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止まない雨はない、でもまた雨は降る

 私の両親は私が五歳のときに離婚している。理由は父親の仕事が原因で、日々家にいるときでさえ時間に追われているほど仕事に好かれた人だった。夫婦仲もあまり良くなかったわけだが、ある時私がひどい高熱で苦しんだ時があった。あの時は一週間がたっても一向に良くならず、母親も焦る気持ちを抑えて私を看病していた。
 仕事で忙しかった父親は、いつもと変わらない日常を送っていた。普段、ひとつ屋根の下で暮らしている家族なはずなのに、生活している世界が全く違うような、そんな不思議な光景だった。

 「息子の熱が一向に下がらないんだけど」母親はすがる思いで夫に話しかけた。
 「薬は飲ませているのか?」
 「薬局に売っている熱さましは飲ませているけど」
 「病院には連れて行っていないのか?」
 「明日の朝、熱がまだ引いていなかったら連れて行こうと思う」
 「なんだ、行っていないのか。そういうのはプロに見てもらうのが一番だろ」
どこか冷たさを感じる言葉が並ぶ。
 「お前がいくら頑張って看病をしたところで、長引くだけだろ。医者に見てもらえば的確な判断をしてくれる。俺たちはそれに従うのがベストだろ」

 理屈はわかる。しかし自分たちの子供を守るのは自分たちでしかない。きっとこの人はこれから先も理屈を語り、その理屈に則った生活を私たちにさせる気である。そんな生活、誰が望んでいただろうか。この人と出会い、付き合い、結婚した。今思い返してみても明るい未来しか見えていなかった。結婚してから半年で子供を授かった。産婦人科で検査をし、妊娠したことがわかった時、嬉しさのあまり居ても立ってもいられなくて急いで夫に連絡した。電話口で夫の喜びようも確認できた。

 「ってか、今から家帰ってくんだよね」
 「そうだよ。家に着いてからの報告でいいってこと?だって一秒でも早く教えたかったんだもん」

 その日は家に帰ってからも夫婦揃って落ち着かなかった。お腹の中に一つの生命が宿っている。なんだかまだ産まれてもいないのにすでに三人家族で生活しているように感じてしまっている。自分で自分のお腹を撫でる。掌に感じるこの暖かな温もりは、お腹の中から感じるものだろうか。おへその少し上に掌を当てる。医学的にはへその緒を通して栄養を赤ちゃんへと送り込んでいる。でもその時の母親は体全体で栄養を送り届けたいと思っていた。お腹に手を添えていた時の母親は、一人の女性から母親の顔へと変わっていった。

 「子供が生まれてくるってことは俺も今よりもっと仕事頑張らないとな」
 「飢え死にしない程度にちゃんと稼いでね」
あの頃が懐かしい。

 しかし、母のお腹が大きくなるに連れて父親は家庭から離れて行った。
 出産日当日、不安な気持ちと比例して母の陣痛は始まった。陣痛の間隔が短くなってくると不安は何処かへ消えて行った。
 結局その日、父は病院には来なかった。

 「仕事が立て込んでいて行けなかった」

この日を境に私の父は仕事を理由にする人間になった。
 そして両親は私が産まれてから五年後、離婚した。母から告げたらしい。
 「五年我慢したからいいでしょ」それが母の言葉だった。
 私は当然のことながら母親の元で暮らすことになった。母はシングルマザーとして私を育て続けた。母親しかいない家庭環境。それもまた私を少数派の部類へと導いた。

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