「金木犀の香り」の正体

「ねぇ、めっちゃ金木犀の香りしない?」

大学生の頃、友人たちとキャンパス内を歩いていたらその中の1人が突然つぶやいた。他のメンバーもなんとなく同意していた雰囲気だった。しかし、私はその「金木犀の香り」というものが全くわからなかった。その時はとりあえずその場の雰囲気に合わせた反応をしていたが、どんなに嗅覚に神経を注ぎ、何かしらの特異な匂いを感じ取ろうとしてみても、何もわからなかった。

「金木犀の香り」がわからなかったところで、日常生活に支障はない。勝負に負けたり、自分が特別に損をするわけでもない。
それなのにあの瞬間、気付けばものすごくショックを受けていた。「金木犀の香り」をわからない自分が、「金木犀の香り」によって季節の変化を感じられる友人と比べて教養的な面で劣っているような気がした。
あの出来事以降、私にとって金木犀は一種のトラウマのような存在になった。

克服の準備

夏の終わりを感じ始めた頃、新発売される金木犀コスメの情報を見かけることが多くなった。たくさん拡散されていたり多くのいいねがついた投稿を見ては、金木犀の人気ぶりを思い知らされるとともに、「金木犀の香り」がわからなかったあの瞬間が不意によぎった。

世の中には「金木犀の香り」がわかる人が多いのだろうか。
金木犀コスメを手に入れれば、私も「金木犀の香り」がわかる人になれるかもしれない。
そう思い立ち、すぐさま「金木犀の香り」の香水を予約した。

克服の時

予約してから随分経ち、予約したことも忘れかけていた頃、香水が届いた。これから私は、ついに「金木犀の香り」を知る。また一つ大人の階段を登るようで、胸の高鳴りを感じた。
おそるおそる蓋を開け、そっと手元に出してみる。嗅覚に全神経を注ぎ、香りを覚えることにとにかく集中する。これが「金木犀の香り」か!と思ったのも束の間、嗅いだはずの香りの記憶がぼんやりと消え、数秒後にはまた元の状態に戻っているようだった。それから何度も手元に出しては集中して香りを嗅いでみたものの、全く掴みどころのない香りのように感じた。

例えば、フルーツならピーチやオレンジ、花ならローズやラベンダーなどは定番で比較的イメージしやすい香りではないだろうか。そんなわかりやすさやイメージのしやすさが「金木犀の香り」からは全く感じられなかった。「甘い香り」と言ってしまえばそれで済むかもしれないが、もっと端的に、的確な言葉で表現できるような気はしなかった。
私はまたしても金木犀に壁を感じ、克服はお預けとなった。

突然の訪れ

それは突然の出来事だった。
職場からの帰り道、クタクタの状態で自転車を漕いでいた。家の外にまで木が生い茂っている、古くてこぢんまりとした家の前を通った時、不意に花のような甘い香りがした。普段その道を通る時に嗅いだことのない、明らかに際立った香りだった。

これが、「金木犀の香り」か!!!

初めての感覚だったが、何故か自分の中に確信のようなものがあった。克服とまで言う必要のないくらい、ごく自然な出来事だった。さらに、その後も特に家が多い街中で同じような甘い香りに気付く瞬間が何度かあった。

これは、「金木犀の香り」だ!!!!!!

香りに気付く度に、確信は揺るがないものになっていった。

「金木犀の香り」の正体


香水を嗅いだ時には「これが『金木犀の香り』です」と提示されていた。ただ目の前の香りを嗅ぐことに集中していた。マスクもしていなかった。それなのに、結局「金木犀の香り」がわかったのは大抵クタクタで、金木犀のことなど何も考えていなくて、マスクをしていたときだった。2回目以降に「金木犀の香り」に気付いたとき、初めて香りに気付いた古くてこぢんまりとした家の前の道や、それ以降に香りに気付いたさまざまな場所のことを思い出した。

香りで記憶を呼び起こすなんて、街中でふと香った香水に昔の恋人を思い出すみたいで、なんだかずるい。
金木犀って、こんなに色気のあるものだったんだ。

香りに気付くうちに、そんな風に思うようになった。

香りは目に見えない。だから私が感じ取った「金木犀の香り」は、昔「金木犀の香り」がわかったあの子が感じ取った香りと同じものかは確かめようがない。香りを覚えるタイミングも、香りに気付く場所も、人によって千差万別だろう。

「金木犀の香り」の正体。
それは、記憶や思い出も含めた、秋にふと感じるあの甘い香りなのではないだろうか。きっと人それぞれの「金木犀の香り」があるのだろう。「金木犀の香り」がわからなくて落ち込んだあの瞬間も、私にとっての「金木犀の香り」の一部なのかもしれない。

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