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獣医

この小さな街で、犬猫専門の動物クリニックを開業して5年。
わたしは喋るとやさしいし腕もいいのに、愛想がないのが残念な先生だと言われているらしい。それでも通ってくれる飼い主も年々増え、おかげで毎日忙しく過ごしている。

その仔犬に出会ったのは去年の暮れ、最後の診察日だった。
診察時間も過ぎスタッフたちと片付けをしていたら、近所のM夫人がクリニックのドアをノックした。
隣接する公園の茂みの中で野良犬が子どもを生んだようだと、近所の飼い主たちが数日前から噂していたのは知っていた。
夫人は、エサをやっても食べないその母犬や仔犬たちを、助けてやってくれないかと頼みにきたのだ。気になり、ずっと面倒をみていたらしい。
わたしは了承し、雪の降る中スタッフたちがそっと連れて戻ってきたが、やはり状態は悪かった。

やせ細った母犬は、あまり体力が残っていそうもない。3頭の仔犬のうち2頭はまだなんとか動いているが、これも厳しそうだ。そして残りの、いちばん小さな仔犬を母犬の腹から引き離すと、スタッフたちが小さく悲鳴をあげた。
かろうじてちいさな口らしきものはあるが、その顔には目も鼻もなかったからだ。先天的なものだろうが、私にも初めてのケースだった。
とりあえず母犬と2頭の仔犬たちは、保温や点滴、授乳など済ませて様子をみることにした。

問題はこの仔犬だ。
レントゲン写真にはいびつな頭蓋骨が写り、眼窩も鼻腔もない。食道、気管はあるので口で呼吸も補っているようだが、生きていける可能性は低い。
保温し、慎重にシリンダーで少しずつ授乳しては呼吸させ、また授乳し呼吸させる。
「あとは親子ともども体力次第です。あまり期待しないでください」
人ができることには限りがある。涙ぐむ夫人にはそう言ったが、松飾りを外す頃になると、ひと息つけるほど回復していた。
母犬と2頭の仔犬たちは、退院したらM夫人が引き取るという。夫人は去年の秋に愛犬を亡くしていた。情が移り離れがたくなったのだろう。

それからひと月。
例の仔犬だが、まだ生きている。
毎日仕事を終えたあと、わたしはその仔犬を連れてひとり暮らしの部屋に戻る。
どうやらわたし同様、彼女もこの時間になるとほっとするようだ。分かるのは音だけだ。日中のクリニックは騒がしくて疲れるのだろう。
ソファにおろしてそっとなでてやると、嬉しそうにすり寄る。常に口を開けているその見慣れた顔が、ニコッと笑っているようにも見える。
「わたしも、お前みたいに笑えたらいいんだがな」

手術した人工皮膚のつなぎ目を指でなぞりながら、語りかける。
開業する数年前に事故で顔をなくしたわたしは、わずかに微笑む程度にしか表情がつくれない。新しい顔は肌触りも見た目も人の肌と変わらないが、伸縮性が少ないからだ。
顔をつくっても笑えない者と顔がなくても笑える犬。
こうして寄り添う日々がいつまで続くかはわからないが、少しでも長ければいい・・・
そんな感情を抱くようになった自分自身に、わたしは正直驚いている。


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