たどりつかなくても 考えだけが そこへ及んでいる

わたしたちは、完璧じゃないのに、完璧な状態を知っている……?

多くの人は、ひとつの家庭で幼少期を過ごす。言い換えれば、ひとつの家庭しか経験できない。だから、それがどんなものであれ、正統なる家庭のすがただと認識する。

それで、ふとした瞬間に、たとえばスーパーでお菓子を買ってと駄々をこねる子供に、げんこつで対処する親なんかを見たとき、はじめて目にするそれにぞわっとする。

正統から逸脱したものにたいする恐怖や、驚きが、湧きあがる。それくらい、自分の家庭をふつうのものだと強く感じている。

一方で、自分の知っている家庭のすがたが、完璧なものではないことも、知っている。ドラマで見るような、見本のような家庭が、現実にあろうことを、なんとなく予測している。

現実にはないかもしれない。なさそうだ。けれど、あるかもしれない。そう思いこんで、生活のどこかで、それを目指そうとしている。

完璧じゃないものを見て得心する。ひとりの人間だろうと、ひとつの状況であろうと、完璧なものはこの世界に存在しない。かつて古代ギリシャ人が完璧なる美しい円だと眺めた月が、実際はでこぼこで、裏表の表情すらまったくちがうものだったというように。

それが普遍。であるにもかかわらず、わたしたちは、完璧でないことを嘆く。本来的には完璧でありたいと願っているのだ。ただし、完璧な状態を知らなければ、それを願うことだってできはしない。つまり、わたしたちは「完璧」をどこかで見聞きしたことがある、ということになる。

もちろん、物語のなかで完璧を見た、と考えられる。実在しないものの存在を知ることは、可能だ。ドラゴンや一角獣のように。それらは、多くの人が実在しないことを知っていながら、その存在そのものは知っている。

けれど、物語をつくるのもまた人だ。その人が完璧だったのかといえば、可能性は低いだろう。

私たちは完璧をたしかに知っている。どこでみたのだろう? その情報は、どこを出発点にしているのか。記憶はないのに、情報として持っている。記憶(=経験)とは関係がない情報(=遺伝子)? 遺伝子は、記憶媒体だ。しかもそれは、個々人の脳に蓄積される記憶とは、関係がない。

しかし、それでも問題は解決しない。遺伝子はいったいいつ、完璧などというものに関する情報を手に入れたのだろう? 完璧な人間がいないように、完璧なる生命体もまた存在しないはずなのだ。

完璧の総体としての生命は、いない。けれど、まったく欠陥だらけだった部分を、その不完全さを克服した、ということならば、生命は歴史的にそれを経験していそうだ。

地球が温暖化したので、高温に耐えられるよう進化した。火を使うようになってから、食中毒が激減した。ことばを話すようになったため、情報伝達がスムーズに的確になって、現在の情報社会につながった。

不完璧(=不完全)を、どこかで1つずつ乗りこえたその結果の姿が、完璧の正体なのかもしれない。鳴き声から言語にかわって、そのとき伝えたかったことが、完璧に伝わるようになった――

不完璧を乗り越えたから、その、「乗りこえた」という経験そのものの情報が、ここ、遺伝子にある。しかし、乗りこえた経験をわたしたち自身がしたわけではないので、その経験は記憶ではない。

世界には、ほんとうは、完璧がある。不完璧だったころの生命体が、心の底から憧れ、待ちこがれた、美しいその姿。概念を見誤っていただけかもしれない。完璧が存在しないのではなく、完璧というものの捉え方をまちがえていた。

不完璧を乗り越えることそのものが、完璧。いま欠けたところがない状態、なのではなく、欠けていたその部分が繕われた、その状態。

ただ、となると、勘違い側の完璧はいったいいつ、どこからインプットされたのだろうか。

やはり、人間は、完璧を知っているのかもしれない。


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