようになったからだ。

独裁を行う企業や国家は必ず情報を統御し真実を隠蔽する。

しかし真実が知られるようになった今、嘘で作られた高速道路を使うものはなくなり、尊敬も愛もすべてがまとまりを見せ、向かうべきところへ進みだしたのだ。



【楽園の噂話】 Vol.26 「尊厳バブル」 (No.207)


おわり




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