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⭐土器通信  ~南関東地域(東京、埼玉県)=古代では武蔵の国 における〈坏〉の切り離し技法と底部調整の話を中心に。



a.切り離し技法~ヘラ切り→糸切りへ

この地域でのヘラ切りは、8世紀第1四半期までです。この時期は、まだ東京に須恵器の窯はありませんから、ヘラ切りの須恵器は、埼玉県や浜松の湖西窯などの搬入遺物の話です。
 ところで、糸切りの切り離し技法には、静止した粘土塊から、器の形になったものを切り離す静止糸切りと、回転台で回転している粘土塊を器の形にしつつ、切り離す回転糸切りの2つの方法があります。南関東の須恵器の糸による切り離し技法は、8世紀の第2四半期にはじまります。最初に静止糸切りの須恵器が現れます。それは2~3ミリ毎に直線に区切られた静止糸切り痕が底部に残る須恵器が現れることでわかります。。その後8世紀第3四半期になりると底部に渦巻き状の糸の抜けた跡があらわれます。これが回転糸切り痕です。その後、9世紀代、10世紀代とずっと回転糸切りのままです。
南関東では、ついに10世紀の第4四半期で須恵器は、なくなります。

b.底部調整の話

須恵器の坏は、粘土塊から切り離した後に、
底部を調整します。ヘラ切りの場合も、糸切りの場合も、です。

調整は

1.全面手持ちヘラ削り

2.外周手持ちヘラ削り

3.全面回転ヘラ削り

4.外周回転ヘラ削り

5.底部回転糸切り未調整(切りっ離し)

この底部調整の変化は、8世紀の中頃から9世紀の初め、つまり奈良時代の後半の出来事なんですが、おおよそ、この順番で下に行くほど年代があたらしくなります。
 南関東の場合、それまでヘラ切りだった須恵器坏に、8世紀第2四半期頃に静止糸切りが出現しますが、その頃の底部調整は、1の場合が多く、8世紀第3四半期に近づくにつれ、2.3.4が増えてきます。そして8世紀第3四半期になると未調整、切りっぱなしの須恵器が、初めて出現します。大体全体の1/3くらいの割合になりるでしょうか。
そして9世紀第1四半期には、出土するすべての須恵器坏は、ほぼ全部切りっぱなしになります。

c.器形の変化

8世紀第2四半期にそれまで丸底だった底部が、平底になります。
それは平底盤状坏と呼ばれるの口径が底径の1.5倍前後くらいの皿に近い器形です。
それから新しくなるにつれてだんだん口径と底径の差が大きくなるとともに器の高さが高くなりまして、9世紀の中頃には口径は、底径の丁度2倍になります。つまり底径6センチなら口径12センチということですね。
その後もどんどんその差は、大きくなりまして底部が小さく口径が開いたような形に変化していき、10世紀第4四半期頃に須恵器は、焼かれなくなってしまいます。(図を載せることができれば載せますね。)

d.須恵器の切り離し技法がヘラ切りからなぜ糸切りに変わったのか?

これに関する考古学側の一つの仮説をご紹介します。

〈国分寺造営準備説〉

1.まず、南関東(武蔵の国が中心です。)では8世紀の第2四半期(725~750年)にヘラ切りから糸切りに切り離し技法が変わる、ということをもう一度思い出してください。それから瓦には切り離しに糸切り技術を使いますし、土師器も糸切りで切り離すという説が有力なんです。
以上のことも同じく予備知識としておいてください。

2.国分寺造営の詔~741年~聖武天皇の時代です。具体的には全国に国分寺と国分尼寺を建立せよという律令国家からの全国の行政単位(いまの県程度)への指令です。

3.これは大化の改新(645年)以降の国家政策で、そのために聖徳太子が国史のなかに出現したと言っていいと思います。大和は、中国の圧力を含む影響で仏教で国を治める方針にしたわけなんです。

4.お寺を建てるには、ある一定の時間がかならず必要になります。お寺を建てなさいと言われてすぐにお寺はできない。お寺にはお坊さんと本尊や経典が必要です。ですから聖武天皇の詔がでる少なくとも10年くらい前からいろんな準備をしただろう、という非常に現実的な想像力の産物が、この国分寺造営準備説なんです。

5.そして、お寺の坊さん、仏像、経典、それ以外にもお寺の成立に必ず必要なものがまだあります、考古に関係する、特にぼくみたいに土器の勉強をしてきた人間には、お寺の成立に必要になる仏具やお寺の屋根を葺く瓦にすくなからず関心がいきます。そして、この瓦や仏具を国家や各行政単位の責任者は、どこからか調達してこなければならない。つまり国分寺造営には、その調達の時間が必要である、というのが、この説の中身。

6.瓦は粘土を捏ねて成形し、焼いて作るしかありません。では仏具はどうするのか?お寺に使う器は、金属器なんですが、金属器を作るには大変な手間と費用や技術がいります。それですでに儀式で使われ、古墳の副葬品としても使われていた須恵器を金属器の代用品にしようとしたんです。

7.そういうことで10数年くらいまえから、各地で瓦とか須恵器を焼き始めます。また、奈良時代の直前(7.世紀後半以降)から供食儀礼に役所で須恵器を使うようになると考えられるため、須恵器の需要が高まる、ですから瓦と同様に須恵器は国が場所も職人も管理するようになるわけなんです。

8.ところが、大量に必要になるため技術者が、つまり須恵器工人や瓦職人も足りなくなるわけなんです。そうすると近くの村で土師器を作ってる人たちも、みんな駆り出すわけです。
そこで何がおきるのか、実は須恵器工人が、瓦職人や土師器職人の製作技法をいろいろ取り入れる、ようになる、また須恵器工人も土師器職人に製作技法を教えたりする、つまり技術交流が興るわけなんです。
それで→須恵器が糸切りになる。大体糸切りの方が早くて確実なんです。ぼくらでも糸切りはできますが、ヘラ切りは、簡単にはできませんから。

9.これらが、8世紀第2四半期くらいから須恵器が糸切りになる理由。
国分寺造営準備説の中身です。

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